2009年01月12日

神仏は妄想である 202

日本における、法華経の推移を、俯瞰してみる。

まず、最初に、法華経を取り上げたのは、後に、聖徳太子といわれた、厩戸皇子である。
厩戸皇子に関しては、実在性があるが、聖徳太子という人物には、実在性が無いという、研究もある。

一時期、蘇我馬子が、蘇我王朝なるものを、掲げた時に、摂政として活動したのではないかとも、言われる。
丁度、推古天皇の頃である。
だが、厩戸皇子は、大和朝廷に政権を戻すべくの働きをしたのかもしれないが、不確かである。
確かなことは、大化の改新によって、蘇我家が、滅んだということである。

さて、厩戸皇子が、法華経を掲げて、それを講義した事実がある。
その書き物もある。

新しい国家体制を、考えた厩戸皇子から、始まったというのが、根本的な受け入れ体制を作り上げた。

そして、聖武天皇、その皇后である、光明皇后は、奈良の東大寺を総国分寺として、国分寺、国分尼寺を、全国に配置した。
国分尼寺は、懺悔滅罪の寺とされて、法華経読誦が、行われた。

更に、平安期、最澄は、桓武天皇の志により、還学生として、唐に渡り、中国天台第七祖、並びに、行満から天台宗を受けて、帰国後、年分度者という割り当てを受けて、比叡山延暦寺にて、円、密、戒、禅の四宗融合の総合的仏教を、発信した。

その、法華経信仰の隆盛は、平安貴族の法華経讃仰に、大きな影響を与えた。

法華経講義の、天台大師の三大部を、紫式部や、清少納言が、諳んじるほどの、教養を持っていたと、言われる。

更に、平清盛は、厳島神社に、平家納経三十三巻を収めて、平家の繁栄は、イザナギ島大明神の加護によるものと、報恩のために、見事な装飾を施した、特別に漉いた紙に、写経し、更に、絵を添えて、各巻を著わした。

それは、藤原道長以来の、法華経信仰が、継承されたものである。

その他には、天台宗寺院として、創建された、多武峰や、宇治平等院などと、大きな広がりを見せた。

鎌倉時代に入ると、道元によって書かれた、正法眼蔵に引用される文献の中でも、法華経が圧倒的に多い。それは、最澄・天台大師の解釈によったことが、認められる。

更に、日蓮によって、決定的に法華経信仰の、最盛期が訪れる。

ただし、日蓮門下は、法華経のみを、正しいとして、他を排斥するという、激しい信仰態度で、臨んだために、その激しい信仰に生きる者も、多く出た。

室町期に入っても、そのような人物が出たのである。

そして、江戸時代になると、独特の優雅な文化を生み出した、法華町衆、本阿弥光悦、尾形光琳などが、象徴的である、文化的活動がある。

臨済宗、曹洞宗の禅僧の間にも、法華経への、深い関心が見られる。

江戸期の、白隠禅師などは、四十二歳の時に、一夜、法華経を読むうちに、コオロギの声を聞いて、大悟を得たといわれる。
良寛なども、法華経に影響されたといわれる。

近現代に入り、宮沢賢治の、法華経信仰が、有名である。

更に、作家、岡本かの子によって、解かれた、観音経なども、有名である。
私も、それを、読んで大いに、感銘を受けた。

法華経信仰を鼓舞する、多くの書物は、限りなく、研究書も、限りなくある。

訳書としては、世界各地に所蔵される、サンスクリット原典を集大成とした、立正大学法華経文化研究所の、梵文法華経集成十三巻が、ある。

法華経から出た信仰では、何と言っても、観音経から出た、観音信仰が、広く一般の人に、普及している。

だが、何度も言うが、法華経が、創作の経典であることである。
上記の人たちも、それを知る者がいたはずであるが、それを、事実の教えとして、掲げた。また、実在の教えと、勘違いしてしまった人が多い。

作られた、教えである。
とても、文芸的な作品である。

それ以上のものではない。
つまり、法華経を拝むものではない。
法華経は、読み物である。

それでは、更に、インド思想史から、仏教の変転の様を、俯瞰する。

大乗仏教に大きな影響を与え人物は、空の思想を哲学的に基礎づけた、ナーガールジュナ、竜樹である。

彼は、南インドの出身で、仏教のみならず、他の宗教にも、精通していたといわれる。

彼は、後世の仏教に、大きな影響を与え、八宗の祖師と、崇められる。

彼の思想を、中間派と呼ぶ。
その、中論という書において、有部の法有の考え方を含め、何らかの意味において、多数の実体的原理を想定する、諸々の哲学思想を、批判し、論破している。

もし、法有の立場で、概念、あるいは、本質のようなものを、実体視するならば、現象界の変化の成立している、所以を説明し得ないことになる、と、主張するのである。

時間規定を受けていて、しかも、実体的本質を有するものは変化することが、できない。
つまり、まず己に去ったものは去らない。また未だ去らざるものも去らない。己に去ったものと未だ去らないものとの両者を離れた今去りつつあるものもまた去らない、というのである。

しかし、現実の経験世界においては、生滅去来の変化が成立している。したがって、諸法そのものは、実有ではあり得ない。空であり、無自性でなければならないと、する。

更に、竜樹の説を、見てゆく。



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もののあわれ 382

賢木
さかき

源氏、二十三歳九月から、二十五歳夏まで


斎宮は御くだり近うなりゆくままに、御息所もの心細く思ほす。やむごとなく、わづらはしきものにおぼえ給へりし大殿の君もうせ給ひてのち、「さりとも」と世の人も聞えあつかひ、宮のうちにも心ときめきせしを、そののちしもかき絶え、あさましき御もてなしを見給ふに、「まことに憂しとおぼす事こそありけめ」と知りはて給ひぬれば、よろづのあはれをおぼし捨てて、ひたみちに出で立ち給ふ。





