2009年01月19日

神仏は妄想である 218

血縁者や配偶者を助ける行動は、愛情からなされているのだから「利己的」行動とは言えないのではなく、愛情によってなされるがゆえに「利己的」行動なのである。
内藤淳

親の子に対する、愛情行為が、無償の愛であるという、観念とは、進化倫理学から見れば、無償でもなんでもない、利己的行為だというのである。
愛情がある、だからこそ、利己的であるという。

進化倫理学の愛情の定義とは、
われわれは、血縁者や特定の異性に対して愛情を抱き、そこで相手のために行動することを「快」に感じる。そうやって「相手のため」の行動が喚起されることで、われわれは、子どもの世話をするのが損か得か、病気の妻を助けるのが損か得かをいちいち考えるまでもなく、「自分という遺伝子を共有する相手の生存・繁殖可能性を高める」「配偶パートナーを獲得・維持する」という利益に向けて行動できる。これらの面で「自分の利益」にかなう行動を、自ら自然に自動的に起こさせる機能を果たし、そのために人間が進化させた感情作用が愛情である。
内藤淳
ということになる。

神や仏というものの、慈悲を親の愛に喩えることが、嘘だったということ。

この自然環境で、生きてきた人間は、そんなに甘くないのである。

仏教で説く、利他行という行為も、自然と意味の違うものになってくる。

奉仕活動や、ボランティア活動という、あたかも、慈善なる活動も、意味が、全く違ってくる。
宗教家が、行うそれらの、行為は、すべて、作為がある。
彼らは、無償の行為などできない。
出来るはずがない。
何故なら、その行為は、信仰によると、信じているからである。
つまり、その信仰、具体的に言えば、宗教の、布教という利己的目的が、厳然としてあるのである。

それらを、一切、見せない行為であっても、彼らの拝む神というものを、布教しているのである。

決して、無償な行為ではない。

例えば、全く布教の姿勢を、見せずとも、彼らは、所属する宗教から、信徒から、称賛され、支援を受けるのである。
更に、それを、宣伝用に使用される。
どこが、無償であろうか。

血縁者や異性への愛情は、基本的に人間に共通する先天的・遺伝的性質で、「自分の利益」の確保に向けて進化の中で人間が発達させた、そのための「装置」になっている。
内藤淳

そこで、問題になるのは、
では子どものいない夫婦や同性の恋人同士でも利他行動がなされるのはどういうわけなのか。パートナーへの利他行動が子どもを作り育てるためなら、そういうカップルの間では利他行動がなされる理由がなくなってしまう。しかし、実際には、子どものいない夫婦や同性の恋人などでも利他行動は盛んになされており、それはここで言う利益では説明できない。こうした疑問が、ここでの議論に対して浮かんでくる。
内藤淳
となる。

そこで、内藤氏は、
その説明をする。

ここで問題にしている人間の愛情やそれに基づく利他行動も同じで、こうした感情作用は、それを持つことが「遺伝子を残す」上で利益的だったために、それを生じさせる遺伝子が先祖以来受継がれて、(遺伝的障害などがない限り)われわれみんなに備わった。その上で、そうやって生まれた人間ひとりひとりが現実の一生を生きていく中では、配偶パートナーが獲得できなかった、子どもを作る機会がなかった、作ろうと思わなかった、異性ではなく同性に魅力を感じた、といったケースも生じうるし、実際そういう例はわれわれの周りに多々ある。しかし、愛情という感情作用を生じさせる遺伝子は、そういう人も含めて人間に生まれながらに備わっているのであり、・・・・その作用は消えるわけではない・・・
同性愛などが遺伝的要因から生じている場合でもそうで、だからといって愛情や知性を生じさせる遺伝子がその人から失われるわけではない。
内藤

利他行を、行じるという、宗教の、その様を、じっくりと、観察するが、いい。

空、中道、縁起、そして、利他行、慈悲の行為といわれるもの、何も、宗教によるものではなく、それは、進化によるものであり、なおかつ、それは、実に利己的なものなのであるということ。

他者のために、生きる時、私自身も、輝くのである。
人を幸せにするために、生まれてきたのである。
一人でも、多くの人を、幸福に導くことが、神の教えなのです。

等々、耳障りのことを、喧伝する宗教というもの、それは、人間の進化の賜物を、勝手に、利用しているに過ぎない。
ただ、それを、読んで、感動と、納得するという、アホは、多い。
そして、洗脳され、騙される。
騙されたまま、死ぬという、不幸である。

聖書では、新約になってから、神の愛を、無償の愛、アガペーと読んだが、旧約聖書の神は、嫉妬と怒り、裁きの神である。

新約の、アガペーの神の愛も、契約によってなる。
信仰宣言をして、成るものである。
信仰宣言をしなければ、その神の愛には、与れない。
つまり、無償の愛などというものは、嘘なのである。

