2009年01月20日

神仏は妄想である 219

互恵的利他行動について、書く前に、以前、神は妄想である、を書いた、ドーキンスの著書を紹介した時に、宗教がなければ、道徳は、行われないのかという、所を、読み直して欲しい。

人間の行為は、進化により、成り立ってきたのであり、宗教の教えによるものではない、ということを、明記すべである。

互恵的とは、与え合うということである。
これを、宗教では、実に利用して、神や仏の教えを説く。
しかし、それは、進化の過程で、人間が見につけてきたものである。

互恵的利他行動とは、一言で言えば「ぼくの背中を掻いておくれ、ぼくは君の背中を掻いてあげる」という原理(リチャード・ドーキンスの表現)で表すことができる。・・・・
背中のかゆみぐらいならたいした得ではないと思う人がいるかもしれないが、これがたとえば「背中についた害虫や寄生虫を取ってあげる」になれば生存・繁殖に大きくプラスである。それ以外にも、食べ物を交換する、喧嘩の助太刀をし合うなど、互恵的利他行動にはさまざまなパターンと利益がある。そのため、仲間と集団で生活する動物で、その中の「誰が誰か」を識別する能力を持ち、また、それぞれの相手との過去のやりとりを記憶する能力がある種では、互恵的利他行動を行う性質が進化する。
内藤淳


人間の場合は、特に、他の動物以上に、それが顕著である。
生存と、繁殖に、重要な意味を持つのである。

人間の場合は、他人の関与がまったくないまま自分だけでなにかの資源を入手することは少ない。財の多くは、自分が持っているもの労力と引き換えに、誰かと交換して得るものだし、(「市場」がそうした資源交換の場であることは言うまでもない)、狩りや農作業などの生産活動のほとんども、仲間と共同で、互いに協力し合う仲でなされる。自分ひとりで裏庭に畑を作って作物を育てたという場合だって、道具や衣服は店で買ったものだったり誰かにもらったものだったりする。
内藤淳

純粋に、相手を思う気持から、友人や知人に利他行為をする場合も、自分の利益に、それは向けられてないし、意識しないが、それも、互恵的利他行動として、自分の利益に、向けてなされる。
それは、人間は、自分に利他行為をしてくれる人に対して、好意を持ち、その感情から、相手に対して、積極的に、利他行為で、互恵関係を、築くのである。

われわれは。適切な互恵関係の相手を選び、そこで利他行動を交換して、「自分の利益」の確保を自然に行っているのである。
内藤淳

人間の感情というものも、互恵関係に、起因する。

われわれの感情は、周囲の人との間で互恵関係を構築・維持することに向けてーー自分に利他行動をしてくれそうなに相手と積極的に関係を結んで利益を確保し、そうでない相手は遠ざけて不利益を回避するようにーー作用している。
内藤淳

それを、人は、意識していないのである。
背景にある、利益を意識せずに、感情のみを、自覚して、行動しているのである。

友情や、感謝という気持、感情も、自分の利益に、結びついていると、思っていないが、そういう対人感情自体が、利益のために、人に備わっていると言う。

それでは、見知らぬ人に対する、利他行為は、どうなのであろうか。
要するに、見返りを期待しない、行動である。

例えば、私は、戦争犠牲者の追悼慰霊をするついでに、知らぬ国の知らぬ子供や、人に衣服を差し上げている。
何の、得にもならない。
また、慰霊という行為も、何の得にもならない。

実際、沖縄、渡嘉敷島の、集団自決の場所に、慰霊に出掛けた時、案内し、車の運転をしてくれた、女性から、何の得にもならないのに、どうして、されるのですかと、尋ねられた。

さて、私も、それを、私自身に、尋ねたい気持になった。

しかし、互恵的行動を知ることで、理解した。

やはり人間は「自分の利益」が見込めなくとも純粋な利他行動をするのだと思えるかもしれないが、それは人間同士の互恵関係を直接的なものだけに限定した考えからである。人間社会が間接的な互恵関係を含んで成り立っていることを踏まえれば、こうした行動も結局は「自分の利益」につながっていることが分かる。
内藤淳

