2009年01月18日

神仏は妄想である 209

釈迦牟尼が人々に伝えようとした事柄は既存のバラモン教の教義とは余りに違う内容をもっていましたから、釈尊御自身もそれを他の人に伝えることを躊躇われたという言い伝えがある程です。人間は一旦頭や心の中に知識や考え方を形成してしまうと、現実の状況が大きく変化しない限り、それまでの知識や考え方と全く異なる情報を拒否しようとする性質をもっているのです。
藤見紀雄

バラモンから、ヒンドゥーへと、受継がれて、今もそれが、残っている最大の、カースト制について、仏陀は、真っ向から、否定する考え方を得た。
それが、平等である。

生まれながらに、人間が差別されることはない。人は、行為によって、成るものになるのである。
それである。

バラモンの教えは、当時の人の常識であるから、当然、仏陀の考えたもの、見出したものは、拒否される可能性が、高い。高過ぎるのである。

仏陀は、それを躊躇した。
それは、経典では、梵天が、現れて、説教せよと、仏陀に言ったことになっているが、創作である。
梵天とは、魔界のモノである。
それからして、経典は、創作の産物であることが、解る。

釈迦仏陀は、空というものを、発見したと、藤見氏は言うが、果たして、そうなのかは、明確ではない。ただ、仏陀によって、空の思想が、触発されて、生まれたと、考えることは出来る。

その理由は、
仏教の経典は最初はパーリー語によって記述され、その後、サンスクリット語に書き改められたと伝えられています。しかし何分にも最初の経典が作成されたのは釈尊がこの世を去られてから四百年も五百年も経った後のことでしたから、古くからの文字として遺されている資料にさえも釈尊が否定されたはずのバラモン教の教義などが何時の間にか混じり込んでしまっているように思われます。
藤見

バラモンの教えも、当然に混じるはずである。

不立文字という言葉があるが、これは、言わず語らずという意味ではない。
言葉にして、伝えることが、出来ないという意味でもない。

要するに、それぞれの地域や、それぞれの時代に合わせて、明確な概念が伝えられなければならないという意味である。

禅は、不立文字と、言っても、語るは、語るは、一番、煩いくらいに、文字にしているのである。
アレは、上記とは、別物である。

単なる、格好つけである。
語りきれないものがあると、嘯いているのである。

そして、最も、曖昧な、悟りというものを、目指しているという、お馬鹿さである。

禅の、修行者に、自殺者が多いということは、あまり知られていない。
何年座っても、悟れないと、嘆いての、自殺であるから、やり切れない。
そんなものは、あまりせんよと、誰かが、言えば済むことなのであるが、誰も言わない。

ただ、その行為の中に、悟りと、表現する姿があるということ。
悟り、悟ったという、お化けは、この世にも、あの世にも、無い。

悟ったと、言う者は、精神を病んでいるのである。

仏陀は、ただ、観たのである。
何物も、掴めないということを。
この世のものは、何も、つかむことが出来ない。

それは、空気を掴むのに、似る。
空気は、あるのだが、では、空気を掴めといわれると、掴めないということを、仏陀は、観たのである。

空気は、確実にあるのに、それを、掴むことが、出来ないのは、何故か。それでは、人間の生も、死も、掴むことは、出来ない。
老いも、病も、掴むことが、出来ない。

アララっ、何一つ、掴むことが出来ないものに、右往左往して、生きている。
そんな、暇なことを、考えて、更に、観た。

皆、掴めないのであると。

更に、確実なことは、地面に足をつけているということだけ。しかし、その地面も、何時、如何なることで、崩れるかもしれない。
アララッ、どうしましょう。

本当に、阪神大震災の時、皆々、まさかと思ったと言う。
新潟の地震の際も、まさかと、思ったと言う。
皆、起こってから、まさかと、思ったという。

そして、気づいた時は、家は流されて、村は、陥没して、アララッである。
更に、人生、何もかも、失ったと思う人もいる。

何一つ、決定していることは、無い。
仏陀は、それを、観た。

要するに、現実というものを、観た。

そこで、藤見氏は、

では何が釈迦牟尼の思想の根幹であったかというと教義の全ては「諸悪莫作衆奉行」という倫理観から出発しているのです。
と、言う。

悪を行わず、善を行うことである。

実に、簡単明瞭である。

ところが、暇な人がいて、悪とは、何か、善とは何かと、考える。結果、膨大な、仏教経典が、出来た。
もっと言えば、行うとは、何か。
そして、どのように行うか。
行う時の心は、どうするのだ。
とやれば、キリが無くなる議論になる。

あの、糞暑い、南インドで、竜樹は、暑さのために、頭をやられて、とんでもない、提言をはじめたのである。




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神仏は妄想である 217

人間も、他の生物と同様に、究極的にはこうした意味での利益獲得に向けて動く「利己的」な存在である。
内藤淳

人間の最大の、脳の進化もまた、生存、繁殖のプラスにならないのに、他の身体器官と同じように進化したのは、それが、人間の利益にかなうがゆえに、進化したと、考える。

人間の脳の、進化は、集団生活の中での、社会関係に対応する必要性から、進化したと、考えられている。
つまり、自然環境を相手に、複雑で、流動的な人間関係への対応、その中での、利害調整の必要性のためである。

