2009年01月16日

神仏は妄想である 207

般若心経について、書く前に、確認しておきたいことがある。

インド人は、ゼロという数を発見した、民族である。
その、ゼロの発見で、数学というものが、飛躍的に発展したこと。
そして、その、ゼロという言葉は、空という言葉と、同じであるということ。

さて、空とは、無ではないと、書いた。
無とは、有に対する、対立したものである。
空と、無とは、一緒ではないこと。

であるから、中国思想の、無の思想と、ごちゃごちゃにしないこと。
中国思想の、無の思想は、別物である。

それが、禅宗によって、曖昧になり、老荘思想によって、解釈されるという、仰天を起こしてしまい、老荘思想の、禅思想ということにまで、至り、今は、もう、整理のし様がないほどになっている。

禅なのか、老荘思想なのか、解らないということである。

更に、老荘思想は、日本人の自然観というもの、更に、自然感覚というものを、おおきく、捻じ曲げてしまったということも、言っておく。

漢籍によって、大きな知的刺激を受けたが、冷静に、日本の心というものを、考えると、老荘思想など、物の数ではない。

信濃なる 千曲の川の さざれ石 君踏みては 玉とひろわん
万葉集

この、一つの、歌で、老荘の自然観というものは、超える。

頭で、捏ね繰り回した、言葉遊びは、日本には無い。
物があり、人があり、そして、心が、あった。
言葉だけが、単独にあるような、思想というものは、日本には、無い。

ちなみに、釈迦仏陀も、頭で、捏ね繰り回した説教を繰り返したのではない。

更に、これから死に行く人に、般若という、知恵の空を、語った訳ではない。

元々釈迦牟尼の思想というのは雲の上の思想でもなく、神秘的な思想でもなく、線香の匂いのする思想でもありません。極めて現実的な人々の福利が永続的に保障された社会を建設するための提言です。
藤見紀雄 般若心経の思想

更に、付け加えれば、霊能者たちが、読経して、霊を出したり、霊を払ったりするようなものでもない。

更に、ハウツー物で、理解して、般若心経とは、などという、甘いものでもない。

勿論、誰が、どのように、それを、解釈しようと、勝手である。
しかし、それは、その人のことであり、その人の、問題意識であり、その人のみに、言えることで、他の人には、全く意味の無いということもある。

空が、縁起であり、中道であるとは、数学のゼロの意識である。
すべては、ゼロが、基点になったのである。

般若心経を、理解するもっとも良い手立ては、数学を、学べばよい。

それから、もう一つ、余計なことを、言えば、解らないものは、解らないでよいのである。
解った振りをするのが、一番悪い。
空も、無も、解らないのであれば、解らなくていい。
それでも、死ぬ時は、死ぬ。

それから、真理などという、化け物は、この世にも、あの世にも無い。

ただ、あえて言えば、この世も、あの世も、進化だけがある。
進化が、真理だといえるのかと、問われれば、私は、知らない。
だが、知らなくても、そのうちに死ぬ。

私が、確実に、解っていることは、確実に、死ぬということだけである。

後は、死ぬまでの、暇潰しをしていると、それだけである。

先の、藤見さんが書く。
「般若」という思想は先に、「空」という言葉の概念を理解しなければ納得することのできない思想だからです。つまり、「空」の理解は「般若」を理解するための必要条件だということです。

般若心経の「空」というのは「情報」と大きな関わりをもっています。いや「情報」というものがなければ般若心経でいう「空」は存在しないのです。
藤見

このように、般若心経を、見た人を知らない。
今までは、へんちくりんな、言葉遊びに始終するものばかりであった。

例えば、もっとも、理解しやすいような、耳障りの良い、空の説明を、抜粋する。

目に見える物質は色だ。水は太陽に照らされ、気体となって蒸発する。それは目に見えない物質だから空だ。
水から蒸発して、天高く上がっていった水蒸気は、やがて雲になる。雲が集まって、気温や気圧という条件がととのったとき、水蒸気は雨となって地上に降り注ぐ。
雨は目に見える物質だから色だ。地上の雨は集まって谷川は集まって大河となり、やがては海に帰ってゆく・・・
「うーむ。そうすると、水は色であるが空でもある。だから色は空に異ならずか。
それなら人間の肉体だって、死ぬと火葬されて灰になる。つまり空になるけれども、ふたたび空から生まれてくるんでしょうか」
「そうとも。空は水や肉体ばかりでなく、すべて形あるものの根源だ。いや、すべての生命の源だな。いうなれば空は生命の蔵だよ。

上記、誰の本かは、書かないが、この程度で、ああそうかと、思わせる、詭弁である。
よく解る、般若心経入門であるだろうが、これは、単なる精神論である。

嘘ではないが、本当でもない。
言葉の手品である。

この調子で、解説が続き、解った気になるのである。
一体、現実の世界を、何と心得ているのか、である。

何故、繰り返し、この、般若、つまり、智慧というものを、多くの人が、考え込み、様々に解釈してきたのか。

鎌倉時代に、文盲の人々に、絵を描いて、地獄の様を、教えたようなもの。

文字は、読めても、解らない人を、解った気にさせるもの。
解らないことは、解らなくていいのだという、思想、姿勢が無い。

解る者は、解説しなくても、解るのである。
話して解る人は、話さなくても、解るものである。

教えの、説得は、無用なのである。

それでは、私の姿勢は、何かと、問われれば、ゼロも、妄想であるということを、書いている。
神仏は妄想である。のである。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第5弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

