2009年01月01日

神仏は妄想である 190

インド精神史から、仏教を更に、見る。

ゴータマの死後、その教えは、諸都市の王侯、商工業者の帰依を受けて、マガダ国中心として、東部インドに伝播した。
特に、ここで、アショーカ王の絶大な援助、保護がある。

アレキサンダー大王が、西インドに侵入したのは、西暦前327年である。
諸所に、都市を建設したが、部下の将兵たちが、それ以上の行軍を拒んだだめ、王は、軍勢を引き連れて、インダス川を下り、西方に帰還して、前323年に、バビロンで、客死している。

当時、ガンジス川平原における最大勢力は、マガダ国であった。
ナンダ王朝の下にあったが、西暦前317年、同国の青年、チャンドラ・ドラグプタによって、王朝が覆された。
近隣諸国を併合して、マウリヤ王朝を創設した。
更に、西北インドから、ギリシャ人の軍事精力を一掃し、侵入してきた、シリア王、セレウコス・ニーカトールの軍隊を撃退し、インド全土を、勝伯する。
インド最初の大帝国を、築き上げるのである。

アショーカ王は、その孫である。
在位年限は、前268年から232年に渡る。

彼によって、マウリヤ王朝は、絶頂に達した。
インド史上空前の強大な、国家権力を持って、重要な、諸事業を成し遂げた。

余談であるが、インド古来からの、人生の目的は、法と、実利、愛欲と、解脱という、四つの、ものである。
この、ベースを持って、インド思想を、眺めるべきである。

アショーカ王の、政治については、省略する。
彼は、その、心情から、世界中の人間の守るべき、普遍的な法というものを確信して、法と、呼び、ゴータマの教えに帰依することになる。

戦いによって、多くの罪無き民衆、野獣を殺傷したことを、恥じた。
そこで、熱烈に、宗教的心情を吐露して、日月の存する限り、守るべき理法があるとして、国王といえども、一切の衆生からの、恩恵を受けていると、考えた。
彼は、政治は、債務の返還、それは、報恩の行為という行に他ならないと、判断した。

従来のインド人たちの、祭祀、呪術法は、無意義なものであり、仏教に帰依することを、説いた。
しかし、熱烈な仏教信徒であったが、他宗を排斥するということは、無かった。
更に、保護し、諸宗派、宗教の提携を勧めたのである。

彼は、国際的にも、理想の政治を、呼びかけて、西洋にさえも、仏教の影響を与えたのである。

その政治は、理想的なものであった。
アショーカ王の政治理念を、現代の政治家も、学ぶべきこと、多々ある。

その、アショーカ王は、仏にゆかりのある土地に、塔や、石柱を建てて、自らも、巡礼に出るほどだった。

そこで、保護された、仏教は、どのように発展したのか。

その頃の、ゴータマに対する態度は、在世中に真理を体得した覚者として、尊敬され、死後も、弟子たちの人格的感化を受けていたが、次第に、ゴータマ個人の記憶が、薄れるにつれて、独特の、仏陀観が、現れてきた。

つまり、理想化され、特別な偉人、超人であると、認識するようになる。

当時のインド人の、理想的偉人である、三十二相、八十種好の、特徴を備えた者として、認識され始める。

更に、心に、特殊な能力を持つ者、十力、四無畏、三念住、大悲の十八共仏法というものを、備えている。
現実の歴史的存在が、神格化されていった。

更に、ここに、大乗仏典などが、書く、かかる偉大な人間は、今の修行は、今のものだけではなく、過去の多数の生涯におけるものだという、仏陀の前世に関する、本生譚というものが、創作されるようになった。

それらは、元来、中央インドのガンジス川流域で、古くから民衆の間で、行われてきた、教訓的寓話であった。

それを、採用して、仏陀の前世を、創作し、前世と、結びつけて、仏陀の過去が、語られるようになるのである。

この、寓話は、一般民衆を仏教に帰依させ、道徳的にも、宗教的にも、非常に貢献したという。

仏教の隆盛と共に、仏陀本人、そして、弟子たち、聖者たちの、遺骨、遺品に対する崇拝が、盛んになる。

それらを、埋葬している場所には、塔が建ち、塔の周辺には、多数の、彫刻などが、作られた。
だが、その時は、まだ、仏像崇拝は、起こっていない。
多数の、彫刻にも、仏陀像は、彫られていない。

それらの、多くは、寄進により、商工業者と、農村の資産家が多い状態で、王族、武士、農民たちは、いない。

教団という形も、少しづつ整ってゆく。
教理を記した、経典は、説法の形をとりつつ、部分的に、編纂された。
それを、日常的に、読誦するという、行為も行われ始めた。

最も、特徴的なことは、上座部と、大衆部に、分裂することである。

仏滅後、百年後の頃、ヴァッジ族の比丘が、十事を主張し、そのため、教団の内部に、婦紛争が起こる。

十事とは、従来の戒律の細かな規定を無視して、十種の新しい規定を掲げたのである。
上座長老たちは、会議を開き、十事を、非法であると、決議した。
そして、その後、上座長老たちは、七百人の会議を、開き、経典の結集を行ったのである。

