2009年02月24日

バリ島再考の旅 9

ホテル近くの、コンビニに、水を買いに出た。
コンビニの前に、男の子、小学生一年くらいの子である、が、コンビニの中を覗いている。

どうしたの
声を掛けた。日本語である。
お腹が空いているのである。
そう、解った。ちょっと、待ってて
そう言うと、その子の、姉も来た。

私は、手振りで、ここにいなさいと、言い、ホテルに戻り、衣服を持ってきた。
二人は、私を待っていた。
まず、コンビニに入り、パンと、ビスケットを買い、それを男の子に、渡した。

二人分だよ
と、袋の中を見せた。
二人は、頷いた。

そして、私は、バッグを開いて、それぞれに合う、シャツと、ズボンを取り出した。
何枚か渡した。
二人は、喜んだ。そして、男の子が、何やら、指差して言う。
私は、向こうにも、いるよと、感じた。

それからである。
小路に入って、子供達を捜した。
小路には、子供達が、いた。

一人、一人と、見つけて、衣服を渡した。
人が、詰め掛けてこないので、十分に、ゆっくりと、サイズの合うものを取り出して、渡すことが出来た。

名前は
一度聞いても、覚えられないが、私が、明確に、話せる、インドネシア語である。
私の名前は、ジャパニーズ・テンだよと、言う。
子供は、テンを、ティエンと言う。

それから、小路に目をつけることにした。
別の時間帯に、小路で、遊ぶ子供達を、見つけた。
丁度、ミニカーを持っていたので、それと、ぬいぐるみを持って、その遊ぶ輪に入った。

ボーイ
と、私は、声を掛けた。
それが、悪かった。
皆、一同に押し寄せた。

一人一つと、言いつつ、ミニカーを渡した。
すると、大人も、来る。
子供達が、私を取り囲んで、騒然とする。

女の子が、遠巻きに見ている。
私は、ミニカーを渡して、女の子たちに、向かって、ぬいぐるみを、渡した。

大人が、私にも、子供がいると、言う。
それで、一つづつ、ぬいぐるみを、渡す。

矢張り、あっという間の、出来事だった。

ミニカーも、ぬいぐるみも、すべて、無くなった。

何故か、汗だくになる。

外に出ると、自然に、発汗しているので、水分補給は、欠かせない。
だが、水ばかりを飲んでも、吸収が悪い。
そこで、バリコピを、飲む。

時々、店に入り、バリコピを飲んだ。
どこでも、50円程度であるが、少し高めのレストランだと、100円程度になる。

普段は、砂糖を入れないが、砂糖を入れて飲む。
これが、効き目がある。
コータは、それに、砂糖と、塩を入れたりする。
より、吸収がよくなるのだ。

そうして、支援物資の、ほとんどを差し上げた。
残っているのは、ノートと、一つの、子供用長靴である。

最後の日、帰国する日である。
ホテルの、チェックアウトが、昼の一時なので、部屋の前で、整理していた。
すると、ベッドメークのおじさんが、話し掛けてきた。

今日、カンバックか
そう、夜の便でね
オッケーオッケー、さようなら

すると、おじさんは、私がビーチで、服を皆に、上げていたのを見ていたと言う。
そして、私にも、八歳の女の子と、六歳の男の子がいると、言う。

私は、即座に、ノートを四冊取り出して、差し上げた。
学校に行かせるために、ビッグマネーが、必要だと言う。
ノートを喜んだが、シャツは、ないのかと、言う。
シャツは、もう一つもないと、言った。

