2009年01月17日

神仏は妄想である 210

諸悪莫作衆善奉行 しょあくまくさしゅうぜんぶぎょう
悪を行わない。善を行うこと。
これが、仏陀最大の教え、また、教えの根幹である。

釈迦牟尼はこの倫理観が社会において実現されるときに全ての悩みも苦しみも解消されて人々の安心が保障されることを確信されていたのです。そしてこれを実現するために「空」や「般若」という概念を取り出して説明しているのが般若経典であり、その般若経典を更に要約した経典が般若心経です。

釈迦牟尼は意図的に提供される「間接的情報」において、ただ人々に受け入れ易い情報を提供することで人々の関心を買おうとすることは邪道であり、人々の権益を侵害することにもなり、提供された情報が流布され人々に受け入れられることが、人々の永続的に保障される福利の向上に繋がるか、人々の永続的な福利を害することに繋がるかという視点が大切にされなければならないと説いたのです。
藤見紀雄

上記のように、解説したものを、私は、見たことがない。

日本仏教愛好者たちは、いつまでも、言葉の概念を、曖昧にして、仏教、いや、それぞれの、宗派の教えを説く。本末転倒である。

悟りと、解脱と、涅槃と、覚りと、味噌糞一緒なのである。
全然、別物であることを、知らないのか、知っても、言わないのか。それで、全く、勘違いして、釈迦仏陀の教えを、捕らえる人、多数。

だから、
無にもなれず
空にもなれず
云々
という、文句を語る人も、現われる。

それは、悟り得ない自分というもの、卑下しているのである。

それぞれの思想によって倫理観の違いはあっても、どのような思想にも倫理観のない思想というものはありません。バラモン教にはバラモン教の倫理観があり、キリスト教にはキリスト教の倫理観があるのです。・・・
倫理観と言っても決して普遍的なものではなくそれぞれの社会や思想によって異なるものです。このように様々な倫理観がある中で釈迦牟尼はその思想から形成された倫理観を「諸悪莫作衆善奉行」という言葉によって示しています。「般若」というのはこの「諸悪莫作衆善奉行」という倫理観を実現するための知恵のことです。
藤見紀雄

現代の、倫理観というものを、理解しない、現在のローマ法王は、コンドームにより、エイズの予防にはならない、云々と言って、フランスの多くの信者、一般の人の支持を失った。

要するに、楽しみの性行為は、罪であるとする、根底から、抜けられなく、兎に角、性を快楽的に扱うのは、駄目。よって、コンドームを使用して、性を楽しむのは、駄目。
妊娠を目指す性行為のみ、よろしいと、今も、思い続け、性に対する倫理観を、変更できないでいる。
中世のまま。
石頭というより、意固地であり、頑固を越えて、頑迷である。

本人は、高齢であり、性の欲望も、希薄で、更に、法王という、聖人振りを演じなければならないからいいが、性欲旺盛な若い人を、自分と同じように、捉えている様は、あはれで、滑稽であり、ほとんど、人生というものについて、知らないのである。

彼が知ることは、死んだら、天国に行き、主イエスの、傍にいられるという、妄想である。
法王なのだから、主イエスから、我が友よと、言われると、信じ込んでいるのである。

さて、悪い行為をするな、善を行うことと、いっても、それは、何かということになる。

それには、理性による論理的な考察が必要になる。

そこで「般若」がこの必要性を満たすのです。そして「悪い行為」とは「他者の権益を侵害する行為」のことであり、「善い行為」とは「他者に権益を提供する行為」のことであることを明確にするのです。仏教ではこの「他者に権益を提供する行為のこと」を「布施」と呼んでいます。この「布施」と言うのはお坊さんやお寺さんに寄進することだけを言うのではなく、少しでも他者の役に立つ行為の全てを言います。
藤見