それが、リチャード・アレクサンダーによる、間接互恵の理論、である。

「間接互恵」とは、自分が、誰かにした利他行動の「見返り」が、その相手から直接でなくとも、第三者を介して別な形で返ってくることをいう。これはたとえば、商売における「評判の利益」を考えてみると分かりやすい。
内藤淳

周囲に対し、自分の利他的性質が広まり、それが、評判や、人間評価になるというものである。

こうした「評判」が得られると、「私」は、今後、周囲の人と幅広く互恵関係を築けるようになる。
内藤淳

他者から互恵関係を結んでもらうには、「こちらに積極的に利他行動をしてくれる人」と思われることが絶対の条件であり、そういう「評判」を得ている人は、周囲の人と互恵関係を築く可能性が広がる。そして、そうやってたくさんの人と互恵関係を築けるなら、こちらが相手から利他行動を受ける機会も増えて、結局それは「私」の利益になる。
内藤淳

つまり、
他者への利他行動は、将来、周囲の不特定の人たちから「見返り」を得るための「投資」なわけで、そのために必要な「よい評判」を確保する意味でも、他者に積極的に利他行動をすることは、われわれ自身の利益につながっている。
内藤淳

知らない人に対して行う、利他行為は、間接互恵のネットワークの中で、自らの、利他性質を広告して、互恵関係の可能性を、広げるという意味で、自分の利益になるというのである。

それは、また、利益の無意識化であると分析する。

実に、真っ当な、考え方であり、人間観察の、最たるものである。

利他行動を、宗教では、最も、大切で、それだからこそ、人間というもの、信仰というものが、生きているのであると、説くが、実は、進化で得たものなのである。

利他行などと、大袈裟に言うが、元からあったものであるし、そのカラクリが、分かると、宗教という、教えなどに頼らずに、利他行為を行える。

それを、慈悲の行為と、称賛するほど、世の中は、甘くない。
慈悲行を、大乗仏教は、掲げるが、あの、七面倒な、論議は、何のためなのか。

中道、縁起、そして、そこから、慈悲の行為が、という発想は、頭が、イカれているのである。

進化倫理学では、良心を、利益の無意識化という。

更には、思いやりの心、というのである。

私が、何故、戦争犠牲者の追悼慰霊をして、更に、それを知らせる、チラシなどを配布するのかは、平和を考えるには、戦争を知らなければならない。その、きっかけになればと、思う。

更に、衣服支援も、そのついでに行い、それは、皆さんが、不必要であるというものを、頂いての行為である。

自分は、純粋に、そのように、思うが、それが、利益の無意識化であると、分析されても、驚かない。

更に、その行為は、自分のためのものという、意識があり、誰にも、知らせず、行ってもいいのだが、それでは、もったいないのである。
その情報を伝えることで、何か、世の中に、貢献できればいいと、思う。
これも、利益の無意識化である。

次に、善悪という観念を、人間は、どのような進化の過程で、作り上げてきたのかを、見る。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第5弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

もののあわれ 380

御くしげ殿は、二月に尚侍になり給ひぬ。院の御思ひに、やがて尼になり給へるかはりなりけり。やむごとなくもてなして、人柄もいとよくおはすれば、あまた参り集り給ふ中にも、すぐれて時めき給ふ。后は里がちにおはしまいて、まいり給ふ時の御つぼねには、梅壷をしたれば、弘薇殿には、尚侍の君住み給ふ。





みくしげ殿とは、朧月夜のことである。
二月に、尚侍、ないしのかみ、になられた。
院を慕い、そのまま尼になった方の、代わりである。
上品であり、人柄も大変に良い方なので、多くの集う中からも、目だって寵愛が深いのである。
大后は、里住まいがちに、いらっしゃる。参上する時の、御局には、梅壺をしているので、弘薇殿の方に、尚侍の君、朧月夜が、住むのである。