斎宮の、下向が、近づくにつれて、御息所は、何か、心細い気持ちになる。
本妻として、煙たい相手だと、思っていた、大臣の姫君も、亡くなってからは、今まではとにかく、次はと、世間の人は、噂し、御殿の人々も、心躍らせたのだが、あれから、逆に、源氏は、姿を見せないのである。
酷いことだと、思うが、本当に嫌になってしまわれたのだと、理解し、一切の気持ちを、振り捨てて、ひたすらに、出発するのである。


本妻が亡くなったのであるから、源氏は、御息所に、通いつめると、人は、噂したが、全く、逆に、姿も見せないのである。
それを、御息所は、本当に、嫌になったのだと、理解したのだ。





親添ひて下り給ふ例もことに無けれど、いと見放ちがたき御有様なるにことつけて、「憂き世を行き離れむ」とおぼすに、大将の君、さすがに、今はとかけ離れ給ひなむも、口惜しくおぼされて、御消息ばかりはあはれなるさまにて、たびたび通ふ。対面し給はむ事をば今さらにあるまじき事と、女君もおぼす。人は、心づきなしと思ひ置き給ふ事もあらむに、我は、いま少し思ひ乱るる事のまさるべきを、「あいなし」と心強くおぼすなるべし。






親が付き添って、下向するということは、前例がないことである。
姫を手放すのが、辛いという人の理解に、かこつけて、辛い生活から、出て行こうと、思うのである。
大将の君、源氏は、さすがに、これが、最後と、遠ざかるのも、心残りだと思い、お手紙だけは、心を込めて、たびたび行き来する。
お会いになることは、今更、もっての他と、女君も、思う。
源氏は、あちらは、気に食わないと、根に持つこともあろう。だが、自分が、会えば、これ以上に悩みが、増えると、思うので、やはり駄目だと、あちらは、気強く考えているのであろう。

女君とは、紫の上、若草のことである。





もとの殿には、あからさまに渡り給ふ折々あれど、いたうしのび給へば、大将殿え知り給はず。たはやすく、御心にまかせて、まうで給ふべき御すみかにはたあらねば、おぼつかなくて、月日も隔たりぬるに、院の上、おどろおどろしき御悩みにはあらで、例ならず、時々悩ませ給へば、いとど御心のいとまなけれど、「つらきものに思ひはて給ひなむも、いとほしく、人聞きなさけなくや」と、おぼしおこして、野の宮にまうで給ふ。






元の、御殿には、ちょっと、帰られることもあるが、大変に、内々にされる。
大将、源氏は、気づかない。
野の宮は、簡単に、気の向くまま、尋ねるところではないので、月日も過ぎて、いまのうちに、と思う。
院が、特に重い病気というほどでもないが、今までに無く、時々苦しみあそばすので、おな、心が休まることがない。
御息所が、源氏のことを、薄情で、酷い人だと、思い込んで、諦めていることも、気の毒である。人が聞いても、人情が無いと思うだろう。と、源氏は、気持ちを取り直して、野の宮に行かれる。





九月七日ばかりなれば、むげに今日明日とおぼすに、女がたも心あわただしけれど、「立ちながら」とたびたび御消息ありければ、「いでや」とはおぼしわづらひながら、いとあまりうもれいたきを、「もの越しばかりの対面は」と、人知れず待ち聞え給ひけり。





九月七日のころになり、御息所の、下向が、今日明日に迫ると、源氏は、気にかけているので、女君のほうも、気持ちが慌しい。
立ったままで、少しだけでもと、度々、源氏から、手紙があったので、御息所は、どうしたものかと、迷う。
だが、お会いしないもの、あまりに、むもれいたし、つまり、引っ込み思案であると、思う。
では、物越しにと、御息所は、密かに、源氏を待った。


何とも、ゆるゆるしい、雰囲気である。

野の宮とは、御息所の、斎宮になる、娘が住む、仮の住いである。
場所は、嵯峨野である。

斎宮は、宮中で、一年間、そして、野の宮で、一年間、身を清めて、九月上旬に、伊勢に、下向する。

つらきものに、思ひ果てたまひなむも、いとほしく

ここでは、葵上が亡き後、源氏が、御息所に手紙を書く程度で、会わなかったということに、引け目を感じ、後ろめたさを感じているということを、言う。

当時の、風習である、男女の関係。
それを前提として、思案すると、これは、源氏の、優しさが、現れている場面である。

決して、無下にしないのである。
その、無下にしないという、心境に、作者は、もののあはれ、を見ている。
更に、人の心には、その、思いやりというものが、隠されてあるからこそ、人と人のつながりや、結びつきがあると、考える。
そうして、人は、生きられる。生きている。

人の気持ちを、自分の気持ちのように考える。今で言えば、共感である。
共感する能力が、もののあはれ、という、心象風景を、支えるというのだ。

人を大切にする。
相手を大切にするというのは、どういうことなのか。

それを、細部に渡って、書き綴るという、物語が、源氏物語の粋である。
セックス描写が無いということも、その証明である。
恋を描いて、もののあはれ、というものを、表現する。

それは、万葉集の、相聞歌にも、いえる。
繰り返し、恋を歌うのである。
飽きもせずに、である。

民族の、心象風景が、恋から発するものであること、私は、うれしく思うのである。

恋をして
恋に死にたる
人の世や
あはれのことも
恋のまた恋  天山

posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第9弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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