2009年01月15日

神仏は妄想である 205

竜樹の中論が、空を説いているということは、書いた。
その仲間達は、つまり、中観派の人たちは、空性論者と、自ら称していた。

では、この、空とは、何かである。

古来から、空は、無とか、虚無と解されやすい傾向がある。
中観派を、攻撃する人たちは、空を、無と、同一視して、中観派は、一切を否定して、虚無を説いたのであるから、虚無論者であると言われた。

このように、空を、無とすると、中観派は、仏教を破壊する邪説ということになるのである。

例えば、その反対者の意見である。

もしもこの一切が空であるならば、生も滅も存在しない。聖なる四つの真理の無いことが汝に付随して起こる。

聖なる四つの真理が存在しないから、完全に熟知すること「知」、「煩悩を」断ずること「断」、道を修得すること「修」、「ニルヴァーナを」直接体得すること「証」はありえない。

それが無いが故に四つの果報は存在しない。結果がないが故に結果としての状態もなく、また目標に向かって進むこともない。

法ならびに僧がないが故にどうして仏がありえようか。このように空を説くならば汝は三宝をも破壊する。

と、色々ある。

竜樹は、それに、
ここにおいてわれらは答えていう。―――汝は空における効用(動機)・空「そのもの」および空の意義を知らない。故に汝はこのように論争するのである。

つまり、竜樹の空を、無と、捉えての批判であるから、平行線である。

空が、無の意味ではないとすれば、どのように、解すことが出来るのか。
空性とは、縁起の意味である。
空とは、縁起せるという意味である。
不空とは、縁起せざるの意味である。

どんな縁起でも、それをわれわれは、空と説くのであるという。

縁起空という言葉も、出来るのである。

縁起と空あるいは、不生などとは互いに、反対の概念なのではなく、実は同一の概念なのである。

ここで、少し話を変えるが、日本の仏教経典は、漢訳されたものを、使用しているということである。つまり、漢訳できない言葉もあり、それは、訳者によって、考案された言葉ということになる。

後で、触れることになるが、天台の空観は、中国からのものであり、インドの空観ではないのである。

クマラジューが、訳した、衆因縁生法という訳語は、衆「多く」の因と縁によって生じられるという意味に訳しては、いけないといわれる。

業は、縁によって生じられたものではないということになる。
しかし、中論では、ありとあらゆるものは、業も縁起せるものである。それ故に、縁によって生じたものと、縁起した、とは、区別して考えるということだ。

縁ってを、原因によってと、解することは、中観派には無い。
それでは、縁起というものを、どのように解釈していたのか。

縁起とは、相依性、相互依存の意味である。

行為によって行為主体がある。またその行為主体によって、行為がはたらく。その他の成立の原因をわれわれは見ない。

行為と、行為主体は、互いに相依って成立している。
つまり、Aによって、Bがあり、Bによって、Aがあるということになる。

相互依存以外の、縁起は無いということである。
他の小乗は、様々な解釈が、行われた。
例えば、十二支が順を追って時間的に、生起することを、関係としていた。また、時間的生起関係と、解していた。

しかし、中観派は、これらと、峻厳として、対立したのである。

縁によって、起こることは、時間的生起関係によって、成ると、解されていたことが、中観派によって、法と法との、論理的相関関係を意味するものとなった。

浄に依存しないで不浄は存在しない。それに縁って浄をわれらは説く。故に浄は不可得である。

不浄に依存しないで浄は存在しない。それに縁って不浄をわれらは説く。故に不浄は存在しない。

浄は、あくまでも浄であり、不浄ではなく、また、不浄は、どこまでも、不浄であって、浄ではない。
両者を混同することは無い。
しかし、浄と不浄が、それぞれの本質を持つならば、浄は不浄を離れても存在し、不浄も浄とは、独立に不浄として存在することになる。

だが、浄も不浄も、ともに自然的存在の「ありかた」であるゆえに、独立に存在することは、不可能である。

古代インド人が、問題としていたことは、自然的存在の領域ではなく、法の領域である。

であるから、浄は不浄によって、浄であり、不浄は、浄によって、不浄である。両者は、独立して存在しないものである、ということになる。

認識対象があれば、認識方法があり、認識方法があれば、認識対象がある。

相互依存で無いものは無いということである。

それが、縁起であり、空である。

何であろうと縁起して起こったものではないものは存在しないから、いかなる不空なるものも存在しない。

面白いのは、
もしも、ニルヴァーナが有「存在するもの」であるならば、ニルヴァーナーはつくられたもの「有為」となるであろう。何となれば無為である有は決して存在しないからである。

