2009年01月14日

神仏は妄想である 204

中論の主要テーマは、運動である。

まず、すでに去ったもの(己去)は、去らない。また未だ去らないもの(未去)も去らない。さらに「すでに去ったもの」と「未だ去らないもの」とを離れた「現在去りつつあるもの」(去時)も去らない。

ひねくれ者、偏屈者の、竜樹が、否定の否定の、否定を論じるという様。

面白いのは、その前の章での、

もろもろの縁の一つ一つのうちにも、またもろもろの縁がすべて合したうちにも、その「縁の」結果は存在しない。もろもろの縁のうちに存在しないものが、どうしてもろもろの縁から生じうるであろうか。

そして、最後の段で、

それ故に、結果は「縁が変化して現われ出たもの」ではない。また「縁でないものが変化して現われ出たもの」なのでもありえない。結果が無いのであるから、どうして「縁」と「縁でないもの」とがありえようか。

この、南インドの仏教が、日本仏教の大元となるのである。
こんな、ひねくれ者、偏屈者の、思想が、日本仏教の、大元である。

現在去りつつあるもの」のうちに、どうして「去るはたらき」がありえようか。「現在去りつつあるもの」のうちに二つの「去るはたらき」はありえないのに。


更に、続ける。

「去りつつあるもの」に「去るはたらき」が有るならば、二種の去るはたらきが付随して来る。「すなわち」「去りつつあるもの」をあらしめる去るはたらきと、また「去りつつあるもの」における去るはたらきとである。

中村元氏の、注釈では、
すなわち、もしも「去りつつあるものが去る」というならば、主語の「去りつつあるもの」の中に含まれている「去」と、新たに述語として付加される「去」と二つの「去るはたらき」が付随することになる。
と、ある。

二つの去るはたらきが付随するならば「さらに」二つの「去る主体」(去者)が付随する。何となれば、去る主体を離れては去るはたらきはありえないから。

もしも「去る主体」を離れて「去る作用」が成立しえないのであるならば、「去る作用」が存在しないのに、どうして「去る主体」が存在しえるであろうか。(それゆえに「去る作用」は存在しない)

まず「去る主体」は去らない。「去る主体でないもの」も去らない。そうして「去る主体」でもなく、「去る主体でもないもの」でもなくて、「両者とは」異なったいかなる第三者が去るであろうか。

まず、「去るものが去る」ということが、どうして成立しうるのであろうか。「去る作用」なしには「去る主体」は成立しないのに。

「去るものが去る」と主張する人には、「(去る作用)がなくても(去る主体)がある」という誤った結論が付随して起こることになる。何となれば(去る人)がさらに(去る)というはたらきを認めているからである。

もしも「去る人が去る」というならば、二つの去る作用があるということになってしまう。すなわち、その「去るはたらき」にもとづいて「去るもの」とよばれるところのその「去るはたらき」と、「去るもの」である人が去るところのその「去るはたらき」とである。

こうして、延々と、くどく、否定の否定の否定を、繰り返して、撹乱させるという、段取りである。

すでに去ったところに去ることはなされない。未だ去らないところにも、去ることはなされない。いま現に去りつつあるところにも、去ることはなされない。どこにおいて、去ることがなされるのであろうか。

未だ去らない働きのうちに、去る働きがあろうかというのである。
それは、すでに去ったもの、いま現に去りつつあるもの、未だ去らないもの、が、区別出来ないのであるという。

ホント、ご苦労なことである。

要するに、現実の経験世界において、生滅去来の変化がある。従って、諸法そのものは、実有では有り得ない。
つまり、空であり、無時性である、なければならないというのである。

この、現象界にあっては、個々の相は、互いに他の相との対立、依存関係によって、成立している。
いかなるものも自己に対して、否定的に対立することを前提とし、更に、否定的対立者を否定することにおいて、成立しているというのである。

故に、諸々の事物、諸法というものは、それ自体、不可得であり、空であるというのだ。

何らかの、概念をもって、述語することは、出来ないのだ。

否定的にのみ、表現され得るのである。

諸々の事物の本性は、空であると、観ずる絶対的立場を、究極の真理とし、立場として、これに対して、諸法のあらゆる、世間一般の人、諸々の哲学者が、執着する、相対的立場を、日常の真理の立場という。

竜樹は、二種の真理を認めていた。
そして、すべては、空であるから、実践が可能であり、もし、空でなければ、我々が、目標を目指して、努力することも、不可能であるとするのである。

つまり、否定の極限を言う。

この空の、理法を、竜樹は、縁起であるという。
それは、あらゆるものが、互いに依存しあって、起こっているということであり、それは、諸法実相とも称し、また、無我とも、同義だという。
また、この理法は、相対的に対立している諸概念のうちの、いずれか一方に執着しないという意味で、中道とも、称する。