般若の別名は、理知ということになる。
つまり、理詰めの知恵、である。

日本仏教愛好者たちは、釈迦仏陀の教えを、都合よく、人々に伝えて、自分達の権益だけを、守るという、外道に落ちている。それにさえも、気づかない。

鎌倉仏教から、起こった、宗派の全てを見るがいい。
釈迦仏陀とは、何の関係も無い、蒙昧な教えで、信者を騙し、果ては、布施は、寺にするものであること、供養すれ、供養すれと、一体、誰のための、先祖供養かである。
それで、幸せになる。家族円満、家内安全。

仏典には、一言も無い、戒名から、更には、死者のことには、触れなかったはずが、葬式で、荒稼ぎ。
釈迦仏陀も、アワを吹いているだろう。

それで、お釈迦様の教えは、と、嘘八百であるから、救われないどころか、彼らが言う、地獄へ、直行である。

具体的な知識というのは特定の事物の表面だけを捉えて形成された心象であるために、どうしても建前と現実が乖離し易いところがあります。しかし現実の社会でこの理知を実現するためには多くの軋轢が生ずることも予想されるのです。それぞれの国の統治の在り方についてこの理知を実現しようとすることは政治の問題に関わることです。体制を動かしている人達にとって面白くないに違いありません。それでもこの問題に触れなければ人々の福利が本当に保証された社会を実現できない現実の中にあっては軋轢を恐れることなく「角が立っても」議論を起こすこともまた理知の働きです。
藤見

般若とは、パンニャーという梵語を、そのまま、漢字に当てた言葉である。
それは、理性と知性を、一体にした概念であり、現代の日本語として、相応しいのは、理知という言葉になる。

般若とは、倫理的な妥当性を、論理的に、検証することであり、それを、知恵と言う。

仏陀が、この考え方を得たのは、覚りを得てからの、オリジナルなものである。
更に、この仏陀の、オリジナルは、仏陀の感受性のゆえであること、付け加える。
それを、言い表しえないという、逃げの手は、通用しない。
感受性によるものであることを、明確にしておく。



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神仏は妄想である 208

般若心経の解説書や注釈書は大変な数に上がります。おそらく何所の書店に立ち寄っても一冊や二冊は表題に般若心経の文字を見付けることができるものと思われます。こうした中で何冊かの般若心経の解説書を読みますと語句の説明は様々で共通するところは古い時代の注釈の引用ぐらいなものです。ただ残念なことに経文の流れに沿って一語ずつの概念を明確に説明している解説書には出会うことができませんでした。
藤見紀雄

私も、同じである。
多くは、煙に巻いたものである。
更に、売れない作家をはじめとして、科学者や、ゴロツキ文筆業の者が、書く書く書く、のである。

いかに、宗教というもの、どうにでもなることが、解るというもの。
彼らの、妄想に時間を使っている暇は無い。
だが、それらが、売れているというから、日本人の、読解力が落ちたといえる。

簡単、明瞭が、いいのではない。しかし、小難しい言葉を、並べ立てるアホの書いた者も、うんざりする。

大半の解説書が日本の伝統的な仏教の宗派に所属する宗教家によって書かれていることもあって、語句の概念を一語ずつ明確に説明することより宗教学上の説明に重点が置かれていることが多いのです。また一方で特定な語句についてのみ情緒的な情景描写によって伝統的な説明をすることに努めている解説書もあります。この方法は釈迦牟尼の用いた比喩の方法を模倣したものです。様々な説明が出てくるのは、般若心経という短い経典の中に極めて多くの思想的な内容が抽象化され濃縮されて盛り込まれているため、簡単に釈迦牟尼の思想の全容を読み取ることができるような説明は困難なところがあるからです。
藤見

日本に伝統的な、仏教の宗派があると、想定すれば、の、話である。
彼らは、宗派の教えの、都合に合わせて、解説するということで、邪道、外道に他ならない。
更に、宗教学上の云々とあるが、宗教学など無い。それを、学問としたのは、西洋のキリスト教の、連中であり、日本には、宗教学など、無いのである。

