2009年01月09日

神仏は妄想である 199

頑固な人々や、高慢な人々や、正しい修行をしない人々に、お前はこれを説いてはならない。愚か者たちは常に愛欲に酔いしれていて無知であるから、説かれた教えをあしざまに言うであろう。

仏陀の導きとして常に世の中に確立されている私の巧みな方便を誹謗し、眉をひそめて乗り物を捨て去る、このような人がこの世でうける果報が、いかにきびしいものであるかを、お前は聞け。

私がまだこの世にいるあいだにせよ、完全な涅槃にはいったのちにせよ、このようなこの経典を誹謗し、あるいは比丘たちに対して過酷な振る舞いをして彼らがうける報いを、いまや私に聞け。

そして、いよいよ、その、報いの、記述が、はじまる。

これらの愚か者たちが人間としての生を終えてから住んでいるところは、一劫が満ちるあいだ、阿鼻の地獄である。そののちさらに中劫のあいだ、彼らは幾度も死んでは再びそこへ落ちていく。

死んで地獄から去ったときでも、そののちはさらに畜生に生まれてさまよい歩き、まったく弱々しい犬や野牛となって、他のものたちの遊び道具となる。

そのばあい、彼らは、私が最高の菩提を得たひとを嫌悪しながら、色は黒く、斑点があり、腫瘍ができ、身体中がかゆかったり、毛がなかったり、まったく無力であったりする。

彼らは生命あるもののあいだにあっていつも嫌われ、土くれを投げられ、打たれ、泣き叫び、あちらでもこちらでも棒で脅かされ、飢渇に悩まされ、身体はやつれはてている。

仏陀の導きを謗った彼ら愚かな心の持ち主は、さらにラクダになったりロバになったりして、重荷を運びながら鞭や棒でたたかれ、食べ物の心配で思いわずらっている。

さらにはまた、彼ら愚か者たちは、片目でチンバで醜い野干となり、村の子供たちから土くれを投げつけられたり、叩かれたりしていじめられる。

その愚か者は、さらにそこから死んで生まれ変わると、五十ヨージャナにも等しい長い身体の生き物となり、愚鈍でばかで、ただのたうちまわっている。

彼らはこのような経典を誹謗したことにより、足のないもの、胸で這うものとなったのであり、幾コーティもの多くの生き物に噛まれて、非常に激しい苦痛を受ける。

更に、続くのである。
しかし、これほどまでに、誹謗する者に対する、恐ろしい、罰を用意するという、作者の、強迫的観念を、私は、すでに、地獄だと言う。
ここまで、想像できるということが、凄いのである。
そこまで、人を脅して、この経典に、帰依させたいと思うのは、何か、である。


私のこの経典に信を起こさない彼らは、人間の身体を得たときでも、手足が麻痺したり、チンバであったり、セムシであったり、片目であったり、愚鈍であったり、卑賤な生まれであったりする。

このような、記述から、差別意識が、強く起こったのである。
これは、現代の、障害者のことである。
ダウン症の子供などのことを言う。
障害を持って生まれた者を、差別するのである。

この仏陀の菩提を信じない彼らは、世間で信用されず、彼らの口からは腐った臭いが噴出ししていて、その身体にはヤクシャや魔物が乗り移る。

いつも貧困で、弱々しく、他人の召使となって走り使いにこきつかわれる。彼らには病気などの苦痛が多く、よるべもなしに世渡りをする。

中を省略して、

ツンボ、思慮なき者などの、言葉が多い。

さらに、ガンガー河の砂の数のように多くの幾千・コーティ・ナユタもの劫のあいだ、彼は愚鈍な存在としてあり、肢体も不完全である。経典を誹謗することによる結果は、このように禍があるものである。