それで、竜樹の考え方を、中観派と呼ぶ。

空であり、縁起であり、中道であり、それは、真理であるというのだ。
竜樹によれば、涅槃とは、有でも、無でもなく、空である。

更に、輪廻と、涅槃とは、如何なる区別も存在しない。涅槃を特別の境地が、実在すると考えるのは、凡夫の迷いであるという。
繋縛もなく、解脱もなし、と、観ずるところに、解脱があるという。

繋縛と解脱とがあるというとき、そこには、束縛があるのである。

諸法が無自性、空であるとは、如来も、空であるということになる。

当時の諸派に対して、徹底抗戦したことは、理解出来る。その弟子で、あまりの激しさに、殺された者もいる。

仏は、議論、戯論を超越して不壊なものなのに、仏を、議論、戯論する者は、それに害されて、如来を見ず、ということになる。

これは、当時の仏教諸派に対しての、とてつもない、思想的対決だったと、思える。

ただし、竜樹に対する、理解度や、その解釈に関して、それぞれの、考え方であり、本当に竜樹の思想を、伝えたのかというのは、別である。

要するに、私が言う、それも、妄想である、という、言い方をしたのかもしれない。

空ではない、妄想である。
つまり、仏とは、妄想である。
無いものを、在るものだと、仮定しての、議論は、戯れであろう。

これは、私の独断である。
しかし、竜樹は、真理だと、言う。ここに、竜樹の迷いがある。
真理というものは、この世にも、あの世にも、無い。
あると思うのは、妄想である。

今でも、空、縁起、中道に関して、諸々の説があり、皆、語る者、真理だと、言明する。

哲学的思考は、何の根拠の無い。
人間の、大脳化ゆえの、言葉の遊びである。
その根拠は、大脳化である。
脳が死滅すれば、それらも、霧のように、消えてしまう。

大乗仏教の、大成者である、竜樹の思索は、その死によって、生滅した。今は、その残骸を、惜しみつつ、何やら、愛好家たちによって、受継がれている。そして、勝手な解釈と、勝手な思いにより、人を騙す手立てにされている。

如来の本性は、世界の本性であるというが、世界に本性など無い。
宇宙のどこを探しても、本性などは無い。

あるのは、進化である。
この世も、あの世も、進化している。
つまり、諸行は無常なのである、と、基本に帰る。

ただ、一つだけの、救いのようなものがあるのは、それにより、慈悲行の実践が出来るという、ことである。

それでは、仏教愛好家たちは、慈悲の行為を、行っているのかといえば、日本仏教の愛好家たちは、慈悲の行為など、何処吹く風、宗教商売繁盛で、盛んである。

竜樹も、慈悲の行為などしなかったが、少しは、まともだったと思える。



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神仏は妄想である 212

色即是空
般若心経の有名な語句である。

おおよその人、この言葉に迷う。
真っ当な解説、解釈がされないからである。
人それぞれ、宗派により、更に、個人的勝手な妄想などなど。
猫も杓子も、これを、解説する。

「色」は普通「かたち」とか「かたちあるもの」と説明されていて、中には「物質をいう」と断定している解説書もあります。しかしこの「色」は「五蘊」の中の一つです。これは「五蘊」に「森羅万象」の全てを含ませて釈尊の教えの広大さを説明しようという信仰によるところでありますが、般若心経はあくまで人間と人間達の形成する社会を見据えることに主眼を置いて説いた教えを伝えようとして作られた経典ですから「五蘊」は人間の活動に限定して考察しなければなりません。釈迦牟尼は自然の働きと人間自身の責任を明確に区別しようとしているのです。これは既存のバラモン教が階級による差別を神や自然の働きに根拠を置いていることに対して、差別というものが人間自身の観念によって造りだされていることを説明しているのです。
藤見紀雄

カースト制というものは、単なる人間の観念によって、成立しているものであること。
それを、神や自然の働きから、云々というのは、詭弁に他ならない。

現在でも、インドでは、カースト制が、厳然としてあり、それは、とてつもない差別社会を生み出している。
一度、インド政府が、最下位の若者達を、才能によって、引き上げようとした時、何と、最上級の若者達が、反対のデモをした。

更に、酷いのは、カースト制外の人々である。
カーストにも、入らない人。
どういう扱いを受けるのかといえば、人間以下である。
動物以下の場合もある。
中でも、仏教徒が、そうである。

現在の、ヒンドゥー教では、釈迦仏陀も、一人の神とされているのみ。
それでも、仏教徒は、カースト外なのである。

その、生活は、悲惨の一言である。
聖者と言われる、ガンジーでさえ、それを、変えられないばかりか、それを、増長させた。あれは、片面、聖者であるが、片面は、悪者である。