また、宗教を、学問の枠に入れるということは、果たして、いいのかということもある。

あれは、学問足りえるのか。
思想といえば、聞えはいいが、妄想といえば、学問にはならない。

教学などという、連中がいるが、単なる、思いつきのことである。
一人の思いつきを、教学などという、心境が解らないし、驚愕する。

私は、竜樹の空も、般若心経の、空も、最後の、解決を見ている。
それは、最後に書く。

兎に角、藤見氏の、般若心経の、解説は、今までにないものであるから、実に、興味深いのである。

そして、釈迦仏陀の教えに、非常に近いと、判断した。

仏教の思想を伝えるための情報の混乱は経典が作られる前にもありましたが、経典が作られた後にも他の地域で使われている言語に置き換えるときに、元の名辞の表そうとしている概念を正確に理解することができないままに訳出されることでも惹き起こされていたのです。このために釈迦牟尼が神秘的な事柄の不明なところを明らかにして、秘密や神秘性を解消しようとした本願とは程遠い考え方を仏教の教えとして誤解しているところが少なくありません。
藤見

世界の宗教の中で、その教義が、滅茶苦茶なのは、仏教である。
兎に角、とんでもない、飛躍である。
先に書いたように、学問などにはならない程、混乱の至りである。

更に、日本に来て、益々、仏教というものが、不明瞭、不明確、ずたずたに、されたといえる。

とても、おかしいのは、漢語の解釈をするという、仏教愛好者たちである。
勿論、彼らは、それを、真剣にやっている。

実際のところ仏教ほど本来の教えが判らなくなっている宗教はありません。現代の日本においては殊にその傾向が強く「ほとけさま」と言うときの「ほとけさま」とは一体どんな概念を指しているのかはっきりしません。日本で「ほとけさま」と言うとき死者のことか仏像のことを指していることが多く、人間としての仏陀を意識して「ほとけさま」と言うことは殆どありません。このようにして「ほとけさま」とは死者か仏像のことであり、「ほとけさま」との関わりは葬式や盆や法事などといった儀式を華やかに執り行うことに限られてしまったのです。
藤見

その通りで、それらは、すべて、商売なのである。
宗教法人という、税制上の待遇を受けて、さんざんの商売をしているのである。

よくぞ、素顔で、表を歩けるものだと、思う。

ちなみに、仏教は、葬儀も、死者の追善供養なども、一切、取り仕切らない。
まして、死者に戒名など、つける訳が無いのである。

これほど、堕落し、かつ、膨張し、とんでもない常識を作り上げた、日本の仏教というものも、無いものである。

千年以上も前に、漢語で、入って来たお経というものを、未だに、無反省に、読経している様、信じられないの一言。
更に、そこから、派生する、新興宗教の仏教系といわれる、宗教団体は、糞も味噌も一緒。
臭くて、たまらないのであるが、信じてしまえば、あちっのもの。
糞と味噌を、拝んで、救われるという、信じ難い行為を、続ける。

ある、新興宗教の観音経というものを、読んで、仰天したことがある。
神様仏様、兎に角何でもありの、とても、通常の意識では、考えられない代物。

その大元は、神道系で、更に、そこから、狐に憑かれて、出来た新興宗教で、更に、そこから枝分かれしたもので、更にと続く。

そんなものに、お清めされたら、良い人も、悪くなるのは、必死。
健康な人も、不健康になる。

目が潤んで、浮遊霊にとりつかれた、信者の面々である。
ホント、ご苦労さんである。

精神疾患に罹っているとしか、思えないのである。それでも、拝むモノが、欲しいのか。
人間とは、あはれなモノである。

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神仏は妄想である 216

ただいま、法華経を見ている。
その中で、空というものが、出て、空の思想を、竜樹から見て、更に、空を、説くという、般若経の心臓部といわれる、般若心経について、書いている。

