2009年03月14日

もののあわれについて。504

「なかに生ひたる」とうち誦じ給ふついでに、かの淡路島をおぼし出でて、みつねが「所がらか」とおぼめきけむ事など宣ひ出でたるに、ものあはれなる酔ひ泣きどもあるべし。

源氏
めぐりきて 手にとるばかり さやけきや 淡路の島の あはと見し月

頭の中将、
うき雲に しばしまがひし 月影の すみはつるよぞ のどけかるべき

左大弁、すこしおとなびて、故院の御時にも、むつまじう仕うまつり慣れし人なりけり。

雲の上 すみかをすてて 夜半の月 いづれの谷に かげかくしけむ

心心にあまたあめれど、うるさくてなむ。





なかにおいたる、と、口ずさむとき、あの淡路の島を、思い出し、みつね、人の名、が、所がらか、と、不審したことなどを、話し出すので、ものあはれなる酔ひ、しりみりとし、酔い泣きする人もいるだろう。
ものあはれ、なる、酔い、とは、しとやかなる、酔いとでも、言う。

心境を、あはれ、と、使用するのである。
だが、あはれ、とは、すべて、心境である。心象風景のあるものである。

源氏
都に戻り、手に取るばかりの、清らかに見える月は、あの、淡路島で、遠く眺めた月であろうか。

頭の中将
浮雲に、しばし、見えにくくなっていた月が、今は、澄み切って、今後は、平和なことであろう。

左大弁は、少し年をとっていて、桐壺院の御世にも、親しく仕えていた人である。
雲の上の、住処を捨てて、まだ先の長い月は、どこの谷に、光を隠したのか。

思い思いに、歌を詠んだが、うるさくてなむ、面倒だから、書きませんと、作者は、言う。




け近ううち静まりたる御物語、すこしうちみだれて、千年も見聞かまほしき御有様なれば、斧の柄も朽ちぬべけれど、「今日さへは」とて、いそぎ帰り給ふ。



親しみ深く、静かなるお話しは、少々くつろいで、千年も、見ていたい、聴いていたいと、思う姿である。幾らなんでも、今日までは、と、急いで、お帰りになる。




posted by 天山 at 00:00| もののあわれについて第11弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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