彼にとっては、遊園地がそのまま地獄であり、屋敷は悪趣の世界に等しい。そこに住んでいる彼には、ロバや野猪や野干や狛が常についている。

たとえ人間の身体を得たとしても、彼は盲目や聾唖や愚鈍なものとなり、いつも貧乏で他人の使用人となる。そのとき、これら諸悪の報いで、彼は飾られている。

以上、長く引用したが、まだまだ、延々と続く。
実に、くどい、記述である。

くどい、つまり、悪魔的である。

宗教家の、くどさは、魔的なものなのである。

一体、何を目的に、この法華経というものが、書かれたのか。
非常に、文芸的ではあるが、非常に、稚拙でもある。

書かれた当時の、状況を、見つめる必要がある。
しかし、この経典によって、更に、多くの妄想が、生まれたのである。

ここで、話を少し、変える。

例えば、この経典を、信奉する者、帰依する者たちが、どのような、神経の持ち主であるかということである。

教え込まれて、法華経の信者になると、まず、偏狭で、愚鈍になる。
排他的で、非寛容になる。
更に、その思い込みは、甚だしいものがある。

ここに、私が相談を受けた、ある新興宗教の信者の話がある。
巨大教団の信者である。勿論、法華経を掲げて、広宣流布するという。

その、ある地方幹部の男が、サラ金からの、借金まみれで、その妻の、姉からの相談である。
その、借金のすべての、金を、妹のためにと、工面したという。
そこで、その男の反応である。
お礼もそこそこに、諸天善神の守護であり、法華経の功徳であると、言ったというから、姉は、空いた口が、塞がらない思いをした。

250万という、その人にとっては、大金を用意したのである。
それを、法華経の功徳であると、思い込む、愚鈍さは、計り知れない。
それを、行為したのは、その妻の姉である。
法華経の功徳ではなく、その姉の、協力、更に、金を工面した努力である。

信仰者というものは、そのように、勘違いが、甚だしく、愚鈍である。

法華経を、誹謗する者が、そのようになるのではなく、法華経を、信奉した者が、そのようになるという、逆転を、誹謗する者として、書いているのである。

更に、ここには、生まれによっての、差別の羅列である。
これが、衆生を救う大乗の教えといえるのか。

脅し、賺し、更には、こけおどしである。

この、蒙昧は、計り知れなく、更に、妄想まみれである。
真っ当に読んで、理解すると、頭が、イカれる。

この、経典により、どれほど多くの人が、蒙昧かつ、愚鈍、そして、妄想のうちに、死ぬことになったのかは、計り知れない。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第5弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

もののあわれ 379

その夜さり、亥の子餅参らせたり。かかる御思ひ程なれば、ことごとしき様にはあらで、こなたばかりに、をかしげなる檜破籠などばかりを、いろいろにて参れるを見給ひて、君、南の方に出で給ひて、惟光を召して、源氏「この餅、かう数々に所せきさまにはあらで、明日の暮れに参らせよ。今日はいまいましき日なりけり」と、うちほほえみて宣ふ御気色を、心ときものにて、ふと思ひ寄りぬ。惟光たしかにも承らで、惟光「げに愛嬌のはじめは、日えりして聞し召すべきことにこそ。さてもねのこはいくつか仕うまつらすべう侍らむ」と、まめだちて申せば、源氏「三つが一つにてもあらむかし」で、手づからといふばかり、里にてぞ作り居たりける。





その夜のこと。
亥の子餅、いのこもち、を御前に、差し上げた。
こうした、喪中のことであるから、儀式ばらず、こちらの方だけに、美しい折り詰めにして、色々と趣向を凝らしたものを、源氏は、ご覧になり、南の座敷に、出て、惟光を、召した。
源氏は、この餅を、こんなに数多く、大げさではなく、明日の暮れに差し上げてくれ。今日は、縁起の良くない日であるからと、うち微笑んで言うと、惟光は、察しが良く、気づいたのである。
是光は、曖昧に、承り、なるほど、愛嬌のはじめの餅は、良い日を選んで召し上がるものです。それでは、子の子の餅は、幾つこしらえましょうかと、真面目に言う。
源氏は、これの、三分の一でいいと、おっしゃる。すると、すっかりと、理解して、出て行った。
気の利く男だと、源氏は、見送る。
惟光は、人にも言わず、自分で作ったということで、実家にて、こっそりと、作っていたのである。


