2009年01月25日

もののあわれ 395

男も、ここら世をもてしづめ給ふ御心、みな乱れて、うつしざまにもあらず、よろづの事を泣く泣く恨み聞え給へど、「まことに心づきなし」とおぼして、いらへも聞え給はず。ただ、藤壺「ここちのいと悩ましきを、かからぬ折もあらば聞えてむ」と宣へど、尽きせぬ御心のほどを、言ひ続け給ふ。さすがに、「いみじ」と聞え給ふふしも交るらむ。あらざりし事にはあらねど、改めて、いと口惜しう思さるれば、なつかしきものから、いとよう宣ひのがれて、今宵も明けゆく。





男とは、源氏のことである。
突然、男と書くのは、色事の場面であるという。
源氏は、これまで、抑えていた心を、取り乱して、いつものようではなく、あれこれと、恨み事を、申し上げる。
宮は、つまり、藤壺は、本当に嫌なことと、思いつつ、返事もしない。
そして、藤壺は、気分がひどく悪いので・・・こんなことでもなければ、申し上げましょう。と言うが、果てしなく、胸の思いを言い続ける。
さすがに、そのようだと、思うことも多々ある。複雑な心境である。
これまでに、なかったことだが、改めて、とても、残念であり、なつかしき、つまり、優しい思い、大変巧みに言い逃れて、今夜も、明けてゆく。

藤壺は、源氏の誘いから、逃れるべく、の行為である。
実に、面白い。




せめてしたがひ聞えざらむも、かたじけなく、心恥づかしき御けはひなれば、源氏「ただかばかりにても、時々、いみじき憂れへをだに、はるけ侍りぬべくは、何のおほけなき心も侍らじ」などたゆめ聞え給ふべし。



お言葉に、従わないことも、恐れ多く、こちらが、辛くなる様子なので、源氏は、ただ、このようなことでも、時々、この切ない思いを、紛らわすことができましたら。何の大それた心を、起こしましょうと、言う。




なのめなる事だに、かやうなる仲らひは、あはれなる事も添ふなるを、ましてたぐひなげなり。



なのめなる事だに、とは、ありふれた事でも、このような間柄ですから、あはれなる事も、つまり、この場合は、心通うこともあるという。
まして、たぐひなげなり、とは、特別な関係ですから、とでも、訳す。




明けはつれば、二人して、いみじき事どもを聞え、宮は、半ばなきやうなる御けしきの、心苦しければ、源氏「世の中にありと聞しめされむも、いと恥づかしければ、やがて亡せ侍りなむも、またこの世ならぬ罪となり侍りぬべき事」など聞え給ふも、むくつけきまで思し入れり。

源氏
逢ふ事の かたきを今日に 限らずは 今いく世をか 嘆きつつへん

御ほだしにもこそ」と聞え給へば、さすがにうち嘆き給ひて、

藤壺
長き世の 恨みを人に 残しても かつは心を あだと知らなむ

はかなく言ひなさせ給へるさまの、言ふよしなきここちすれど、人のおぼさむところも、わが御ためも苦しければ、われにもあらで出で給ひぬ。




明けてしまったので、お傍の二人は、厳しいことを、色々と、申し、藤壺の宮は、半ば、魂の抜けたようになって、辛い。
源氏が、この世に、まだ永らえているというもの、実に恥ずかしい。さりとて、このまま、死ぬと思っても、それは、後の世の、罪になりましょうと、申し上げるのも、恐ろしいほどの、思い詰めである。

源氏
お会いする、難しさが、今日が最後でなければ、二世も三世も、この嘆きを、繰り返しましょう。

おん、ほだしにも、なりましょうと、つまり、往生する障りになると、申し上げると、藤壺は、ため息をついて、

藤壺
いつまでも、私に、恨みを残しても、それは、あなたの心のゆえです。無駄なことと、覚悟してください。

何もならないと、わざと、言う様子が、言いようもない。
相手が、どのように思うか、それも、自分にとって、辛いこと。
魂の、抜けたように、退出された。

源氏は、藤壺と、契るために、そこまで、やるかという、態度である。
父帝の亡き後も、その、父帝の寵愛した、藤壺に迫るという、囚われ。
この、欲望は、いったい、人の心の、どから、出るものなのか。
単なる、欲望とは、思われないのである。

禁断のことだから、尚いっそうに、惹かれるのだろうか。


「いづこをおもてにてかは、またも見え奉らん。いとほしとおぼし知るばかり」とおぼして、御文も聞え給はず。うち絶えて、うち東宮にも参り給はず、籠りおはして、起きふし、「いみじかりける人の御心かなに」と、人わろく恋しう悲しきに、心魂もうせにけるにや、なやましうさへおぼさる。もの心細く、「なぞや。世にふれば憂さこそまされ」とおぼし立つには、この女君の、いとらうたげにて、あはれにうち頼み聞え給へるを、ふり捨てむ事いとかたし。



どのような、面目で、再び、お会いできよう。こうなれば、気の毒だと、思うまでだ、と、思い、お手紙も、差し上げない。
そして、御所にも、東宮御所にも、参上されない。
引き籠り、寝ても覚めても、ひどい方だと、恥ずかしいほど、恋しく思う。
魂も抜けたのか、気分も悪い。
そして、何やら、心細く、何故、これと程にと、思い、世に永らえれば、苦しみが、増えるものだと、出家を考えるほどだが、邸の、若草が、とても、可愛い様子で、いじらしくも、頼るのを、振り捨てるわけには、いかないと、思うのである。

源氏の心の、無明である。
あえて、その無明を描いて、作者は、人の心の、無明ということを、見つめた。

源氏は、思いが遂げられないことに、逆恨みしているのである。
このは、王朝の優雅な、恋遊びとは、違う。

作者は、救いようのない、人間というものの、有り様を見ている。
浄土信仰の、盛んな頃である。
この、人間の、どうしようもない、性というものを、何者かによって、救って貰わなければならない。
もう、それは、仏の慈悲以外にない。

欲望が、罪だという意識が、また、仏教によって、観念化され始めた時期である。
更に、欲望は、迷いであるという、観念である。

自分の父の、寵愛した女に、子を産ませ、更に、父亡き後も、男女の関係を、迫るという、生々しい、源氏の、欲望、そして、行為を、描く。

この物語には、戦いの場面は、一切、無い。
戦というものが、無い時、人は、こうして、徹底して、我というものを、追及できる。
一見、それは、欲望の数々であるが、実は、ただ、ただ、人の心というものを、見つめている。

それが、もののあはれ、なのである。



posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第9弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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