つまり、社会関係に対処するために、言語コミュニケーション能力を含め、知性や理性を持つことが、利益にかなったからであるとする。

脳は、自分の利益のために、行動しているのである。

そこで、釈迦仏陀の、求めた、布施行為という、利他の行為は、いかなるものなのかということも、進化倫理学では、十分に考えられている。

結論を言えば、利他行為も、利己的行為なのであるということだ。

それを、説明するために、進化倫理学入門を、利用する。

さて、果たして、人間の行動は、理性で、行動しているのか。

説明をしていると、タラタラして終わらないから、どんどん、結論を書いていくと、人間の行動原理は、つまるところ、快、不快である。
そして、その快、不快には、利益が反映しているというのである。

われわれは基本的に自分が生存・繁殖する上で利益になるものに対して「快」を、不利益なものに対して「不快」を感じるようにできている。
内藤淳

エーッ、そんなことは、無いと言うのは、キリスト教信者であろう。特に、熱心な、クリスチャンは、否定するはずである。
ところが、彼らの、本音は、不快なことであろうと、つまり、不利益なことであろうと、信仰による理性によって、行動すると、思いこむ。
その心は、その、不快で、不利益なことをすることで、実は、最大の快である、天国という国が、保証されていると、信じ込むことである。

それは、最大の、彼らの利益である。
彼らは、人のためにと、行動しつつ、実は、自分が、天国に入いることのために、信仰の理性で、行動すると、思っている。
実に、偽善であるが、そう、信じている。

人類は、利己的でなければ、生き延びていないし、また、進化もしていなかった。つまり、滅びていたのである。

人間の行動は、その「快」を志向し「不快」を回避することで生ずる。(理性的ではなく)感情や感覚によって行動が決まるこの過程は、われわれに、自分の利益に向けた行動を自然に起こさせる仕組みになっている。こうした仕組みを通じて、人間は、自分でいちいち利害損得を考えていなくても、意識しないまま自分の利益に向けた行動をとる。言ってみれば、われわれは、自分の利益に向けて動くように「できている」のであり、自らが意識している以上に「利己的」な生き物である。
内藤淳

ただ、その副作用にて、後天的に、非利益的、反利益的な情報が、インプットされることで、自分の利益に、反する行動が生じる場合がある。
しかし、そうであっても、元にある、内面の、仕組み自体は、利益確保に向けた、構造と、機能を有していて、そういう仕組みを誰もが、備えているという点では、人間が、基本的に、利益に向けて動くという、原則は否定されないのである。

宗教が説く、利他行為というものも、進化倫理学では、徹底して、自分の利益に、集約して、理解できることになる。

あの、一見して、論じる、空、中論、因縁等々も、それ程、複雑怪奇にして、語る必要も無い。

これを、学べば、竜樹などは、大悪党だったことが、解るというもの。

また、それらの、太鼓持ちたちを、一網打尽にすることが、できるのである。

釈迦仏陀の行為も、極めて、利己的な行為であることが、解るのである。

更に、解脱とか、悟りというものも、こけおどしのようなものであることも、である。
まして、仏教の天上界という、魔界に生まれることもない。

実に真っ当に、人間として生きて、人間として、死ぬことができるのである。

そして、人類は、それを、目指して生きてきたのである。
仏などという、化け物に、なる必要は、毛頭無いのである。

内藤氏は、利他行為を、大きく四つに、分けて考える。
第一は、血縁者に対する、利他行為。
第二は、自分と特別な関係にある、人間、夫、妻、恋人などである。
第三は、友人、知人、同僚や、近所の人といった、一定の関係にある人たち。
第四は、見知らぬ人、不特定多数の人に対するもの。これが、多く宗教で、言うところの、利他行為である。

その一つ一つを、取り上げて、実に、理解しやすく、解説している。
入門書であるから、実に、気を配るのである。

その中から、私は、興味深いところを、抜粋して紹介する。

それは、実に、地味な観察である。
進化の過程の観察から、一つ一つの、人間の行動を、じっくりと、観察して、出来上がったものである。
理系の観察方法である。

そこには、文系のロマンは無い。
そして、科学であるから、ロマンはなくてもよい。
その後で、ロマンの必要な人は、付け加えればいいのだ。

そういう意味で、宗教を捉えれば、実に、歪なロマンであるということだ。
性格の悪い、意地悪な、ロマンである。
更に悪いのは、妄想を肥大化させて、現実の世界を見る目を、曇らせ、果ては、人間を、廃人としてしまう程の、威力を発揮する。