また、法華経に戻るが、今一度、空の思想と、釈迦仏陀の思想というものを、別な角度で、見ることにしたい。

一体、仏陀は、何を知り、何を観て、そして、何故、生き方指導を開始したかである。

そのために、インド思想史も、俯瞰しつつ、書いている。

「嘘をついてはいけない」「人の物を盗ってはいけない」といった善悪、正不正には、はっきりとした理由がある。しかもそれは、倫理学や道徳哲学を専門に勉強しないと分からないような複雑で難解なものではなく、単純で明快なものである。そして、人々はそれを分かっていないのではなく、はっきり意識していないだけで実はどこかでそれに気づいている。だからこそみんな「嘘をついてはいけない」「人の物を盗ってはいけない」と本気で思うのであり、道徳や善悪・正不正の区別が人間社会にあまねく存在するのはそのためである。

ではその理由とは一体何か。
それはずばり、利害損得である。
内藤淳 進化倫理学入門

進化倫理学とは、聞きなれない言葉であり、学問である。

対象をその「外」から客観的に観察・分析するというのは、科学的態度の基本である。まさにそのことから、従来より科学の中心は、物理や天文といった自然現象を人間が観察・分析する自然科学であったわけだが、最近ではわれわれの外にあるそうした現象にとどまらず、人間自身の行動や心理を対象にした人間科学が大きく発展している。
内藤淳

そこでは、人間の行動や、思っている動機、理由の背後にある、意識していない心の働きが存在する。
思考や行動が、それらを基にして、生じているということを、様々な実験や観察により、明らかにする学問であるという。

私は、宗教の時代が、終わり、このような、進化倫理学の時代がくると、予想する。

人間科学であり、それは、十分に思索に耐えられるものである。

近年は、人間行動進化学という、分野が、成果を上げている。
それは、生物進化の観点から、その過程で、人間が、いかなる心の働き、行動パターンを、発達させてきたかということ。
生物として、人間が、共通に持つ基本的性質とは、どういうものかを、研究している。

その中でも、人間の道徳性というものが、重要な研究テーマであり、それを、扱う研究が、進化倫理学と、呼ばれる。

進化倫理学に基づいて独自の発想でこの問題を考えたとき、その答えが人間ひとりひとりの「利益」の中に見えてくる。これは、言い換えれば、道徳に「利益」という客観的な根拠を見出すということで、これまでの倫理学ではなかなか答えが見つからなかったこうした問題に、新しい角度から光を当て、独自の見方を提示しているところが、新しい学問分野としての進化倫理学の大きな特長である。
内藤淳

人文、社会科学、自然科学、更に、文系、理系という、枠組みを超えて、人間や社会の問題を考えるという。
分野横断的な、視点を持つ学問として、注目すべきである。

それはまた、宗教の終焉を示す、学問とも、成り得る。

ここで、少し、寄り道して、この学問について見ることで、釈迦仏陀の、観たものを、より深く理解したいと、思う。

人間というものは、そもそも、利己的な存在であるとの、主張が、この、進化倫理学のテーマである。

利己的というと、わがままだとか自分勝手だとか、それ自体で「悪い」イメージがあるので、こうした表現をすると、それだけで「人間の性質はもともと悪なのだ」という受け取り方をする人がいるかもしれない。しかし、自分の利益に向けて行動すること自体は善でも悪でもない。
内藤淳

利己的であるのは、人間が、進化によって、地球に生まれた生物であることから、極めて自然なものである。
進化というのは、個々の生物が、自分の遺伝子を次の世代に残す中で、そのため、プラスになる、特徴や性質が、子孫に受継がれることで、起こること、明確である。