解らないことがある。
藤壺の宮との間に、梅を植えてあるのが、どうして、この説の中に、入るのかである。
当時の、風習に関係があるのだろう。




登花殿のむもれたりつるに、はればれしうなりて、女房なども数知らずつどひ参りて、今めかしうはなやぎ給へど、御心のうちは、思ひのほかなりし事どもを、忘れがたく嘆き給ふ。いとしのびてかよはし給ふことは、なほ同じさまなるべし。「ものの聞えもあらば、いかならむ」とおぼしながら、例の御くせなれば、今しも、御こころざしまさるべかめり。





登花殿では、むもれたりつる、陰気、埋もれたような場所だったが、今は、晴れ晴れとして、女房なども、数え切れないほどに、集まり、華やいで、陽気にされている。が、心の内では、思いがけなかったことなどを、忘れ難くて、嘆いているのである。
こっそりと、お手紙をやり取りされることは、今も以前と、同じである。誰かに知られたら、どうなるのかと、思いつつ、いつものことで、このようになってから、思いが募るのである。





院のおはしましつる世こそ、はばかり給ひつれ、后の御心いちはやくて、かたがたおぼしつめたる事どもの、「報いせむ」と思すべかめり。事にふれて、はしたなき事のみ出でくれば、「かかるべき事」とは思ししかど、見知り給はぬ世の憂きに、たちまふべくもおぼされず。



この段からは、源氏のことである。

院の、いらした間こそは、遠慮していたが、大后は、気性が激しく、あれこれと、今まで抑えていた、仕返しをしようと思っているようである。
何かに付けて、我慢が出来ないことが起こるので、こうなるだろうと、思っていたが、知らなかったことで、世間と付き合う気にならないのである。


これは、源氏に対する、大后の、対応である。
源氏は、側室の子である。更に、亡くなっている。つまり、疎んじられる。



左のおほい殿も、すさまじき心地し給ひて、ことに内にも参り給はず。故姫君を、引きよきて、この大将の君に、聞えつけ給ひし御心を、后は思しおきて、よろしうも、思ひ聞え給はず。おとどの御中も、もとよりそばそばしうおはするに、故院の御世には、わがままにおはせしを、時移りて、したり顔におはするを、「あぢきなし」とおぼしたる、ことわりなり。



左大臣も、不愉快な気持ちになっている。
更に、御所へも、参上されない。
故姫君を、東宮にはやめて、大将、源氏に差し上げた心を、大后は、根に持って、よく思わないのである。
大臣の仲も、もともと、よそよそしくしていたところに、故院の御代には、自分の考え通りにしていたが、時勢が変わり、右大臣が、得意顔である。それを、不快に思うことも、当然である。




大将は、ありしに変らず渡り通ひ給ひて、さぶらひし人々をも、なかなかに細かにおぼしおきて、若君をかしづき思ひ聞え給へる事かぎりなければ、「あはれにあり難き御心」と、いとどいたづき聞え給ふ事ども、同じさまなり。




大将は、以前と変わらず、出掛けて行かれる。仕えていた、女房たちを、前より、細々と、指図されて、若君を大切に育てる気持ちは、大変なものである。
あはれにあり難き御心
つまり、ここでは、感動の、あはれ、である。
ありがたいことが、あはれ、という、感動の言葉で、表される。
それゆえに、大将を大切にする様は、以前と同じである。




限りなき御おぼえの、あまり物騒がしきまで、いとま無げに見え給ひしを、通ひ給ひし所々も、かたがたに絶え給ふ事どもあり。軽々しき御忍びありきも、あいなうおぼしなりて、ことにし給はねば、いとのどやかに、今しもあらまほしき御有様なり。




限りなき御おぼえ
院の、この上もない、ご寵愛で、あまりに、せわしいほど、暇の無い様子に見られた。
通われた、方々の所へも、途絶えることあり、軽々しい、忍び歩きも、あいなうおぼしなりて、つまらないと、思われて、格別にされないゆえに、実に、のんびりとしている。
今の方が、ありがたいと思われる、生活である。

とは、言うものの、源氏の行動は、すぐに、始まるのである。

そうでなければ、物語の先が進まないのである。
ここで、一旦、物語が、終わるはずであったが、しかし、誰かが、それに、書き加えたのか。
微妙に、文章に違いが、出てくる。


posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第9弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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