実に、宗教では、救われない。
つまり、人間のあるべき姿を、破壊し尽くすのである。
それが、妄想なのであるから、救われないというのである。

この世にも、あの世にも、救いというものは無い。
あるはずが無い。
救いというものも、妄想であるからだ。


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もののあわれ 378

院の御なやみ、かんな月になりては、いと重くおはします。世の中に惜しみ聞えぬ人なし。内にもおぼし嘆きて、行幸あり。



院のご病気が、十月に入り、とても、重くなりました。
世の中の人は、それを、惜しみ、心配している。聞えぬ人なし、心配しない人は、いないのである。
帝も、心配されて、行幸される。




弱き御心地にも、東宮の御ことを、かへすがへす聞えさせ給ひて、つぎには大将の御こと、院「侍りつる世に変らず、大小の事を隔てず、何事も御うしろ見とおぼせ。よはひのほどよりは、世をまつりごたにも、をさをさはばかりあるまじうなむ見給ふる。必ず世の中のたもつべき相ある人なり。さるによりて、わづらはしさに、みこにもなさず、ただ人にて、おほやけの御うしろ見をせさせむと、思ひ給へしなり。その心たがへさせ給ふな」と、あはれなる御遺言ども多かりけれど、女のまねぶべきことにしあらねば、この片はしだに、かたはらいたし。





衰弱された御心ながらも、東宮のことを、繰り返し繰り返し、頼むのである。
そして、次には、大将のこと。源氏のことである。
院は、私の在世中と、変わらずに、大小に関わらず、お世話役と、思ってください。年のわりには、政治を執らせるにせよ、別に遠慮することないと、思います。必ず、天下を治める能力がある人です。そのために、面倒が起こることを、恐れて、親王にもせず、臣下として、朝廷のお世話役をさせようとしたのです。この私の、心に、背くことなきよう。と、心打つ、遺言が、多くあった。
女の口にすべきことではないので、ここに、少しでも、漏らしたことでも、気が引ける。とは、作者の言葉である。




みかども、「いと悲し」とおぼして、さらにたがへ聞えさすまじき由を、返す返す聞えさせ給ふ。御かたちもいと清らに、ねびまさらせ給へるを、うれしく頼もしく見奉らせ給ふ。限りあれば、急ぎ還らせ給ふにも、なかなかなること多くなむ。





陛下も、悲しく思い、決して背くことのない、旨を、繰り返し繰り返し、申し上げる。
お姿も、大変綺麗で、お年とともに、なりあそばしたこと、院は嬉しく、頼もしく、ご覧になる。
限りがあるので、急いで、戻られるが、心残りが、多くある。




東宮も、ひとたびにと、おぼしめしけれど、物さわがしきにより、日をかへて渡らせ給へり。御としのほどよりは大人び、うつくしき御さまにて、「恋し」と、思ひ聞えさせ給ひけるつもりに、なに心もなく、「うれし」とおぼし、見奉り給ふ御けしき、いとあはれなり。




東宮も、ご一緒にと、思われたが、大げさになるので、日を替えて、行かれた。
お年のわりに、大人びて、可愛らしい様子。
院を、恋しいと、慕い、そこに居られたが、無邪気に、嬉しいと思い、院の御顔を、ご覧になる。その様子、とても、いたわしい。

この、あはれ、は、いたわしい、と推察する気持ちの、あはれ、である。



中宮は、涙に沈み給へるを、見奉らせ給ふも、さまざま御心乱れて、おぼしめさる。よろづのことを、聞え知らせ給へど、いとものはかなき御ほどなれば、「うしろめたく、悲し」と見奉らせ給ふ。大将にも、おほやけに仕うまつり給ふべき御心使ひ、この宮の御うしろ見し給ふべき事を、返す返す宣はす。夜ふけてぞ、帰らせ給ふ。残る人なく仕うまつりて、ののしるさま、行幸におとけぢめなし。あかぬほどにて、帰らせ給ふを、いみじうおぼしめす。



中宮が、涙に濡れているのを、見るにつけても、院は、あれこれと、心乱れ、悩んでいる。
色々なことを、お話しようとするが、とても、幼い年ゆえ、心もとなく、可愛そうであると、ご覧になる。
大将には、朝廷に、お仕えする心づかいや、東宮の、お世話を勤めることを、繰り返し繰り返し、仰せられる。
東宮は、夜が更けてから、お帰りになった。
殿上人も、残らず、お供して、ざわめいている様子は、帝の、行幸に、劣るところがないのである。
帰したくないのだが、お帰りになるのを、院は、ひどく残念に思う。

いとものはかなき
いと もの はかなき
ものはかなき、と、もの、がつく。

もののあはれ、は、もののはかなき、でもある。

あはれはかなき、と、なると、更に、思いが重なる。

はかなき、も、単に、儚いということではない。
存在の、希薄さではない。存在の深さであり、重さともなる。
儚いからこそ、それは、重大な意味があるのだ。

ここでは、その有様が、大変に儚いものであると、幼きことで、心もとないが、その存在が意味深いからである。
この部分は、訳者によって、いかようにも、表現することが、出来る。
つまり、百人百様の捉え方がある。

それぞれの、心象風景である。


posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第9弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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