生物が、成功裏に、自分の遺伝子を残すということを、包括的、適応度の向上という。適応度とは、専門用語であり、すなわち、利益のことである。

面白いのは、自分の遺伝子を残すことと、種の保存とは、別物であるということ。
生物は、種の保存本能を持たないのである。

進化の過程で、生物に受継がれるのは、自分の遺伝子であり、種という、集団全体を残すための、性質ではないというのである。

種の保存という、考え方は、一種の信仰に似る。

種の保存という、本能は、生物の間に、進化しないのである。
実に、真っ当な、考え方である。

自己犠牲のみに、生きれば、種の保存は出来ないのであるから。

そして、更に、
進化は別に「弱肉強食」でも「優勝劣敗」でもないし、進化倫理学は、競争を擁護する思想とは違う。社会進化論というのは、単なる競争主義の価値観を、進化に関する誤った知識に当てはめて提示したもので、人間行動進化学や本書で論じる進化倫理学とは別物である。
内藤淳
というのである。

進化と進歩とは、違うものである。
劣った者が、淘汰されることで、世界が良くなる、発展するという話は、人間行動進化学からは、出てこない。

これは、非常に、興味深い学問である。
進化した、生物である、人間の精神と、心というものを、再度、確認しつつ、眺めることができる。

更に、釈迦仏陀が、観たものを、進化倫理学というもので、解決することが、出来るのである。

やたらめったら、理解不能な、言葉の数々を取り上げなくても、実に、よく分かる、話なのである。

宗教は、学問の領域に入らないが、人間観察と、その進化の過程から、考察したものは、学問足りえるのである。


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もののあわれ 387

心にくく、由ある御けはひなれば、物見事多かる日なり。申の時に、内に参り給ふ。みやすん所、御こしに乗り給へるにつけても、父おとどの、限りなき筋に思しこころざして、いつき奉り給ひし有様かはりて、末の世に内を見給ふにも、もののみ尽きせず、あはれにおぼさる。十六にて、故宮に参り給ひて、二十にて後れ奉り給ふ。三十にてぞ、今日また九重を見給ひける。




奥ゆかしく、風情ある人柄であるから、見物の車が多い日である。
申の刻に、御所に参上される。
御息所は、御輿に乗って、おいでになる際、父の大臣が、皇后の位にと、期待されて、大切にされた頃の様子とは違い、年を経てから、御所を見ると、ただ感無量である。
もののみ尽きせず あはれにおぼさる
思い出多く、それが、あはれ、という、感情に高まる。
ただ、感慨無量である。寂しい、切ないと、色々と訳すことが出来る。
十六で、故東宮に出られ、二十にて、お先立てられた。
三十になり、今再び、御所を、見られるのである。





御息所
そのかみを 今日はかけじと しのぶれど 心のうちに ものぞ悲しき

斎宮は、十四にぞなり給ひける。いとうつくしうおはするさまを、うるはしう士奉り給へるぞ、いとゆゆしきまで見え給ふを、みかど、御心動きて、別れの櫛奉り給ふほど、いとあはれにて、しほたれさせ給ひぬ。




御息所
その昔のことを、今日は、口にすまい。堪えているのだが、心のうちでは、悲しくて、なりません。
斎宮は、十四になられた。
とても、可愛らしい姿を、美しく飾られている。
この世のものとも、思われないほどの、姿に、陛下は、お心を動かされて、別れの櫛を、差し上げる。
その時、胸がつまり、涙を流したのである。



出で給ふを、待ち奉るとて、八省に立てつづけたるいだし車どもの、袖口色あひも、目なれぬさまに、心にくきけしきなれば、殿上人どもも、わたくしの別れ惜しむ多かり。



退出されるのを、待って、八省院並べた車から、のぞく着物の袖口や色合いも、珍しくあり、趣、奥ゆかしい。
殿上人たちも、それぞれ、別れを惜しむ。




暗う出で給ひて、二条より洞院の大路を折れ給ふほど、二条の院のまへなれば、大将の君いとあはれにおぼされて、さか木にさして、

源氏
ふりすてて 今日は行くとも 鈴鹿川 八十瀬のなみに 袖はぬれじや

と、聞え給へれど、いと暗う、ものさわがしきほどなれば、またの日、関のあなたよりぞ御返しある。

御息所
鈴鹿川 八十瀬のなみに ぬれぬれず 伊勢までたれか 思ひおこせむ

ことぞぎて書き給へるしも、御手いとよしよししくなまめきたるに、「あはれなるけを、少し添へ給へらましかば」とおぼす。
霧いたうふりて、ただならぬ朝ぼらけけに、うちながめて、ひとりごちおはす。