もののあわれ 386

御ふみ、常よりもこまやかなるは、思しなびくばかりなれど、またうちかへし定めかね給ふべき事ならねば、いとかひなし。男は、さしもおぼさぬことをだに、情のためには、よく言ひつづけ給ふべかめれば、まして、おしなべてのつらには、思ひ聞え給はざりし御中の、かくて背き給ひなむとするを、口惜しうも、いとほしうも思し悩むべし。




お手紙の、いつもより、更に、心深く感じられる。
御息所の決心も崩れそうである。が、いまさら、改めて、思い直すことでもなく、それは、何にもならない。
男は、大して、思わないことでも、恋の道にかけては、上手なことを言う方らしいのに、まして、普通の人とは、思っていなかった、相手である。
こうして、去ってしまうのは、残念である、気の毒だと、思い悩んでいる。

この部分は、第三者の語りである。
作者が、神の目になり、俯瞰する。




旅の御装束より始め、人々のまで、なにくれの御調度など、いかめしう、珍しきさまにて、とぶらひ聞え給へど、何とも思されず。あはあはしう心憂き名をのみ流して、あさましき身の有様を、今はじめたらむやうに、ほど近くなるままに、起き臥し嘆き給ふ。



旅の、御装束をはじめ、女房たちのものまで、調度品を、立派に、新しく整え、お贈りされたが、女君、御息所は、別に心を動かさない。
軽々しく、情けない噂ばかりを、広めて、嘆かわしい、わが身の有様と、今更のように、下向の近づくままに、起きては、嘆き、横になっては、嘆くのである。




斎宮は、若き御ここちに、不定なりつる御いで立ちの、かく定まりゆくを、うれしとのみ思したり。世の人は、例なきことと、もどきもあはれがりも、さまざまに聞ゆべし。何事も、人にもどきあつかはれぬきはは安げなり。なかなか、世にぬけ出ぬる人の御あたりは、所せき事多くなむ。




斎宮は、幼な心に、はっきりとしなかった、出発が、このように決まるのを、ただ、嬉しいと思う。
世間の人は、例のないことだと、非難したり、同情したり、様々に、取り沙汰する。
何事も、人に、とやかく言われない身分の人は、気楽である。
世間から、飛びぬけた、身分の者は、窮屈なこと、多々あり。




十六日、桂川にて御はらへし給ふ。常の儀式にまさりて、長奏送使など、さらぬ上達部も、やむごとなく、おぼえあるをえらせ給へり。院の御心よせもあればなるべし。出で給ふほどに、大将殿より、例のつきせぬ事ども聞え給へり。源氏「かけまくもかしこき御まへに」とて、ゆふにつけて、「鳴る神だにこそ。

やしまもる 国つみ神も 心あらば あかぬ別れの なかをことわれ

思う給ふるに、あかぬ心地し侍るかな」とあり。いと騒がしきほどなれど、御返りあり。宮の御をば、女別当して書かせ給へり。

斎宮
国つ神 空にことわる 中ならば なほざりごとを まづやたださむ




十六日、桂川にて、お祓いをされる。
いつもの、儀式より、立派に、ちようぶそうし、などや、その他の、上達部も、身分の高い、評判のよい人を、選んだ。
院のご配慮もあったのである。
野の宮を出る頃、大将殿、源氏から、例により、尽きぬ思いの、数々を申し上げる。
源氏は、言葉にするのも、恐れ多い、御前に、と、木綿に結び付けて、鳴る神でさえ、思う中は、裂きません、

この国を、お守りなさる、国つ神も、もし情けがあるならば、心ゆかぬ、我らの、仲を考えてください。

いくら考えても、心ゆかぬ思いがします、とある。
大変、慌しい、時であるが、ご返事がある。
斎宮の歌は、女別当に、書かせた。

斎宮
国つ神が、空から、私たちの、中を、お考えされれば、あなたの、実の無い言葉を、何より、正されるでしょう。




大将は、御有様ゆかしうて、内にも参らまほしくおぼせど、うち捨てられて見送らむも、人わろき心地し給へば、おぼしとまりて、つれづれにながめ居給へり。宮の御返りの、おとなおとなしきを、ほほえみて見居給へり。「御としのほどよりは、をかしうもおはすべきかな」と、ただならず。かうように例にたがへるわづらはしさに、必ず心かかる御くせにて、「いとよう身奉りつべかりし、いはけなき御ほどを、見ずなりぬこそねたけれ。世の中定めなければ、対面するやうもありなむかし」などおぼす。




源氏は、その様子が、見たいと思ったが、何か、振り捨てられたような、気分であり、体裁が悪いので、思い止まった。
ぼんやりと、物思いに耽る。
斎宮の、返事が、すでに一人前なことを、年のわりには、しゃれていると、笑って、気が動くのである。
このような、面倒な女は、きっと、心が、留まる癖があり、その姿を、いくらでも、見られた、幼い頃に、見なかったこと、残念だ。世の中とは、解らないもの。いつか、対面することもあるかもしれない。などと、思うのである。

posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第9弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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