ニルヴァーナーというものも、仏というものも、皆、因縁に属しているのである。

この中観派の、思想を、最も、受継いでいる日本の宗派は、華厳経を奉じる、華厳宗である。

ただ、華厳宗は、中国において、唱えられたものである。
しかし、中論を、取り入れているのである。

もう一つ、竜樹の考え方が、ジャイナ教にも、あり、これは、両者が、何らかの、交流、または、関係を持っていたのではないかということだ。
他宗教であるから、論争は、行われていたはずであるから、ジャイナ教にも、近い考え方があったのであろう。



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神仏は妄想である 213

釈迦牟尼の思想においては「話すこと」も「身体を使って働くこと」もその価値を同じ重さに置いているのです。これは「話すこと」によって権益を提供したり、また権益の侵害をすることがあるのは「身体を使って働くこと」によって権益を提供したり、また権益の侵害をすることがあるのと同じ影響力をもっているからです。
藤見紀雄

大切なことはそれぞれの本分を通して他者に権益を提供しているか否かが問われなければならないのです。

現代の社会では「話すこと」は、それが職業として成り立つことによってのみ価値が認められるという状況の中で「話すこと」の内容が商品化されてしまいました。このため「話すこと」が商品的な価値が有るか無いかということが重要になり、その「話すこと」の内容が人々に権益を提供するものであるか、人々の権益の侵害するものであるかという視点が失われてしまったのです。このため現代では「話すこと」を職業としている人達が真剣に人々に権益を提供する目的で情報を提供していることは稀で、大抵は人々に受け入れ易い情報を提供することで手軽に報酬を得ようとする人間が増えました。このような情報には結果的に人々の権益を損なう情報も少なくありません。仏教に関する情報にしても歴史的な資料のある範囲においては古い時代に比べれば明らかにされるようになってきました。しかし釈迦牟尼の思想そのものは却ってベールを掛けられて神秘的な教えであるかのような説明が多くなってしまったのです。
藤見

上記は、批判である。
そして、批評であり、評論である。

もう、死に体の、日本仏教愛好者たちの言う、釈迦仏陀の、教えでは、時代を、更に、次の時代を生きられないのである。

神仏というものは、妄想であるが、釈迦仏陀の教えは、妄想ではなく、オリジナルの思考法なのだということ。

ある、法華経の解説者が、その集まりの名前の霊界を作って、法華経講義をする。
勿論、その代表が、何を、どう言っても、構わない。
また、会員が納得して、入会し、金品を支払っても、問題がない。

そして、そこに、会員の心の権益が、あるというのなら、更に問題は無い。
釈迦仏陀は、人々が、平等に、権益に預かることを、教えたのである。

法華経を奉じる、それぞれの、新興宗教の派閥が、どれ程、激しい、批難合戦をしているのかを見れば、彼らは、単なる、烏合の衆としての、集いであり、社会的に、何の権益をも、人々に提供しないのである。

一見、ボランティア、奉仕活動などで、それを示しても、それは、会員増強と、会員増大のための、方法である。
方便でも、決して無い。

釈迦仏陀は、己のみ、仏陀であるとは、言わなかった。
人は、皆、仏陀、すなわち、覚った者になるのだと、言う。

であるから、般若心経に登場する、観世音菩薩、または、観自在菩薩は、総称なのである。

菩薩とは、サンスクリットの、ボーディーサットゥバから、そのまま、菩提サッタと漢訳したものである。

菩薩は、菩提と、サッタの、二つの語の、概念が必要である。

菩提とは、生きている人間の、想い、情念であり、想念である。
更に、希望とか、期待という、心の状態を表す。

それでは、菩提を弔うという、言い方の中にある、死者に対する、所作というものは、実は無いのである。
正確には、故人の、想い、想念、期待を、引き受けることである。

仏教で言う、死後の世界とは、生きている人間が、現実に即して、生きることであり、死後の世界、端的に言えば、極楽などという、夢の世界は無いということである。

人間が、死んだ後で行く、霊の世界というものは、仏教の思想には無いものである。

その人間が生前に生活をしていた世界での言動が、その人間の死んだ後にまで、その人間が生前に生活をしていた世界の後に遺された人々の生活に様々な影響を及ぼすということについて「死後の世界」と呼んでいるのです。このような「死後の世界」に対しての概念が曖昧なことを好いことにして商売をしている宗教団体の罪は深いものがあります。
藤見