おじさんが、欲しいなら、クリーニングした、Tシャツを差し上げたいと思ったが、子供のものが、欲しいようであった。

そして、私は、長靴を思い出し、取り出して、渡した。
オー、サンキュー
とても、可愛い、中靴だった。

レインデーに
うんうん、オッケー、サンキューサンキュー

それで、すべてが無くなった。

行きは大変、帰りは、楽々である。
荷物が、大幅に減ったのだ。
三つの、バッグが、一つになった。

90万ルピアを払い、チェックアウトをして、クタの通りに歩いた。
コータは、タクシーを、呼んで貰えばと、言うが、何やら、私は、汗だくで歩く方を選んだ。

荷物が少ないといっても、荷物は、ある。
ようやく、通りに出て、タクシーを拾う。
今度も、メータをしっかりと、下ろした。

ねー、もしかして、前回、私が、怒鳴り散らしたからかなー
と、私が言うと、コータは、そんなことないと思うけどと、言う。
しかし、今回は、一度も、メータを下ろさないタクシーに乗らなかった。
皆々、メータを下ろして、その料金通りである。
だから、安い。

そんなことを、しているから、クタに人が来ないんだ
と、怒鳴ったことなど、思い出した。
嬉しいことだが、不思議な気持になった。

空港の行くまでの時間を、ジンバランの安宿にいることにした。
ジンバランの真ん中にある、一泊、一万ルピアの部屋を取った。

その間、タクシーの運転手さんと、話をした。
彼は、女の赤ん坊が、生まれたばかりだと言う。
でも、家族が多くて、大変だとも。
聞けば、大家族である。

両親の面倒から、他の兄弟の面倒を見ていると、言った。
運転手の、給料では、やってゆけないとだと。
ただ、家の田圃があり、それで、食べていかれる。
給料は、月によって、マチマチである。
少ない時は、30万ルピア、多いときは、その倍である。

日本円にすると、三千円から、六千円程度である。

私達の、予約した、安宿を探すのに、苦労していた。
目立たぬ、小さな割れ門のゲストハウスだった。




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2009年02月25日

バリ島再考の旅 10

ジンバランは、空港より、南にあり、漁村である。
その、南は、高級ホテルが建つ、バドゥン半島、ヌサドアがある。

近年、ジンバランは、浜辺に屋台や、レストランが立ち並び、観光名勝の一つになっている。
魚介類を食べるなら、ここだと言われる。
ただし、バリ島、その近海で、捕れるものである。
南の魚介類は、美味しくないのであるが、バリ島で、食べるから、美味しいとも、言える。

北海道の魚を食べている、私には、あまり、興味のないことであるが、ジンバランの漁村を見たいと思い、帰国するまで、時間を過ごすことにした。

実は、衣類が残れば、そこでも、支援をしようと思ったが、もうすでに、何も残っていないから、ただ、見るだけである。
そして、浜辺に出て、魚介類を、食べてみることにする。

ジンバランで、面白い話を聞いた。
バリ島に、14年間住んでいる、日本人の方に、お逢いすることが出来た。
勿論、偶然である。

その方は、見合い結婚で、バリ島の人、バリニーズの女性と、結婚し、二人の子供が、いる。

その方から、聞いた、新鮮な話は、実に、有意義だった。そして、また、バリ島という島を、考える新しい情報だった。

まず、五年前に、インドネシア政府は、日本人の、退職者向けに、退職者ビザというものを、発行したという。しかし、それは、あまり知られていない。
だが、それを、知った人で、バリ島に住むべく、バリ島にやって来た人が、いるという。

その話で、それらの人は、皆、帰国してしまったという。
その訳は、こうである。

バリ島で、外国人が、土地を買うことが出来ない。
そこで、地元の人の名義を借りなければ、ならない。

日本人は、親しくなったバリ島の人を、頼んで、その人の名義で、土地を買ったという。
ところが、いざ、家を建てるという段になると、名義を貸した人が、これは、俺の土地だと、言い始めたという。

つまり、名義は、俺のものだから、俺のものである。そして、それを譲らなかったという。裁判でも、日本人は、皆、敗訴した。
当然である。
お金を出したという、証拠の一つも無いのである。

皆、その方の所に、相談に来たが、証文の一つもなく、方法がなかったという。

その方は、必ず、証書を作り、名義を貸してくれた人に、お金を貸したという証拠の書類を作り、土地の名義は、その人だが、お金は、私が出したというものが、必要であるという。そして、土地を売った時に、そのお礼として、売り上げの、5パーセントを渡すという、書類を作るべきだったという。

