2009年01月10日

神仏は妄想である 200

中央公論社 法華経1
第四章 信への志向
これは、経典では、信解品第四となる。

その中の最初を写す。

私たちは実に、齢を重ねた老人であり、高年のものであって、この比丘の僧団のうちでは長老とみなされましたが、老いぼれてしまって、われわれは涅槃に達したのだと思い、そして、世尊よ、私たちは怠惰なために、この上ない正しいさとりに対しては、それに立ち向かう力もなく、それに向かって精進努力もいたしませんでした。

このように、釈迦仏陀の、弟子たちに、語らせるという、段取りである。
彼らがいないことを、いいことに、彼らを登場させて、反省させるという、創作である。
呆れる。
更に、続ける。

世尊が法をお説きになるとき、長いあいだ、世尊も座っておられるし、私たちもその説法に列席しております。そのようなときにも、世尊よ、長いあいだ座って、長いあいだ世尊にお仕えしていると、私たちの身体や手足は痛み、節々も痛んでまいります。それゆえ、私たちは、世尊よ、世尊が法をお説きになったとき、「すべてのものは実体がなく(空)形相がなく(無相)、欲求の対象でもない(無願)」ということは明らかに知りましたけれど、これらの仏陀の特性についても、仏陀の国土の荘厳についても、あるいは菩薩の自由な活躍(遊戯神通)についても、如来の自由な活躍についても、私たちはそれらを得たいという欲を起こしませんせんでした。それはなぜかと申せば、世尊よ、私たちはこの三界から逃れて出で涅槃を得たと思っており、また耄碌しているからです。

これは、仏陀の弟子に対する、甚だしい、侮辱である。
更に、初期、仏陀の弟子達を否定しているのである。

涅槃を得たと思っており、耄碌していると、言わせるのである。


それゆえ、世尊よ、私たちは、他の菩薩に対して、最高の正しいさとりについて教えたり、戒めたりもしたのでありますが、しかも、世尊よ、私たち(みずから)はそのこと(すなわち最高の菩提)について、一度もそれを欲する心を起こさなかったのです。そのような私たちが、世尊よ、いま、世尊から親しく、声門たちもこの上ない正しいさとりが得られるであろうと予言されるのをうかがって、私たちは驚嘆の念をいだき、未曾有の思いをし、また大きな利益を得ました。世樽よ、今日、突然、このような以前にうけたまわったことのない如来のおことばを聞いて、私たちはりっぱな宝を得ました。世巽、計り知れない量の宝を得たのです。探しもせず、望みもせず、考えもせず、求めもしなかったこのようなりっぱな宝を、世噂よ、私たちは、得たのです。このことは、世尊よ、私たちにははっきりしています。

それから、延々と、その話に関する、例え話が続くという、段取りである。

これは、魔物である。
魔界関与のものである。

これほどの、創作をもって、初期仏陀の、弟子達、及び、仏陀までも、否定するかのような、創作などは、どう考えても、魔物としか言い得ない。

要するに、仏陀の初期の教えを、否定しているのである。
それによって、涅槃を得たと、勘違いしていたというのである。

勿論、涅槃にしろ、悟りにしろ、皆々、自己申告や、師匠が認めるものである。

今でも、俺は、神の代理だとか、神そのものだとか言う、アホが、詐欺をしている。
天の声を聞いたという、アホは、最後まで、天の声だと、言い張ったから、もう、病院に入るしかないが、一見普通であるから、監獄に入っている。

俺は、と、名乗れば、それで、いいのである。

禅の世界も、印可を受けて、はい、悟りましたと、やる。
大嘘の世界である。

印可を与えた者も、悟りなく、受けた者も、悟り無く、一体、印可とは、何か。
大嘘なのである。

法華経に戻ると、まさに、魔界関与である。
こんな、大嘘を、経典として、掲げる神経が、知れない。

それを、真実だと、信じてしまった皆々、あはれ、である。
更に、今でも、この創作の経典を、信奉して、勝手気ままに、解釈して、悦に入る者多数。

更に、大乗こそ、仏教であるという者多数。
そう、大乗仏教ではなく、大乗教でいい。
実在の仏陀ではなく、久遠でも、真理でも、何でもいいから、仏陀、それは、神であると、掲げて、やればいいのである。

宗教というものは、妄想であるから、勝手な解釈で、如何様にでも、好きなように、教えというものを、作られる。

真如苑という、新興宗教は、真如密などといい、密教から出ているように、見せて、教祖一族を、拝ませているという、仰天である。
どこにも、仏教などない。
大般涅槃経などという、法華経より、更に悪い偽経典を、掲げて、これが、仏陀最後の、教えとやっているのだから、世話がない。

信じられないほどの、愚昧、蒙昧である。
更に、それを、信じ込むアホの面々である。

化け物一族を、拝み、死んで、教団本部の上空に、集うという、アホ振りは、救いようがないという。

更に、教団を、守護しているのは、千年の修行をした狐、天狐、てんこ、というから、呆れて、ものも言えないのである。

信者は、せっせと、教団の教えに従い、友人、知人から、500円で、供養する、お金を集める。
つまり、商売の基本である、広く、貧乏人から、金を集めるということを、実行している。

私は、この教祖が、貧乏人は、創価学会へ行けばいい、こちらには、金持ちが来ればいいと、聞いた。

教団は、狐の巣である。

そのように、仏典を利用して、宗教を立ち上げる者多数。そして、騙される者、多数。
本当に、人間とは、救われないものである。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第5弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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