日本人の信仰には仏教の伝来する以前から自然を神と一体化する思想がありますから「五蘊」についてもその影響をうけて「森羅万象」の全てという説明の方が受け入れ易いのです。しかし人間による行為の責任は人間自身にあることを明確にするための知恵が「般若」です。
藤見

この方の、解説は、今までの、解釈、解説と、全く違う。
非常に、批評に近い。評論でもある。

「色」のサンスクリット原語の「ルーパ」もほぼ「形」という意味をもっています。しかしその「形」というのはそのまま物質を意味している訳ではなく、人間の活動の中で表面に現れて観察の対象にすることのできる部分を「ルーパ」と呼んだのです。「五蘊」を「森羅万象」というような解釈をするのと「人間の活動」あるいは「人間の営み」と解釈するのでは、「形」というのは何の「形」を指しているのかという理解の仕方も変わってきます。
藤見

今まで、五蘊を森羅万象、更に、物質と解釈していた上で、色即是空を、物質現象には自性がないなどという、説明がされていた。
この教えが、形而上学の唯心論と、混同されたり、神秘的思想のように、解釈されたりと、混乱していた。

藤見氏は、そのような解釈は、人間自身の責任を曖昧にし、色と、人間の関係も、間接的にものになるという。

要するに、現実離れした、手の届かない思想の如くに、解説して、のうのうとしていた、日本仏教愛好者たちである。

色は、人間の活動として、捉えたときに、はじめて、空との、関係が、理解されるという。そして、釈迦仏陀の教えが、明確にされる。

実に、曖昧模糊、人を煙に巻くような、教えではない。

水が、蒸発して、姿を消して、雲になり、そして、また、空から、雨を降らせる。その、蒸発したものは、目に見えない。それを、空という。つまり、水という見えるものは、蒸発という、目に見えないものによって、云々という、説明は、単なる子供騙しなのである。

そんなことを、釈迦仏陀か語ったのではない。

釈迦牟尼は人間が現実の生活の中で「形」にして表に表していることは、その人間の知識や考え方などと一体であり、「色」も「空」も人間自身が責任をもつべき事柄であることを述べているのです。そして人間自身が責任をもつめたには、そのことが明確に意識されなければならないのです。正にこのために「五蘊皆空」と言い「色即是空」と言明したのです。もし人間自身に責任のないことなら取り立てて問題にする筈はないのです。こうしたことからも「色」は人間の活動の中の「形として現われる営み」を指していることが理解されます。
藤見

それでは、人間の活動の中で形として現われる営みとは、何か。
それは、言動という、名辞になる。
つまり、色は、人間の言動のことだと、藤見氏は、喝破する。

そこで、色を、言動とすると、空という言葉を、観念という、名辞に置き換えることができるという。

色不異空 空不異色 色即是空 空即是色
これを、藤見氏の、日本語訳で見ると、

言動と観念は異なるものではなく、観念と言動は一体のものです。
言動は観念の現われであり、観念すなわち言動です。
となる。

言動とは、話し、行うことである。
人間の活動の内で、唯一、表面に現われる活動。
色とは、物質を表しているのではない、ということ。

言動が、一致しない人は、精神疾患か、人格障害である。
極めて、真っ当な人間の活動をする者に、釈迦仏陀は、語り掛ける。

言動と観念の一体性を、色即是空というのである。
更に、深く入り込んでゆく。

posted by 天山 at 00:00| カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

もののあわれ 384

むつまじき御前十余人ばかり、遠随身ことごとしき姿ならで、いたうしのび給へれど、ことにひきつくろひ給へる御用意、いとめでたく見え給へば、御ともなるすき者ども、所がらさへ身にしみて思へり。御心にも、「などて今までたちならさざりつらむ」と、過ぎぬる方くやしく思さる。





源氏は、親しい、前駆十余人ほどと、御随身も、大げさな姿ではなく、源氏も、たいそうにやつれてはいるが、特別に、心をかけている、源氏の装いは、大変に、素晴らしく見えて、お供の風流好みの人々は、所がらさへ身にしみて、つまり、場所柄もそうであるが、身にしみて感じている。
源氏も、心の中で、どうして、今まで、度々、訪れなかったのかと、今までのことを、悔やみつつ、思うのである。





ものはかなげなる小柴垣を大垣にて、いた屋どもあたりあたり、いとかりそめなり。くろ木の鳥居どもは、さすがにかうがうしう見わたされて、わづらはしきけしきなるに、かんづかさの者どもここかしこに、うちしはぶきて、おのがどちものうち言ひたるけはひなども、ほかにはさま変りて見ゆ。火たき屋かすかに光りて、人け少なく、しめじめとして、ここに、もの思はしき人の、月日を隔て給へらむほどをおぼしやるに、いといみじうあはれに心苦し。