ところが、日本人は、相手が善い人なので、信用して、そんなものを、作らない。
また、付き合いをして、信頼関係のある人に、それを言うことが、出来ない性格を持つのが、日本人だと言う。

皆々、結果、騙されて、帰国することになったという。

それを、聞いて、私は、その人たちは、二度と、バリ島に来ないし、バリ島の名前も、聞きたくないだろうと、思った。

そこで、私は、信頼出来る、バリニーズという、イメージ、観念を、打ち砕かれた。

また、その方が、見合い結婚であるというのが、気になった。

通常、バリ人と、結婚するのは、ジゴロなどと、付き合い、妊娠して、結婚する、女が多いのが、普通だった。勿論、大半は、悲劇である。
また、その後は、日本人の男が、地元の女と、付き合い、妊娠して、結婚となるというもの。

見合いとは、始めて、聞いた。

その方曰く、バリ島には、家柄というものがある。
家柄が違う者同士の結婚は、実に大変で、難しいと、言う。

つまり、家柄とは、カースト制である。
それは、表立っては、見えないが、確実にある、存在するのである。

恋愛結婚もあるが、現地の人では、実に少ないという。
私が、聞いていた話と、随分違う。

日本人や、外国人と、結婚する場合は、そのカースト制が、見えないのである。

だが、厳然としてある。
緩やかなカースト制である。

確かに、極貧の人と、富む人の家が、結婚することは、実に難しいと、思う。

観光客は、カーストの上位の人と、逢うことは、稀である。
昔の、王族の流れを汲む人や、貴族の流れを汲む人と、逢うことは、まず無いといって、よい。

町に出て働いている人は、下層の人である。
それを見て、バリニーズと、思っていた、私は、改めて、バリ島の、身分階層というものを、意識した。

ということは、政治家などは、上位の人になるのだろう。
これで、何となく、貧富の差というものが、理解出来た。

緩やかでも、身分制度は、貧富の差を作り出す。
そして、それを、善しとする、風潮があるはずである。

これは、バリ島を理解する上で、大変参考になった。
カーストの上位の人と、逢ってみなければ、それは、解らないのである。
だが、その方の話で、想像することが、出来たのである。

バリ島を、理解するということも、幾層の段階があるのだ。

極端な話、シャツが、一枚しかないという人がいて、当たり前なのである。
そして、それは、その人に与えられた、運命なのである。

ある知り合いの、バリニーズは、一枚のシャツを大切に着ていた頃が、幸せだったという人がいる。
それも、一つの価値観であるが、そういう人が多いと、政治は、実に、楽に進められる。つまり、精神論で、その生活の貧困を超えてくれるから、政治的に、混乱を起こさないし、また、政治的活動もしないのである。
実に、支配しやすい。

それは、また、宗教の熱心な信者のようでもある。
つまり、この世のことを、心の世界で解決、処理するからである。

バリ島の、下水道の、不足、不完備なども、それを善しとする、バリニーズの、政治的意識欠落の故である。

それで言えば、ゴミ処理問題も、河川の汚染も、皆々、心の世界で、完結する。政治家にとって、こんな良い市民はいない。

更に、これを、インドネシアの国全体に、広げてみると、バリ島以外は、イスラムが大勢を占める。つまり、現状は、アッラーの神の、まにまに、ということになり、政治家にとっては、実に、楽チンなのである。

どおりで、汚職まみれであることが、理解出来る。

国民は、皆、信仰と、心の問題として、解決し、完結するのであるから、政治は、適当にやっていれば、よいのである。

更にである。
インドネシアは、言論統制を強いる国である。

政権批判は、命取りになることも、多々ある。
それについては、ジャワ島の、スラバヤから来た、留学生に聞いた。
彼の父親は、それで、何度も、危ない目に遭っていると言った。

ジンバランの、魚介類は、私の思った通りの味であった。期待しなかった分、悲観もしなかった。
今度行く時は、色々な店を回り、一番、値段の安い店に行くことだ、ということが、解った。


