2009年01月29日

もののあわれ 399

六十巻といふ文よみ給ひ、おぼつかなき所々説かせなどしておはしますを、山寺には、「いみじき光り行ひ出だし奉れり」と、「仏の御面目あり」と、あやしの法師ばらまで喜びあへり。



天台六十巻という、書物を読みたまう。
疑問に思うところを、説明させている様子は、山寺では、ありがたい光を頂きました、仏の名誉だと、卑しい法師までが、喜び合う。




しめやかにて、世の中を思ほし続くるに、帰らむことももの憂かりぬべけれど、人ひとりの御事おぼしやるがほだしなれば、久しうもえおはしまさで、寺にも御ず経いかめしうせさせ給ふ。あるべき限り、かみしもの僧ども、そのわたりの山がつまで物たび、尊きことの限りを尽くして出で給ふ。見奉り送るとて、このもかのもに、あやしきしばふるひどもも集まり居て、涙を落としつつ見奉る。黒き御車のうちにて、藤の御たもとにやつれ給へれば、ことに見え給はねど、ほのかなる御ありさまを、世になく思ひ聞ゆべかめり。



落ち着いて、世の中を思い続けてみると、帰ることも、気が進まなくなりそうである。だが、あのお方のことを、考えることが、妨げになり、長くいることも出来ずに、寺には、読経の布施を盛大に差し上げて、そこにいる、上から下までの僧たち、その付近の、里の人にまで、物を、賜る。あらゆる、善根を尽くして、お帰りになる。
お見送りもうしあげましょうと、あちこちから、卑しい柴刈りたちまで、集まり、ひざまづいて、涙を流して、拝している。
黒い車の中で、喪服に身を包んでいるので、十分に、姿は、見えないが、少しばかり見える様子も、この上なく立派だと、皆、思っているようである。

当時の、身分というものが、よく解る記述である。
天皇の御子という、存在は、天上の人なのである。



女君は、日ごろのほどに、ねびまさり給へる心地して、いといたうしづまり給へば、あいなき心の、さまざま乱るるやしるからむ、「色かはる」とありしもらうたうおぼえて、常よりことに語らひ聞え給ふ。



女君、つまり、若草の君は、暫くの間に、いっそう、美しく成長しているようである。
大変、おしとやかになり、私たち二人は、どうなるのだろうと、心配する様子が、気の毒にも、いじらしくも見える。
源氏の心が、あれこれと、乱れる様子が、わかるのか、色変わるという、歌も、可愛く思えて、いつもより、熱心に語り合うのである。

色かはる、とは、風吹けば まづぞ乱るる 色かはる 浅ぢが露に かかるささがに、と歌詠みしたものである。

さまざま乱るるやしるからむ
さまざま 乱るる や しる からむ
源氏の心が、様々に、思い乱れている様子である。
それを、若草が、察している。それを、また、源氏も、察して、常よりことに語らひ聞え給ふ、というのである。

このような、心の細やかさを、心の綾として、観る。
大和心とは、そういう、微妙繊細な心である。

本居宣長も、それを、力説した。
心の綾。
そこに、現れる、もののあはれ、というもの、である。

この、心象風景は、日本列島の自然に、発するものである。
日本独自の、心象である。

実に、恵まれた気候風土にあると、いえる。
つまり、自然を抜きにして、その地の人の心の有様がある。

幾山川 越えさりゆかば 寂しさの 果てなむ国ぞ 今日も旅行く
若山牧水
更に、自然というものを、求めて旅をするという。

自然保護というが、その自然というものを、どのように、理解し、解釈するのかを、誰も、言わない。
自然とは、何か。

自然とは、あはれ、なのである。
人生の、すべての、問題の答えが、自然にあると、古代日本人は、観た。

もの、とは、自然である。
その、もの、が、あはれ、なのである。

そして、その、あはれ、から、離れて、人は生きることは、できないのである。

あはれ、はかなき、ことの多かりき、ことの、人の世、なのである。

この、寛容なる心は、まさに、自然から、得た恵みである。

自然とは、我が心なのである。
自然を大切にするということは、我が心を、大切にするということなのである。

それが、大いなる、和の心に、発露する。
大和心である。
大和魂である。

大和魂は、もののあはれに、支えられてある。



posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第9弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。