2009年02月11日

もののあわれ 411

花散里

人知れぬ御心づからの物思はしさは、いつときなき事なめれど、かくおほかたの世につけてさへ、わづらはしう思し乱るる事のみまされば、もの心細く、世の中なべていとはしう思しならるるに、さすがなる事多かり。




人知れぬ、物思いは、今にはじまったことではない。
このような、世の中、政治や人間関係など、困ったことに、煩わしいことが、増えて、心配することも多い。
何やら、心細く、世の中が、厭わしいのだが、それでも、捨てきれない事が、多いのである。




麗景殿と聞えしは、宮たちもおはせず、院かくれさせ給ひて後、いよいよあはれなる御有様を、ただこの大将殿の御心にもて隠されて、過し給ふなるべし。御妹の三の君、内裏わたりにてはかなうほのめき給ひし名残の、例の御心なれば、さすがに忘れもはて給はず、わざとももてなし給はぬに、人の御心をのみつくしはて給ふべかめるをも、このころ残ることなく思し乱るる世のあはれのくさはひには、思い出で給ふには、忍び難くて、五月雨の空、めづらしく晴れたる雲間に渡り給ふ。




故院の女御、麗景殿と、お呼びした方は、皇子たちも、いなくて、院が崩御されてからは、いよいよ、気の毒な生活である。
源氏の、庇護を頼りに、過ごしている。
その妹の、三の君とは、御所にて、少しお会いした後でも、気持ちが続いて、例の性分ゆえに、すっかり忘れてしまうこともなく、といって、格別の思いもない。
女君は、苦しみ続けたようだが、源氏も、このところ、色々なことで、悩むこと多く、人生の無常を感じるのは、この方を、思い出して、堪えかね、五月雨の空が、珍しく晴れた、雲の切れ間に、お出かけになる。



何ばかりの御装ひなく、うちやつして、御前などもなく、忍びて、中川の程おはし過ぐるに、ささやかなる家の、木立ちなどよしばめるに、よく鳴る琴をあづまに調べて掻き合わせ、にぎははしく弾きなすなり。御耳とまりて、門近なる所なれば、すこし出でて見入れ給へれば、おほきなる桂の木の追い風に、祭のころ思い出でられて、そこはかとなくけはひをかしきを、「ただ一目見給ひし宿なり」と見給ふ、ただならず。「程経にける、お簿めかしくや」とつつましけれど、過ぎがてにやすらひ給ふ。折しもほととぎす鳴きて渡る、催し聞え顔なれば、御車おし返させて、例の惟光入れ給ふ。

源氏
をちかへり えぞ忍ばれぬ ほととぎす ほのかたらひし 宿の垣根に

寝殿とおぼしき屋の、西のつまに人々居たり。さきざきも聞きし声なれば、声づくり気色とりて、御消息聞ゆ。若やかなる気色どもして、おぼめくなるべし。


ほととぎす こととふ声は それなれど あなおぼつかな 五月雨の空

「ことさらたどる」と見れば、惟光「よしよし植えし垣根も」とて出づるを、人知れぬ心には、ねたうもあはれにも思ひけり。




何ほどの、支度もせず、目立たぬようにして、お付の者もなく、お忍びで、中川付近を通ると、植木などの、趣のある小さな家で、よい音の琴を和琴に、合奏している、賑やかな響きを聞いた。
お耳にとまり、門に近いところなので、車から少し乗り出して、中をご覧になる。
大きな桂の木を、吹き過ぎた風の運ぶ香りに、祭りのことが、思い出されて、何となく感じがよい。
一度たずねた所だ、と、気づくのである。
すると、気持ちが動く。
あれから、時が経ち、覚えているか、どうか。と、気が引ける。が、素通りしかねて、ためらうのである。
丁度その時、ほととぎすが鳴いた。
さも、この家を訪ねよ、というばかりである。
車を戻させ、いつも通り、惟光を、遣わす。

源氏
昔、少し立ち寄った、この家の垣根に、ほととぎすが舞い戻って、恋しさに堪えかねています。

寝殿らしい建物の、西の端に、女房たちがいる。
以前にも、聞いたことがある、声なので、惟光は、咳払いをして、様子を見て、消息をお伝えする。
若々しい女の人たちの大勢いる様子であり、誰からかと、いぶかっているようである。


ほととぎすが、訪れて、鳴く声は、確かにほととぎすではあるが、五月雨の空が曇っていて、どうもはっきりとは、解りません。

わざと、解らない振りをする。
と、惟光は、思い
惟光は、よろしいでしょう。植える垣根も、見分けがつかないと、でるのを、人知れぬ女の心のうちには、恨めしく、残念にも、思ったのである。

ねたうもあはれ
恨めしく、残念であると、あはれ、が、使われる。




さもつつむべきことぞかし。ことわりにもあれば、さすがなり。
「かやうの際に、筑紫の五節が、らうたげなりしはや」と先づ思い出づ。いかなるにつけても、御心のいとまなく、苦しげなり。年月を経ても、なほかやうに、見しあたり、情すぐし給はぬにしも、なかなかあまたの人の物思ひぐさなり。



これほどに、用心するのも、当然のこと。
無理も無いことゆえ、これ以上は、言えない。
こういう、身分の者では、筑紫の五節が、可愛らしい、と、まず第一に、思い出した。
どんな女につけても、心の休まる暇なく、苦しいそうである。
年月を経ても、矢張り、このように、逢ったことのある女には、情けを忘れない。
それが、また、多くの女たちの、物思いの種になるのである。





posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第9弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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