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2009年02月26日

バリ島再考の旅 11

バリ島にて詠める歌

手渡しと
決めたからには
最後まで
手渡すことを
行うのみか

善き事を
しているなどと
誰か言う
恥ずかしきかな
偽善に似たる

手渡しの
願いにこめた
この心
ただこの行為は
行為に帰する

手渡しの
願いにこめた
この心
我が名残ると
露も思はじ

手渡しの
願いにこめた
この心
大和心に
従うのみぞ

追悼の
慰霊も何も
その心
大和心の
発露なるべし

願わくは
世界を結ぶ
大和心
たゆたう心
あはれの心

あはれとは
言葉ならず
行為にて
あはれ心を
託すことなり

水を買った店にて詠む

双子なり
十七歳の
ワークだと
学校行けぬと
笑顔で言う

ホテルの庭にて詠む

バリ島の
猫が襲いて
鳥を食う
この世の地獄
しかと見たりて

テラハウスにて詠む

放し飼い
鶏多く
最高の
ご馳走はそれ
スープなりと言う

ゴミはなし
自然のものは
すべてそれ
自然に戻ると
バリニーズ言う

昼下がり
突然引き裂く
鳥の音は
自然の痛み
あるが如くに

バリ島の町を歩きつつ詠む

売春を
せぬ誇りあり
貧しさの
誇りもありて
バリニーズあり

暑さにて
疲れたること
足元に
確実にあり
歩みは遅し

生まれ来て
乞食の心
宿りしか
幼き子らは
ただ手を伸べて

女装者に
気をつけよと
言う心
元は男で
力あるなり

上民は
異国の人か
下層民
現地の人か
搾取されたり

立ち去らぬ
訳はチップを
求めては
悲しきことの
凄まじきかな

料金を
払った直後
チップをと
求めた十六
無学なる嬢

支援物資が無くなりて詠める歌

差し上げる
物が無くなり
佇みて
ただ見つめあう
我と子らと

手渡しの
支援のそれは
儚くも
大和心の
あはれとぞ知る


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2009年02月27日

バリ島再考の旅 12

ジンバランの浜辺で、食事をして、ゲストハウスに戻った。
もう日は暮れて、真っ暗である。

向こうから、観光客を乗せた車が来るたびに、立ち止まり、道の端に寄った。
下を見て歩かないと、危ないし、車が来ると、危ないので、立ち止まる。

実は、食べ終わり、コータに言われて、他の店の料金を確認してみた。
最初の店は、道の前にあり、そこから、店が、浜辺に向かって、何件もある。

それぞれの、店の価格を見てから、入るべきだったと、気づくが、後の祭りである。
少しは、値切ったが、もっと、値切ることも出来たと、コータが言う。

実は、こんな話を、聞いていた。

要するに、タクシーや、観光案内の車に連れられて来る場合は、それらに、売り上げの半分が、手数料として、支払われるというものである。
それで、ホテルの、従業員にも、斡旋されたのである。
売り上げの半分とは、大した、金額である。

そこで、単独で、行く場合は、半額は、値切れると、聞いた。
つまり、コミッションが無いのだから、安くしろと言えるというのだ。

それは、何に対しても、言えた。
観光客には、最初から、値段の倍を、吹っかけるという。
一万と言われたら、千から、交渉して、五千円程度で、買うことだとの、アドバイスを得た。

しかし、これが、またストレスなのである。
特に、日本人は、それに慣れていないし、金額を考えると、大したことはないと、面倒臭くなり、諦める。
だから、日本人が、狙われるのである。

さて、通りに出て、ホテルに、向かう。
そこで、地元の商店に入り、水を買うことにした。
大型の、ペットボトルである。

3000ルピアであるが、店のおばさんが、4000という。
コータが、3000で買ったというと、すぐに、3000ルピアに、落とした。

水にも、種類があるから、それで、価格も違うが、観光客には、高く売るのが、常識になっている。

ゲストハウス近くなり、一台のタクシーが、私達の横に止まった。
タクシーに乗らないかということだ。
そこで、今ではなく、夜の、10:30に、空港に行くので、幾らかと、尋ねた。
運転手は、6万ルピアだという。
そこで、コータが、4万と交渉した。
それじゃあと、運転手が、5万と言う。
私は、それで、オッケーと言った。