源氏
行くかたを ながめもやらむ この秋は 逢坂山を 霧なへだてそ

西の対にも渡り給はで、人やりならず、ものさびしげに、ながめ暮らし給ふ。まして旅の空は、いかに御心づくしなること、多かりけむ。




源氏
今日は、私を振り捨てて、行かれても、鈴鹿川を渡る時、川瀬の波に袖を濡らすように、後悔されることは、ないでしょうか。

と、申し上げるが、暗くなり、落ち着きもない頃なので、次の日、逢坂の関の向こうからの、お返事である。

御息所
鈴鹿川の波に、濡れるか、濡れないか、誰が、あの遠い伊勢のことまで、考えてくださるのでしょうか。

言葉少なく書かれている、お手紙は、とても深みのある、書であり、風雅を感じる。
源氏は、これに、あはれなるけを、少し付け加えていたなら・・・と、思われる。

あはれなるけを 少し添へ給へらましかば
その中に、少し、あはれなる、風情をと、思う。
霧が厚く振り注ぐ、明け方、思い乱れて、ぼんやりとして、独り言をされる。

源氏
あの一行の、行き先を、眺めていよう。今年の秋は、逢坂山の辺りを、霧が、隠さないで、ほしいものだ。

西の対にも、渡らず、我が心ゆえと、思いつつ、一日を、過ごされる。
それにもまして、旅の身の上は、どんなに、心乱れること、多かったのでしょうか。

最後は、作者の、感想である。


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神仏は妄想である 215

藤見紀雄氏の、般若心経の思想、という著書から、多く刺激を受けて、それを紹介している。私は、今まで、このように、般若心経を、読む者を知らない。

ただし、これは、あくまでも、般若心経という経典の思想であり、その解説である。

釈迦仏陀が、そのように、語ったと、藤見氏も、言うが、実は、釈迦仏陀は、そんなことを、語ってはいない。
何故なら、釈迦仏陀当時に、それほど多くの語彙は無かった。
初期仏典の、ダンマパダなどを、見れば、どうでもいいような、ことが、書かれている。要するに、寝惚けた言葉の羅列である。しかし、釈迦仏陀が行為したことにより、人々は、釈迦仏陀を慕い、釈迦仏陀は、このようなことを、また、このように、説きたかったのであろうが、あると、断定されて、経典が出来上がった。

つまり、多くの人によって、仏教という思想、宗教が作られていったのである。

それを、釈迦仏陀という、権威、無形の権威を、掲げて、それぞれが、教えを立てていったのである。

だから、仏教の教義は、ある見方、例えば、キリスト教神学などから見れば、滅茶苦茶に、見える。

勿論、キリスト教神学というものも、多く、ギリシャ哲学の借り物である。
オリジナルとしては、罪の羅列であろう。
信者を支配するために、膨大な罪の意識になるものを、作り上げたのである。

さて、それを、前提に、藤見氏の、解説を、もう少し紹介する。

釈迦牟尼の思想というのは社会の中で最も恵まれない人達の福利を永続的に保証することにありました。しかしバラモン教の社会においてはそのような思想や倫理観は異端でした。人々は福利の保証されている人達の既得権の永続性が維持されることを秩序の基本に置いていたのです。
藤見

釈迦仏陀の思想は、バラモン教の序列の原理に、反することだった。
しかし、釈迦仏陀は、序列の原理を廃止して、対等の原理を社会に、実現しようとした。

序列の原理は、カースト制のような世襲の階級の序から、長幼の序、性別の序、人種の序、貧富の序、地位の序などの、様々な差別を生み出す原因があることを、発見したという。

