2009年01月11日

神仏は妄想である 201

さて、四人の大声聞、だいしょうもん、が、長者窮子のたとえ話を語る。
つまり、放蕩息子の話である。

大長者の息子に生まれたが、幼い時に、家を逃げ出して、放浪する。そして、晩年になり、父の家に戻り、そこで、父親が、息子を使用人として使い、次第に、目覚めてゆく息子を見て、最後に、親子であることを、名乗り、息子は、父の家を継ぐ者となるという、おきまりのお話である。
聖書にも、同じ話がある。

大長者は、仏であり、放蕩息子は、衆生であるという、段取りである。
それを、釈迦仏陀の、直弟子に語らせるという、段取り。

四人の声聞は、この話を語り終わると、世尊に向かって、この大富長者はすなわち仏であり、この子どもはわたくしたちです。―――といって、自分たちが小さな悟りに満足していたのを、いろいろと心を用いて大乗の教えまで導いてくださった仏の慈悲と方便力を、そのたとえ話に一々あてはめて申し上げます。
庭野日敬
更に、庭野の語るところを、読むと、
現在の世の中はまったく五濁、ごじょく、の悪世ですけれど、このくだりを読むと、わたしたちの胸には人間に対する希望がほのぼのと湧いてきて、じつに明るい気持になります。
衆生は仏の門の前に立っても、仏が自分の父であるとは知らないのですが、仏は、あれはわが子だとちゃんと知っておわれるということも、意味深いことです。仏はいつもわれわれのそばにおられる。真理はどこにも満ち満ちている。そしてわれわれが仏を見だすことを待っておられるのです。心のスイッチさえいれればいいというのは、このことです。
と、言う。

放蕩息子は、父親の元で、糞を除く仕事を、20年間していたという。その糞除きの仕事を、小乗の修行とする辺りは、本当に、小乗を蔑むものである。
それを、煩悩を取り除くことだと、言う。
それを、見た父親が、取りたいものがあれば、何でも、取りなさいと言う。しかし、自分は使用人であり、卑屈な根性が抜けきれないので、主人の財宝が、みな自分のものであると、知ることもない。
それを、二乗根性、つまり、小乗根性が抜け無いと言う。
しかし、いよいよ仏が入滅される直前に「法華経」を説かれて、「仏と衆生は親子であるぞ。一切衆生は仏になれるのだぞ」という大宣言をされるにおよんで、はじめて「ああ、そうだったのか」とおどろき、かつ思いもしなかった財宝(仏の悟り)が確実に自分のものになるのだということがわかって、大歓喜したわけです。
庭野
というように、大嘘話を、書くのである。
庭野氏は、「自分も仏になれるのだ」「自分はこの宇宙と一体なのだ」ということを、いつも自分にいいきかせましょうと、言う。すると、ある一定期間、それを一心に繰り返して、他のことを考えないでいると、それが、つまり三昧に入ったことだ、と言う。
三昧とは、悟りの境地である。

すると、なんとなく、そんな気持に、なってくるという。
「自分は仏の子である。だから宇宙の相続者である。宇宙そのものが自分である。だから、宇宙は自分の思うとおりになるのである」
と、思え、であるから、暗示である。
生長の家の、生命の実相という本も、似たようなことを、言う。
我は神の子である。天地一切のものと、和解が成立して、天地一切のものとなる。
そのように、自分に言い聞かせる。つまり、自己暗示をかけると、何と、そのようになるのである。

こういうのを、勝手にしなさいと、言う。
人様に、迷惑をかけないのであれば、何をどのように、思い込んでもいい。
しかし、その先がある。
それを、人に告げ知らせよ、である。
自分だけが、仏になるのではない。それを、人に伝えて、人も、仏にするのである。
公宣流布である。
他人の「解」を深め、自分の「信」を高める行為。それを、功徳というから、いい気な者である。
自分の信仰体験を人に語ることが、大切であるようだ。

極めて、個人的な、情緒である、信仰体験を、人に語るという、神経が、解らない。
裸を人様に、晒して、どうする。

信仰体験とは、実に恥ずかしいものであるということが、理解出来ないで、恥曝しである、自分の姿を、知らないのである。
涙ながらに、その体験を聞いていると、背筋に寒気が走る。
実に、面白いのは、A教団でも駄目だった。B教でも駄目。そして、C教でも、救われなかったが、この教団にて、救われたのですという、アホ、馬鹿、間抜けがいる。

昔、信仰から抜けた人の相談を受けたが、不思議なことに、次に拝むものを求めるのである。
入信の相談も、信仰破棄の相談も、改宗の相談も、多く聞いた。
しかし、拝むことを、止められないのである。
宗教を渡り歩いて、教祖になる人もいる。
兎に角、神事が好きなのである。いや、仏事か。

拝むという、行為を否定する、何物も無い。それは、それで、十分に意味あることである。それによる、生きる謙虚さであれば、言うことは無い。
何度も言うが、極めて個人的な行為である。
面白いのは、まだまだ、奥があり、それは、そうそう、易々と、教えられるものではないという、文句で、会員を、引き付け、引き伸ばすものである。

密の法華経などという者も、現れて、法華経にまつわる、迷いの数々は計り知れない。

西行が、伊瀬に参った時に、
何事の おわしますをば 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる
と、歌った。
畏敬の念に、打たれたのである。
シュバイツァーも、生命の畏敬に、感じた一人で、その活動を、止められなかった。
人様の、畏敬の念を、他者が、云々する何物も無い。
星空を見上げて、深い、畏敬の念を、感じるということは、通常の神経を持つ人ならば、大いに有り得ることである。

月をこそ 眺めなれしか 星の夜の 深きあはれを 今宵知りぬる
建礼門院右京太夫の歌である。
今までは、月を見て過ごして、それを歌ってきた。しかし、今夜の星空は、何か。今までにない、深いあはれを、感じさせる。
右京太夫の、極めて個人的な心境である。
それに、他者は、介入出来ない。
これは、おそらく、妄想ではないものである。
それを、神仏に、置き換えてしまっては、堕落する。
人生を賭して思う、思い。感受性である。
それを、妄想とは、言い難い。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第5弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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