主イエスは、善人の上にも、悪人の上にも、太陽の光は、与えられると言う。
その通り、信仰する、しないに、関わらず、太陽の光は、誰もが、享受できる。

ただ、与えるというものは、この世の、自然のみである。
古代の人、それを知っていた。
だから、太陽を崇敬した。
太陽を拝した。
それで、十分だった。

それでは、人類愛にまで、広がる、互恵的利他行動というものを、見てみる。
互恵的利他行動というものも、進化によって、得たものであり、何も、神仏による、教えなどではない。
人間が、生きるために、身につけた進化の過程であり、成果なのである。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第5弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

もののあわれ 379

おほ后も、参り給はむとするを、中宮の、かく添ひおはするに御心おかれて、おぼしやすらふほどに、おどろおどろしきさまにもおはしまさで、かくれさせ給ひぬ。足を空に、思ひまどふ人多かり。




大后も、参上されようとしたが、中宮が、付きっ切りであり、お出であそばすには、気が進まない。
ためらっている間に、特に苦しむことなく、お隠れあそばした。
足も地につかないほど、途方にくれる人が多いのである。





御位を去らせ給ふといふばかりにこそあれ、世のまつりごとをしづめさせ給へる事も、わが御世の同じことにておはしまいつるを、みかどは、いと若うおはします、おほぢおとど、いときふに、さがなくおはして、その御ままになりなむ世を、「いかならむ」と、上達部殿上人みな思ひなげく。





位を、退かれたとはいえ、世の政治の後見でいられた。在世中と変わらずにあった。
今の陛下は、大変若く、祖父の大臣は、とても気が短くて、非常識である。このままでは、どうなるのかと、上達部や、殿上人たちが、心配し、嘆いている。




中宮大将などは、ましてすぐれて、ものもおぼし分かれず。のちのちの御わざなど孝実仕うまつり給ふさまも、そこらのみこ達にすぐれ給へるを、ことわりながら、いとあはれに世の人も見奉る。ふぢの御ぞにやつれ給へるにつけても、限りなく清らに、心苦しげなり。こぞ今年と、うち続きかかる事を見給ふに、世もいとあぢきなうおぼさるれど、かかるついでにも、まづおぼし立たるる粉とはれど、またさまざまの御ほだし多かり。





中宮や、大将、源氏は、それ以上の嘆きである。
どうしていいのやら、判断がつかない様子。
後々の、ご法事などの、つとめも、多くの御子たちの中でも、優れているゆえに、当然ながら、お気の毒と、世間の人も、拝する。
藤の御装束に、お召し替えされるにつけても、この上なく、清らかで、いたわしい思いがする。
昨年、今年と、続けて、このような事に、遭われると、人の世の、儚さを感じて、こんな時でも、浮かんでくるのは、出家することであるが、一方では、色々気がかりなことも多いのである。

いとあはれに 世の人も見奉る
世の人も、深く同情するのである。
様々な、場面、心境に、あはれ、という言葉が、使われる。





御四十九日までは、女御みやす所たち、みな院につどひ給へりつるを、過ぎぬれば、散り散りにまかで給ふ。十二月の二十日なれば、おほかたの世の中とぢむる空の気色につけても、まして晴るる世なき中宮の御心のうちなり。大后の御心も知り給へれば、心にまかせ給へらむ世の、はしたなく住み憂からむをおぼすよりも、なれ聞え給へる年ごろの御有様を、思ひ出で給はぬ時のまなきに、かくてもおはしますまじう、みなほかほかへと出で給ふほどに、かなしきこと限りなし。




四十九日の、ご法事までは、女御や御息所たちも、みな院に集う。それが過ぎて、散り散りに、退出される。
十二月の二十日なので、年の暮れの陰気さがあり、そうでなくても、空模様を見ると、それ以上に、晴れ間もない、中宮の心である。
大后の心も、知るゆえに、その、心のままになさることになる、今後が、味気なく、住みにくくなるだろうと、思う。更に、それよりも、親しくしていた、長年の院の、有様を、偲び続けて、おいで遊ばすこともなく、皆々、退出される頃、この上もなく、悲しみが、湧いてくるのである。


おほかたの世の中 とぢむる空の気色につけても まして晴るる世なき中宮の御心のうりなり

ただでさえ、年の暮れの陰気な、空模様である。
それを、見るにつけても、晴れることのない、中宮の御心である。

おほかた
院の崩御と、関係なくても、年の暮れの空模様は、陰気なのである。

みなほかほかへと出で給ふほどに、かなしきこと限りなし
姫たちが、それぞれ、里に帰るのである。
院に仕えていたもの達が、帰郷するのが、かなしきこと限りなし、なのである。

中宮とは、藤壺である。

これより、源氏は、不遇の時代に入る。
新しい勢力が、台頭してくるのである。

物語が、次第に、複雑になってゆく。


posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第9弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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