野の宮は、簡素な柴垣を外囲いとして、板葺きの建物が、そこ、ここに、ほんの間に合わせのように見える。
くろ木の鳥居とは、皮のついたままの木の鳥居である。
それなどは、さすがに、神々しく、見渡されて、このような、色事めいた、訪問は、気が引けるようである。
神官たちが、あちらこちらで、咳払いをして、お互いに、話をする様子など、他の場所とは、様子が違っている。
火焼き屋の、火がかすかに、見える。人の気配もなく、ひっそりとして、ここに物思いに沈んでいる人が、世の中から、離れて、日々をすごしているであろうと、察すると、たいそう、しみじみとして、痛々しい、感じがする。

いといみじうあはれに
この、あはれ、は、そこに住む人を、痛々しいと、感じている、あはれ、である。





北の対の、さるべき所に立ち隠れ給ひて、御消息聞え給ふに、遊びはみなやめて、心にくきけはひあまた聞ゆ。




源氏が、北側の建物の、しかるべきところに、立ち隠れて、御息所に、来たことを、告げ知らせると、女房たちが、演奏をやめて、奥ゆかしい、立ち居振る舞いの、様子が、聞こえるのである。




なにくれの、人づての御消息ばかりにて、みづからは、対面し給ふべきさまにもあらねば、「いとものし」とおぼして、源氏「かうやうのありきも、今はつきなきほどになりにて得るを思ほし知らば、かう、しめのほかにはもとなし給はで、いぶせう侍る事をも、あきらめ侍りにしがな」と、まめやかに聞え給へば、人々、「げに、いとかたはらいたう、たちわづらはせ給ふに、いとほしう」などあつかひ聞ゆれば、「いさや。ここの人目も見苦しう、かのおぼさむことも若々しう、出で居むが今さらにつつましきこと」とおぼすに、いともの憂けれど、なさけなうもてなさむにもたけからねば、とかくうち嘆き、やすらひて、いざり出で給へる御けはひ、いと心にくし。





御息所は、人を介しての、お話ばかりで、対面しない様子であり、源氏は、それが心外である。
源氏は、このような、忍び歩きも、今は、不釣合いな身分になってしまったことを、ご存知ならば、注連の外に立たせず、内に入れてください。心の晴れないことも、すっきりとしたいものです、と、心を込めて、申し上げる。
女房たちが、本当に、見ていて、気の毒な様子で、立ち煩っておられる、おいたわしい、などと、御息所に、取り成す。
御息所は、さて、どうしたらよいのか、大勢の人目につくのも、見苦しく、斎宮の思いになることも、年甲斐なく、端近くに出ることも、いまさら、恥ずかしく、気が引けると、思うのである。
たいそう、気が進まないのだが、源氏を冷淡に扱うことも、強く出来ないという、御息所である。
あれこれと、思い嘆き、ためらって、にじり出る様子は、たいそう奥ゆかしい。





源氏「こなたは、すのこばかりの許されは侍りや」とて、のぼり居たまへり。はなやかにさし出でたる夕月夜に、うちふるまひ給へるさま、にほひ似るものなくめでたし。月ごろのつもりを、つきづきしう聞え給はむも、まばゆきほどになりければ、さか木を、いささか折りて持給へりけるをさし入れて、源氏「変らぬ色をしるべにてこそ、斉垣も越え侍りにけれ。さも心憂く」と聞え給へば、


御息所
袖垣は しるしの杉も なきものを いかにまがへて 折れるさか木ぞ

と聞え給へば、

源氏
をとめ子が あたりと思へば さか木葉の 香をなつかしみ とめてこそ折れ

大方のけはひわづらはしけれど、御簾ばかり引き着て、長押におしかかりて居給へり。



源氏は、こちらは、スノコに上がるくらいの、お許しは、出来ますか、と、おっしゃり、その上に、座られた。
華やかに、差し出た、夕月の光の中で、源氏の、振る舞いの様子は、瑞々しい美しさは、似るものなく、素晴らしいのである。
長らくの、無沙汰を、とりつくろいと、言い訳されるのも、面映いので、榊を折って持っていたものを、御簾の中に、差し入れて、この色のように、変わらぬ私の心に、導かれて、神の玉垣を越えてしまいました。それなのに、こう、つれなくなさって、と、申し上げると、

御息所
ここの、神垣には、おいでを待つ、目印の、杉もありません。
どうして、榊などを、折られたのでしょう。

と、答える。

源氏
乙女子の、いらっしゃるあたりと、思い、榊の香り、懐かしく、わざわざ探して折ったのです。

周囲の様子に、憚られるが、源氏は、御簾を引きかぶり、半身を中に入れて、敷居に、寄りかかって、座る。

物語の中の歌は、皆、作者の歌である。
それぞれの立場や、身分によって、歌を創作するという、見事な、芸当である。

歌の道。
それは、平安期の、そして、日本の伝統行為となるのである。

歌詠み、とは、日本人、すべてに、言えるものである。


posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第9弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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