浄土三部経の、世界は、無いということになる。

釈迦仏陀は、死後の世界については、一言も、発言していない。
また、神通力を得た、弟子の、目連に対しても、それを、使用することを、禁じたのである。何故か。生きるに必要ないことだからである。
それは、余計な邪念になることが、解っていたのである。

サッタとは、どのような意味であるか。
衆生とか、全ての生き物という説明があるが、ここでは、人間であると、限定して考えるべきである。

つまり、菩薩とは、目的のために、想念や、情念を注ぐ人という、意味になる。

菩薩は、人間以外のなにものでもない。
更に、生きている人間のことであり、死んだ人間、あるいは、空想、妄想の、化け物のことではない。

この求道者である「観自在菩薩」の課題は「社会の動向を在りのままに把握すること」ということです。このように困難な課題を持ち続けることは常人にはできることではありません。しかしそれが「菩薩」と呼ばれる所以ですから、そのことを理由にして「観自在菩薩」を固有名詞と説明するのは間違いです。この「観自在菩薩」は「社会の動向を在りのままに把握すること」に情念をかけているという姿勢をもった人間であると説明しなければなりません。
藤見

この、心的状態は、どのような観察も自己の頭や心の中にあることの影響を受けないで心象を形成することはできないという、当たり前の、状態に、達した者なのである。

理知とは物事を丁寧に視たり聴いたりした上で、丁寧に考察や思考を積み重ねる裡に形成される心象であり外からの情報に接しただけで形成され蓄積された心象である具体的な知識とは質の異なる心象です。
藤見

どのような情報でも情報の受け手の側に興味や関心がなければ「観自在」や「観世音」など思いも及ばないことです。
と、藤見氏は、言う。

更に、観察する行為には、主観と、客観という、姿勢がある。

客観とは、観察の客体という意味で、日本語に訳された言葉である。
そして、観察の主体という意味として、主観という日本語に、訳された。

藤見氏は、
客観という名辞が何時の間にか「観察の客体」という意味から離れて「観察という行為の在り方に対しての評価」のための言葉として使われているのは問題です。
と、言う。

物事を、ありのままに観るには、主観によっているということを、明確にしなければならない。
これに対して、客観的に観るとは、錯誤が形成されることになる。

丁寧に、観察した後、丁寧に、考察することで、課題を深める。
この姿勢こそ、観自在菩薩であり、それは、哲学者に欠くことのできない、思想家としての、基本的姿勢である。

以上、藤見氏の、論を見た。

大般若経という膨大な、経典のエキスをまとめた、般若心経であるが、空の思想を考える上で、取り上げた。

竜樹の、空の思想が、この経典から、影響を受けている。
さらに、竜樹は、それを言葉の限界まで、突き詰めたと、考える。

それでは、もう一度、空と、無について、考察する。


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神仏は妄想である 214

般若心経の中に、是故空中無色 無受想行識という言葉がある。
ぜこくうちゅうむしき むじゅうそうぎょうしき

是故とは、このような、理由によってという意味。

問題は、空の中は、無色であり、更に、受想行識も、無であるという。

ここでの、無というのは、どういう意味か。
無という言葉を、存在しないと、捉えると誤る。
無という言葉は、仏教では、存在しない、何も無いという意味ではない。

この、無とは、普遍的ではない。絶対ではないという意味である。

または、変化するもの、無常なものという、意味での、無である。

多く勘違いする人は、無は、無であると、理解する。
だから、無にもなれず、空にもなれずという、おかしな気分になるのである。

無という言葉を、何も無いと理解すると、それは極めて、釈迦仏陀の教えを、歪めることになる。
更に、無とは、有と対立するものである。

無受想行識が、無、つまり、無いものであるとすると、全てが、どうでもよいことになり、仏陀の教えも、崩壊する。

また、そうであれば、釈迦仏陀も、単なるお遊びの行為となる。

色、受、想、行、識という、五蘊は、存在し、そして、それは、移ろうものなのである。
五蘊は、移ろうもの。

更に、般若心経では、無智やく無得と、空の説明をする。
五蘊皆空と見極めたことにより、パンニャーバラミーターという、智慧、または、理知を確立する。

「空」と人間の活動の一体性や「空」はただ情報の影響を受けて形成されるだけで自性もなければ絶対性もないことが本当に理解されなければ理知が確立されないためです。
藤見紀雄

