2009年01月28日

もののあわれ 398

吹きかふ風も近き程にて、斎院にも聞え給ひけり。中将の君に、源氏「かく旅の空になむ、もの思ひにあくがれにけるを、おぼし知るにもあらじかし」など恨み給ひて、おまへには、

源氏
かけまくは かしこけれども そのかみの 秋思ほゆる ゆふだすきかな

昔を今にと、思ひ給ふるもかひなく、とり返されむ物のやうに」と慣れ慣れしげに、唐の浅緑の紙に、榊にゆふつけなど、かうがうしうしなして参らせ給ふ。




風も吹きかう程、近いところなので、斎院に、つまり、朝顔にも、お便りを差し上げる。
中将の君に、このように、旅の空にまで、胸を焦がして、あくがれにむけ、迷ってきたのに、解ってくださらないでしょう、などと、恨みつつ、御前には、
源氏
口にするのも、恐れ多いことですが、あの昔の秋のことが、頭に浮かんでくる、ゆふだすき、です。
ゆふだすき、とは、木綿襷である。

昔を今にと、思いましたが、その甲斐もない。取り返せるもののように思ったり、と、昔何事か、あったように、唐の薄緑の紙に書きつけ、榊に木綿をつけたりし、神々しく飾って、届けたのである。




御かへり、中将、「まぎるる事なくて、来し方の事を、思ひ給へ出づるつれづれのままには、思ひやり聞えさする事多く侍れど、かひなくのみなむ」と少し心とどめて多かり。おまへのは、ゆふの片はしに、

朝顔
そのかみや いかがはありし ゆふだすき 心にかけて しのぶらむゆえ

近き世に」とぞある。御手こまやかにはあらねど、らうらうじう、草などをかしうなりにけり。「まして朝顔もねびまさり給へらむかし」と、思ひやるもただならず。恐ろしや。



お返事は、中将は、気の紛れることも無く、これまでのことを、思い出して、所在ないままに、偲びつつ、あれこれと、思いますが、致し方ないこと、と、少しく丁寧に書いている。
斎院のは、木綿の片端に、

斎院
その昔、何があったというのでしょう。あなたが、心にかけて、偲んでいるというものは、一体、何のことですか。

この頃のことは、勿論ですが、とある。
筆は、潤いあるとは、いえないが、立派で、草書体なども、見事になったと思う。
それ以上に、お顔も、いよいよ美しくなっているのだうろと、思われると、その心の動きに、恐れを感じるのである。



「あはれ、この頃ぞかし。野の宮のあはれなりし事」とおぼし出でて、「あやしうやうのもの」と、神うらめしうおぼさるる御癖の、見苦しきぞかし。



あはれ、この頃だった。野の宮の、心疼くような出来事は、と、思い出し、妙に似たような事、と、神を恨めしく思う癖が、困ったものです。
とは、作者の言葉。
あはれ、とは、この場合、詠嘆である。




わりなあおぼさるべかめるも、あやしき御心なりや。院も、かくなべてならぬ御心ばへを、見知り聞え給へれば、たまさかなる御返りなどは、えしももて離れ聞え給ふまじかめり。少しあいなきことなりかし。



無理にでも、と、思うならば、そのように、やり方もあったのであろうが、昔の頃は、構わずに、過ごして、今頃になり、後悔するのも、変なものだ。
斎院も、この、並々ならぬ、心のうちを知るゆえに、時々の、お返事などは、あまり、すげなく出来ずにいる。
少々、けしからぬことです。

これは、すべて、作者の言葉である。
感想を、このように、書き付けるのである。

第三者の目になり、語るのである。
これが、後に、小説に使われる、手法になってゆく。
三人称の、小説である。

あはれ、が、詠嘆に使われることもある。
心の様を、あはれ、に託す。
言い表しえない思いは、あはれ、で、満ちる。





posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第9弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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