序列の原理は、広く流布された情報のよって、形成された観念の中の心象である。
更に、この、序列の原理を守ろうとするのは、権威主義となる。

権威主義はそれぞれの社会の体制が提供する情報を素直に受け入れて心象を形成している具体的な知識を豊富にもった人間によくみられる傾向です。
藤見

そして、権威主義は、画一性の原理と、一体になり、異端者を排除しようとするのである。更に、この、画一性の原理を進めると、全体主義になる。

自由主義とは、多様性の原理により、様々な選択を希望できる思想を言う。

様々な社会には、様々な思想と、倫理観がある。だが、多くの人は、様々な倫理観があるとは、考えられないのである。

イスラム社会、アラブ諸国の、倫理観を、日本人は、真実理解できないということを、知らないと、似ている。
また、イスラエル、パレスチナ問題なども、然り。

民族と宗教が、一体になった、倫理観というものを、日本人が理解するには、逆立ちしても、無理なのである。
大二次世界大戦の、国家神道というもので、解釈も出来ない。
あれは、一時的な、狂いである。
戦争が、終わり、伝統としての、神道に戻った。
勿論、今でも、国家神道の悪夢に、うなされていると、信じ込む者もいるが、大半は、強迫神経症である。


「アノクタラサンミャクサンボダイ」という仏陀の「覚り」が語られるまでには「空」について語られ菩薩が「顛倒夢想」から遠く離れ「涅槃」に至るまでが語られてきました。このようにこれまでに語られた内容の中に「無上正等正覚」とはどのような概念かを考察するヒントがあるのです。先ず観自在菩薩は「五蘊皆空」と見極めたとき理知を確立したのです。つまり人間の活動は全て観念と一体だということから倫理観や理性的な倫理性の要請を受けて理知が確立されたのです。また菩薩が「顛倒夢想」から遠く離れたのも、仏陀が「アノクタラサンミャクサンボダイ」を得たのも共に確立された理知に依るところでした。これらを振り返ると結局は倫理の問題になるのです。
藤見

その、倫理とは、諸悪莫作衆善奉行、つまり、悪いことをしない、良い事をする、である。

だが、これは、非常に抽象的であるから、具体的現実を、この言葉と、照合するために、現実を抽象化しなければならない。

藤見氏は、この作業を、帰納といい、更に、抽象的な倫理観を実現するために具体化することを、演繹という。
帰納と、演繹という、論理上の作業が的確に行われることが、現実の社会に、倫理を実現することになる。

この作業が、的確に、行われないと、建前と、現実が乖離して、倫理の崩壊を招くのである。

藤見氏は、この、具体性から抽象性へ、また、抽象性から具体性への的確な変換をする知恵が、無上正等正覚だと、推測する。

これについては、これ以上詮索しない。
空の思想、空とは何かということを、書いている。

ただ、言えることは、既存の仏教思想や、このように、般若心経というものを、説くというのは、精神論のみでは、成り立たないということである。

釈迦仏陀の、平等の教えというものを、後世の人々が、真剣に、考えて、経典の中で、議論しているのである。

単なる、精神論であれば、それは、現実生活に、少しの、慰めを与えるが、生きるという、実際的行為の中に、釈迦仏陀の、教えは、生かされないということである。

バラモンの社会で、人間平等を、掲げるということは、とてつもなく、大変なことであり、それは、死を賭けた教えでもある。

何故、人間は、平等なのかということを、般若の思想、大般若経は、語る。
般若心経は、その心臓部だといわれる。

空の思想は、精神論ではなく、現実主義、そして多様な社会に、合わせて、空の思想を、実現するものであろうとの、願いがある。

それならば、神仏は妄想ではなくなる。
神仏が現実に生きることになる。
そこでは、神仏とは、勿論、人間のことである。


藤見氏の、アノクタラサンミャクサンボダイの記述を、私は、カタカナにしている。

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