無限界乃至無意識界
むげんかいないしむいしきかい

無限界とは、眼、げん、と、その感覚対象である、色の関係という意味での、界である。
無意識界の、界も、意識と法の関係という意味である。

眼耳鼻舌身意という、六根によって、知覚され、成り立つ心象が、客体ではなく、知覚することは、個々の主観であることを、言うのである。

知覚とは、観念と一体になり、そこで、観念の中に、変わることのない摂理や、普遍性がないということ。しかし、五蘊が、皆空であることは、人間が観念から、離れて暮らすことは、出来ないのである。

更に、人は、新しい情報を得て、揺らぐ。

変わることのない、摂理や法則は、あるのか。

不生不滅 不垢不浄 不増不減
空の中には、それらが無い。
法の中にしかないのである。

法、ダルマを知覚する意識が、曖昧であれば、摂理や法則を知ることはできない。

般若、パンニャーの思想では、煩悩を離れる、解脱するというのは、怪しげな行為にしかならない。

「般若」の思想とは世俗の社会の中で生活をしながら世俗の社会を浄化することです。そしてこれが大乗仏教の本分とするところです。
藤見

安易な座禅で陶酔状態で落ち込んで解脱したなどと勘違いしたのでは救われることはありません。
藤見

仏教では浄化された社会を「浄土」と呼びます。つまりこの浄土の建設こそ大乗仏教の本来の目的です。浄土を死者の住む世界にすり替えてしまった日本の伝統的な仏教界の罪は大きいと言わなければなりません。日本の伝統的な仏教界が本道を取り戻すためには死者との関わりを断つ以外にないのですが、現代の日本の伝統的な仏教界が死者との関わりを断てば何も残らないといった状態です。
藤見

私の言いたいことを、直接的に言うので、ありがたい。
その通りである。
つまり、大乗仏教などとは、名ばかりなのである。
成立の過程からして、名ばかりであったとも、言う。
インド魔界からの、影響は、甚だしいものがある。

更に、藤見氏は、続ける。

また仏教を研究していると称する学者達の仏教に関する解説もその多くは雲の上の御伽噺の域を出ることはありません。もちろんそれは文字に書かれている資料から引用された解説ですから学問としてはそれで成り立つのに違いありません。しかし資料があるからそれが釈迦牟尼の思想に違いないかと言いますと必ずしもそうとは言えないのです。仏教の研究家の間では早い頃から偽経が問題にされていました。
藤見紀雄

多くの仏教解説は、単なる、感動物や、お涙頂戴物も、多く、更には、小説を書けなくなった作家から、売れない作家、果ては、ゴロツキ物書きまで、参入して、甚だしい、仏教花盛りを演じる。

仏教学などとは、学問にするのが憚られるものである。
宗教を、学問とすることに、誰も、文句を言わないのが、不思議である。
勿論、学問の定義もあるだろうから、その定義が、広く、底抜けに広ければ、宗教も、学問の内に入るのだ。

私は、妄想学として、講義をすれば、足りると思う。

仏教を主にした、学者などという者、単なる、生業であり、それ以下でも、それ以上でも、無い。

口先三寸とは、よく言った。占い師と、同じ土俵である。
笑う。
大いに、笑う。


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もののあわれ 385

心にまかせて、身奉りつべく、人も慕ひざまにおぼしたりつるとし月、のどかなりつる御心おごりに、さしも思されざりき。また、心のうちに、いかにぞや、きずありて思ひ聞え給ひにし後、はた、あはれもさめつつ、かく御なかも隔たりぬるを、めづらしき御対面の昔おぼえたるに、あはれとおぼし乱るること限りなし。きし方、行くさき、思しつづられて、心弱く泣き給ひぬ。




思い通りに、いつでも会うことが、出来て、御息所も、こちらを慕う年月は、源氏は、落ち着き払った、心のおごりのゆえに、それほど、深くは、思うことがなかった。
また、心のうちで、どうしたことか、欠点があると、思ってからは、愛情も冷めると同時に、このように、二人の仲も、疎遠になった。
久しぶりの、新鮮な対面で、昔のことが、思われ、御息所を、しみじみと、物悲しいほどに、恋しいと、あれこれと、悩むこと、辛いのである。
源氏は、過去のこと、将来のことを、色々と思い、心弱くも、泣いてしまう。


はた、あはれもさめつつ
また、あはれも、さめつつ、とは、この場合の、あはれ、は、恋心である。
しかし、
あはれとおぼし乱るること限りなし
ここでは、再び、恋心が、甦るのである。