ゲストハウスの前まで来てくれることになった。

これで、帰りの車が確保出来て、一安心である。
夜の場合は、タクシー料金が、倍になると、聞いていたので、まずますのところだった。

部屋には、扇風機のみで、エアコンが無いから、暑い。
黙っていても、じっとりと、汗ばむ。
私は、帰りの着替えは、空港の中ですることにした。

これから、帰国すると思うと、何故か、疲れを感じた。
だが、それだけではないことが、解った。
それは、ジンバランという土地である。
ここも、戦争時代に、戦った場所である。

清め祓いが、されていないと、感じた。
年月を経て、有耶無耶にされているのだ。

どういう訳か、コータが、デジュルドゥを吹き始めていた。それも、長い時間である。
タクシーが、迎えに来るまで、吹いていた。
私は、部屋の前の、椅子に座り、タバコをふかして過ごしていた。

二時間ほどを、過ごしていると、タクシー運転手が、部屋まで迎えに来た。
荷物を持って、彼は、車に運ぶ。
聞けば、旅行会社の、職員で、観光案内の、車サービスをしていた。
その時間帯は、仕事を終えて、個人的な時間である。
その時間を、自分の稼ぎに当てていたのだ。

空港に行く間、彼は、バリ島の、車チャーターの、基本料金を、私達に、教えてくれた。
それは、とっても、役に立った。
これから、それを目安に、料金交渉が出来る。

空港に着き、荷物を下ろして、私達が、空港に入るのを、見届けて、彼は、発車した。
そういう、礼儀を教えられているのだろう。

さて、空港に入り、私は、早速、着替えをした。
単の着物に着替えて、搭乗する姿になった。
出発には、まだまだ時間がある。
深夜便の、最後の便が、私達の乗る飛行機である。

飛行機の、搭乗手続きをして、出国審査に向かう。
すべて、スムーズである。

まだ、出発には、三時間ほどある。
深夜便に乗る人で、空港は、溢れていた。
しかし、0時を過ぎると、次第に人が、まばらになった。
免税店も、シャッターを下ろす。

バリコピを飲んで、一時間ほど、時間潰しをしたが、その店も、閉店するようで、私達は、店を出て、搭乗口に近い、ベンチに、荷物を置き、休んだ。

皆、ベンチで、寝ている。

私は、時計を見つつ、喫煙出来る場所に、何度も、出て、タバコを、ふかした。
次第に、空港の中は、静かになる。

漸く、搭乗口が、開いた。
深夜、二時である。
少し、出発が遅れている。
台北乗り継ぎであるから、長い、時間である。

乗り込んだ人々は、すぐに、寝込んでしまったようだ。
私も、寝た。
気づいた時、機内食の時間で、私は、それを食べようと思ったが、結局、それを頂く前に、また、眠ってしまった。
きっと、ほとんどの人が、機内食を食べなかったはずである。

台北には、七時過ぎに到着である。
それから、一時間半後に、成田に出発である。

台北の空港では、ドルを使い、コーヒーを飲み、水を買った。
どこでもそうだが、空港内の物は、高い。

台北も、一度降りたい街だが、そのチャンスは、無い。
台北でも、追悼慰霊をする必要があると、思っている。

三月は、ビルマに行き、五月は、バリ島コンサートツアーである。
それ以降の、予定は、決まっていない。
しかし、私は、それ以降も、追悼慰霊と、支援に向かう予定である。

今年で、三年目に入った、この活動は、私が、動けるまで、続け覚悟である。

その後のこと、それは、後は野となれ、山となれ、なのである。


posted by 天山 at 00:00| バリ島再考の旅 平成21年 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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