をかしげなる檜破籠
をかしげなる ひわりご
折り詰めである。

要するに、結婚した後で、夫婦で食べるという、餅である。
惟光は、すぐに、察しがついたのである。


君はこしらへわび給ひて、今はじめ盗みもて来たらむ人のここちするも、いとおかしくて、「年頃あはれと思ひ聞えつるは、かたはしにもあらざりけり。人の心こそうたてあるものはあれ。今は一夜も隔てむことのわりなかるべき事」と、おぼさる。





源氏は、ご機嫌をとりあぐねて、今、盗んできたかにのような人、姫のような気がする。
おかしくなって、長年、かわいいと思っていたが、今の気持ちからすれば、比べ物にならない。人の心とは、不思議なのもの。
今は、一夜でも、離れているならば、たまらない気持ちになるだろうと、思うのである。

かたはしにも あらざりけり
たまらない気持ちである。

年頃あはれと思ひ
長年、可愛いと思ってきた。
あはれ、という言葉の使い方が、実に、広いものである。





宣ひし餅、忍びていたう夜ふかしてもてまいれり。「少納言はおとなしくて、恥づかしくやおぼさむ」と、思ひやり深く心しらひて、むすめの弁といふを呼び出でて、惟光「これ忍びて参らせ給へ」とて、香壷の箱をひとつさし入れたり。惟光「たしかに御枕上に参らすべき祝ひのものに侍る。あなかしこ。あだにな」と言へば、あやしと思へど、弁「あだなる事は、まだならはぬものを」とて取れば、惟光「まことに今はさる文字忌ませ給へよ。よも交り侍らじ」と言ふ。




のたまった餅は、こっそりと、夜が更けてから、持参した。
少納言は、年配である。きまり悪く思われるかもしれないと、惟光は、思い、少納言の娘である、弁を呼び出して、これを、こっそりと、差し上げてくださいという。
香壷、こうご の箱を一つ、御簾の中に差し入れた。
間違いなく、枕元に差し上げるべき、お祝いのものですよ、決して、おろそかにしては、いけませんと、惟光が言う。
弁は、変だと思うが、浮気など、まだ、知りませんのにと、受け取るので、惟光は、今は、そんな言葉は、慎んでください。姫君の前で、そんなことは、言わないと思いますがと、言う。


餅と、知らせないために、香を入れる箱を使ったのである。

結婚して、三日目の、夜、夫婦で、餅を食べる。
男は、三個、女は、幾つでもよい。


若き人にて、気色もえ深く思ひよらねば、もとまいりて、御枕上の御凡帳よりさし入れたるを、君ぞ例の聞え知らせ給ふらむかし。



若い女房で、事情も、深く察することの出来ないのである。
それを、持って行き、枕元の凡張から、差し入れた。
君は、例により、その意味を、お話して、差し上げることでしょう。





人はえ知らぬに、つとめて、この箱をまかでさせ給へるにぞ、親しき限りの人々、思ひ合わする事どもありける。御皿どもなど、いつの間にかし出でけむ、花足いと清らにして、餅の様もことさらび、いとをかしう整へたり。少納言は、いとかうしもやとこそ思ひ聞えさせつれ。あはれにかたじけなく、おぼし至らぬ事なき御心ばへを、先づうち泣かれぬ。人々「さても、うちうちに宣はせよな。かの人も、いかに思ひつらむ」と、ささめきあへり。




女房たちは、何も知らずにいた。
翌朝、この箱を下げたときに、傍近くに仕える、人々だけは、思い当たることがあった。
何枚もの、皿も、その他のものも、いつの間に、揃えたのか、花足、けそく も、大変美しいもの。
餅の形も、特別らしく、見事に作ってある。
少納言は、このようなことまでは、してくださらないだろうと、思っていたが、その行為に、しみじみと、有難く思い、涙がこぼれる。
人々は、それにしても、内内にでも、仰せられればいいのに。惟光も、どのように思ったことでしょうと、女房たちは、囁きあう。


花足
机や、台などの足をそらせて、彫刻したものである。


posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第9弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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