あはれ、を、恋心として、表す。

あはれと思う。とは、前後の文章で、その、あはれ、が、理解される。




女は、「さしも見えじ」と、おぼしつつむめれど、えしのび給はぬ御けしきを、いよいよ心ぐるしう、なほ思しとまるべきさまにぞ、聞え給ふに、ここら思ひ集め給へるつらさも消えぬべし。やうやう、今はと思ひ離れ給へるに、「さればよ」と、なかなか心動きて、おぼし乱る。




女、御息所は、源氏に、そのように、心弱く見られまいと、堪えている。
だが、耐え切れない様子を、源氏は、ますます、労しく思う。
やはり、今からでも、伊勢の下向は、思い留まった方がよいと、申し上げるようである。
月も、山の端に入ったのであろうか。
心に染み入る、空を眺めつつ、源氏は、御息所の、つれなさを、恨みもうしあげるうちに、沢山の、積もった、御息所の、心の辛さも、消え失せてしまいそうである。
御息所は、やっと、これまでの仲だったと、諦めたことだが、やはり、思ったとおりだと、かえって、決心が、揺らぎ、思い乱れるのである。


あはれなる空をながめつつ
ここでは、空模様を、あはれ、という。
それを、心に染み入るとか、感動するとか、訳している。
空が、あはれに見えるとは、深く心に、入ることなのである。
あはり、の表情が、無限大に広がるのである。






殿上の若君達などうちつれて、とかく立ちわづらふなる庭のたたずまひも、げに艶なるかたに、うけばりたる有様なり。思ほし残すことなき御なからひに、聞え交はし給ふことども、まねびやらむかたなし。やうやう明けゆく空のけしき、ことさらにつくり出でたらむやうなり。





殿上の、若い貴公子たちが、連れ立って、やって来て、なにかと、離れがたく思うという、庭の有様も、優美な場所として、申し分ない様子である。
物思いを、尽くしている、二人の仲で、互いに、話される、様々なことは、すべてを、語りようがないのである。
次第に、明けてゆく空の景色は、このために、作り出したようである。





源氏
あかつきの 別れはいつも 露けきを こは世に知らぬ 秋の空かな

出でがてに、御手をとらへてやすらひ給へる、いみじうなつかし。風いとひややかに吹きて、松虫の鳴きからしたる声も、をり知り顔なるを、さして思ふことなきだに、聞きすぐし難げなるに、ましてわりなき御心まどひどもに、なかなかこともゆかぬにや。

御息所
おほかたの 秋の別れも 悲しきに 鳴くねな添へそ 野辺の松虫

くやしきこと多かれど、かひなければ、明けゆく空もはしたなうて、出で給ふ、道のほどいと露けし。





源氏
暁の、別れは、いつも、涙を伴うものですが、今朝は、また、今までにないような、悲しい、秋の夜明けです。

立ち去りがたいこと多い様子で、御息所の、手を取り、ためらっている。
たいそうに、親しみを誘う、様子である。
風は、大変な冷ややかに吹く。松虫の鳴き嗄らした声も、その時を心得て無くである。
物思いのない者にすら、聞き流すことの出来ないようである。
まして、二人の、やるせない、乱れた心は、なかなかこともゆかぬにや、歌も、上手に詠めないようである。

御息所
普通の秋の頃の、別れというだけでも、悲しいものなのに、その上も、更に悲しい、鳴き声を聞かせないでほしい。野辺の松虫。

悔やまれることも、多いが、仕方がないことである。
明けてくる、朝の空も、体裁が悪く、源氏は、出られる。
帰る道すがら、朝露ばかりか、袖にも、露が結ばれる。

道のほどいと露けし
帰りの道では、朝露が、涙の如くに感じられるほど、袖を濡らすのである。





女も、え心つよからず、なごりあはれにて、ながめ給ふ。ほの見奉り給へる月影の御かたち、なほとまれるにほひなど、若き人々は身にしめて、あやまちもしつべくめで聞ゆ。人々「いかばかりの道にてか、かかる御有様を見捨てては別れ聞えむ」と、あいなく涙ぐみあへり。




女も、気強くは、いられずに、別れた後の、心寂しさは、物思いに沈める。
ほのかに、拝した、月明かりの中の、お姿、残り香。
若い女房たちは、深く心にとめて、過ちも、しかねないほどに、お話しする。
人々は、どれほどの旅と申しても、この有様を、振り捨てて、お別れすることが、できましょうか、と、ただ、互いに、涙ぐむのである。

なごりあはれにて
心の有様をいう。
あはれ、は、心の様になる。

別れた後の心残りである。
それを、あはれにて、と、表現する。

もののあはれ、とは、そのように、拡大して、心象風景を築き上げるのである。

posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第9弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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