2009年01月26日

もののあわれ 396

宮も、その名残り、例にもおはしまさず。かうことさらめきて、籠り居、おとづれ給はぬを、命婦などはいとほしがり聞ゆ。宮も、東宮の御ためをおぼすには、御心置き給はむこといとほしく、「世をあぢきなきものに思ひなり給はば、ひたみちにおぼしたつこともや」と、さすがに苦しうおぼさるべし。





宮も、あの夜のことから、勝れない状態である。
源氏は、わざとらしく、籠もり、訪れもしないことを、命婦などは、気の毒に思う。
宮も、東宮のことを、考えると、心に隔てがあっても、困ると、落胆してしまうと、出家を決心されるのではと、さすがに、心苦しく思う。



「かかること絶えずは、いとどしき世に、憂き名さへもり出でなむ。おほ后の、あるまじきことに宣ふなる位をも去りなむ」と、やうやうおぼしなる。院のおぼし宣はせしさまの、なのめならざりしをおぼし出づるにも、「よろづの事ありしにもあらず変りゆく世にこそあめれ。戚婦人の見けむめのやうにはあらずとも、必ず人わらへなる事は、ありぬべき身にこそあめれ」など世のうとましく、過ぐし難うおぼさるれば、そむきなむ事をおぼしとるに、東宮奉らで、おも変りせむ事、あはれにおぼさるれば、忍びやかにて参り給へり。





こうしたことが、絶えないと、おもしろくないのと、また、いやな評判まで広がる。
大后が、けしからんと思う、中宮の位も、退いてしまおうと、次第に、心を決めるのである。
院が、心配して、仰せられた言葉の、並々ではなかったことを、思い出す。
すべてのことが、昔の面影もなく、変わってゆく世の中である。
戚婦人、これは、漢の高祖の晩年の寵愛された、姫のことである。その死後、その正妻によって、婦人は、手足を断たれ、目を抜き、耳を焼かれ、おしにされた。
その婦人が見たような、目に遭わずとも、きっと、物笑いになる事が、自分にも起こるだろうと、今の世に、嫌気がさし、過ごしにくく、思われるので、出家しようとするが、東宮に会わずに、姿を変えることは、心残りであると、目立たないように、参上された。




大将の君は、さらぬ事だに、おぼし寄らぬ事なく仕うまつり給ふを、御心地なやましきにことつけて、御送りにも参り給はず。大方の御とぶらひは、同じようなれど、「むげにおぼし屈しにける」と、心知るどちはいとほしがり聞ゆ。





大将の君、源氏は、これほどではないことでも、お世話をするのに、ご気分の勝れないのを、口実に、お送りにも、参上されない。
一通りの、挨拶は、いつもと同じであるが、すっかり、ふさぎ込んでしまったものと、わけを知る女房たちは、気の毒に思うのである。




宮は、いみじううつくしうおとなび給ひて、めづらしう嬉しとおぼして、むつれ聞え給ふを、「かなし」と見奉り給ふにも、おぼし立つ筋はいとかたけれど、内わたり見給ふにつけても、世の有様あはれにはかなく、移り変る事のみ多かり。



東宮は、とても、可愛らしく成長していて、母宮を、久しいと、思い、まとわりつく。
愛しいと、ご覧になると、決心は、揺らぐ。
御所の中を、ご覧になると、すべてが、心を痛める。
跡形もなく、変わっていることばかりである。




おほ后の御心もいとわづらはしくて、かく出で入り給ふにもはしたなく、事にふれて苦しければ、藤壺「御覧ぜで久しからむほどに、かたちのことざまにて、うたてげに変りて侍らば、いかがおぼさるべき」と聞え給へば、御顔うちまもり給ひて、東宮「式部がやうにや。いかでかさはなり給はむ」とえみて宣ふ。いふかひなくあはれにて、藤壺「それは老いて侍れば醜きぞ。さはあらで、髪はそれよりも短くて、黒ききぬなどを着て、夜いの僧のやうになり侍らむとすれば、見奉らむ事も、いとど久しかるべきぞ」とて泣き給へば、まめだちて、東宮「久しうおはせぬは恋しきものを」とて、涙の落つれば、「恥づかし」とおぼして、さすがにそむき給へる、御ぐしはゆらゆらと清らにて、まみのなつかしげに匂ひ給へるさま、おとなび給ふままに、ただかの御顔を脱ぎすべ給へり。御歯の少し朽ちて、口の内黒みて、えみ給へるかをり美しきは、女にて見奉らまほしう清らなり。「いとかうしもおぼえ給へるこそ、心憂けれ」と玉のきずにおぼさるるも、世のわづらはしさの、そら恐ろしうおぼえ給ふなりけり。




大后の、お心にも、ひどく、はばかられて、御所に、出入りするのも、気が引ける。
何かにつけて、辛く思う。
東宮のためにも、危険に思われ、将来のことが、恐ろしく、あらゆることに、迷うのである。
藤壺が、お目にかかぬうちに、姿が、変わり、見苦しい様子になっていたら、どのように、思いますと、言う。
東宮は、じっと、顔を見て、式部のようになるのか。そんなことには、なりませんと、笑って、お話しする。
いじらしい様子に、藤壺は、あれは、年を取りましたから、見苦しいのですよ。そうではなく、髪は、あれよりも、短くて、黒い衣を着て、夜居の僧のようになりますから、お目にかかることも、もっともっと、少なくなりますと、泣くと、東宮は、真面目な顔で、長い間、いらっしゃらなと、堪らないのにと、涙を流す。
しかし、恥ずかしいと、思ったようで、横を向く。
髪がふさふさと、美しく、目元が可愛く光っている様子。
大きくなるにつれて、まるで、あの方のお顔、そのままである。
あの方とは、源氏のことである。
歯が、少し虫歯になり、口の中が、黒ずんで、笑う、色艶の美しさは、女にして、拝したいほどの、綺麗さである。
本当に、これほどまで、似ているとは、心配だと、それが、玉にきずと、思われるのも、世間の口がうるさいからである。
そら恐ろしく思えるのである。

ここに、少し問題が、ある。
東宮は、このように、話が出来るほど、成長したのだろうか。
これほどの話が出来るのは、四、五歳程度であろう。
誕生から、そんなに、経ていないはず。

ここで、作家の、矛盾がある。
まして、女の筆であれば、そんな、過ちは、犯さないはず。
では、紫式部ではない、誰か、つまり、男の筆ではないかと、疑うのである。

原文を、書き写していると、自然と、何か、今までの、調子とは、違う文体に、変わっているように、思えるのである。
更に、検証してみたい。



posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第9弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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