これに対して、この会議に、承服しなかった、進歩的改革派の、比丘たちが、一万人を集い、彼ら自身の結集を行った。

更に、彼らは、旧来の教団に対して、独立を宣言し、大衆部を、樹立したのである。
これが、後の、大乗仏教といわれる、ものである。




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もののあわれ もののあわれ 372

大将の君は、二条の院にだに、あからさまにも渡り給はず。あはれに心ふかう思ひ嘆きて、行ひをまめにし給ひつつ、明かし暮らし給ふ。所々には、御文ばかりぞ奉り給ふ。かの御息所は、斎宮の左衛門の司に入り給ひにければ、いとどいつくしき御清まはりにことづけて、聞えも通ひ給はず。憂しと思ひしみにし世も、なべていとはしうなり給ひて、「かかるほだしだに添はざらましかば、願は式さまにもなりなまし」とおぼすには、先づ対の姫君の、さうざうしくてものし給ふらむ有様ぞ、ふとおぼしやらるる。夜は、御帳の内に一人臥し給ふに、宿直の人々は、近うめぐりて侍へど、かたはらさびしくて、「時しもあれ」と、寝覚めがちなるに、声すぐれたる限り、えり侍はせ給ふ、念仏の暁方など忍び難し。




大将の君、源氏は、二条の院にも、少しの間も、お越しにならない。
しみじみと、心のそこから、亡き人を偲び、嘆いて、仏前の勤めを心を込めて、なさりつつ、日々を送る。
あちらこちらからの方々には、お手紙だけを、差し上げる。
御息所は、斎宮が左衛門の司に、入られたので、いっそう、厳重な御潔斎にかこつけて、文通もしない。
嫌なことだと、思い込んでしまった、世の中も、今は、一切が厭わしく、こういう足手まといでも、新たにできなければ、念願の出家の姿にも、なろうと、思う。
ただ、西の対の、姫君、紫の上が、寂しくしているだろうと、自然、姿が、浮かぶ。
夜は、御帳台の上に、一人で、お休みになると、宿直の女房たちが、傍近くに、取り巻いて、控えているが、身の回りが、物足りなく、時もあろうに、この秋に別れとは、と、寝覚めがちである。
声のすぐれた、僧を選んで、傍に置くが、その念仏する暁方などは、耐え難い思いである。

時しもあれ
古今集 紀友則がみまかりける時よめる
忠岑
時しもあれ 秋やは人の 別るべき あるを見るだに 恋しきものを




深き秋の、あはれまさりゆく風の音、「身にしみけるかな」と、ならはぬ御独寝に、明かしかね給へる朝ぼらけの霧りわたれるに、菊のけしきばめる枝に、濃き青鈍の紙なる文つけて、さし置き往にけり。今めかしうもとて見給へば、御息所の御手なり。御息所「聞えぬ程はおぼし知るらむや。

人の世を あはれときくも 露けきに おくるる袖を 思ひこそやれ

ただ今の空に思ひ給へあまりてなむ」とあり。「常よりも優にも書い給へるかな」と、さすがに置き難う身給ふものから、「つれないの御とぶらひや」と、心憂し。さりとて、かき絶え音なう聞えざらむもいとほしく、人の御名の朽ちぬべき事をおぼし乱る。「過ぎにし人は、とてもかくてもさるべきにこそはものし給ひけめ。何にさる事をさださだとけざやかに見聞きけむ」と悔しきは、我が御心ながらなほえ思し直すまじきなめりかし。斎宮の御清まはりもややややや煩はしくなど、久しう思ひ煩ひ給へど、わざとある御返りなくは、「なさけなくや」とて、紫のにばめる紙に、源氏文「こよなう程経はべりにけるを、思ひ給へおこたらずながら、つつましき程は、さらばおぼし知るらむやとてなむ。

とまる身も 消えしもおなじ 露の世に 心おくらむ ほどぞはかなき

かつはおぼしけちてよかし。御覧ぜずもやとてこれにも」と聞え給へり。





深い秋の、あはれの増さる風の音が、身にしみることである。
慣れない、独り寝に、明かす朝ぼらけ。
一面に、霧の立ち込める折、菊の咲きかけた枝に、濃い青にび色の紙の手紙を、見つけた。置いていったものだろう。
気がきいていると、ご覧になると、御息所の筆跡である。

御息所
お便り申し上げない間のことは、お分かりになりますか。

あの方の、生涯をしみじみ、気の毒だと、聞くにつけても、涙が流れます。
死に遅れた方の、涙の袖は、いかばかりかと、お察しします。

ただいまの空の様子に、抑えきれず、お便りしました。とある。

いつもより、更に素晴らしい書きぶりだと、さすがに下に置きかねて、ご覧になる。
しかし、しらじらしい、ご弔問であると、嫌な気持ちがする。
だが、ぷっつりと、途絶えて、便りしないというのも、気の毒で、それでは、あの方の名が廃れるであろうと、思案する。
亡くなった人は、どの道そうなるはずの運命だったという気がする。ところが、何故、あんなことを、明確に見聞きしたのだろうかと、悔しい気がするのは、我が心である。
やはり、御息所への、気持ちを、改めることが、出来ないようである。
斎宮の御潔斎に対して、憚るべきではないかなどと、長い間、ためらっていたが、わざわざの手紙に、返事をしなくては、愛想がないことになりはしないかと、にび色がかった、紫の紙に、この上なく、ご無沙汰してしまいましたが、いつも、気にかけていますが、喪中につき、遠慮している間のことは、お分かりくださるでしょうと、存じます。

生き残る身にも、死んだ者にも、同じく、露のように儚い世です。
執着の心を持つことは、儚いことです。
私は、未練も執着も、持っていませんので、あなたも、執着の心を、お忘れになってください。喪中の手紙は、ごらんにならないこともあろうかと、思い、この手紙も、申し上げたいことをやめました。と、申し上げた。

御息所は、書の名手である。
源氏の故意のはじめは、御息所の、かな書を見てからのことである。




里におはする程なりければ、偲びて見給ひて、ほのめかし給へる気色を、心の鬼にしるく見給ひて、「さればよ」とおぼすも、いといみじ。




御息所は、お里に出掛けるときだったので、それを、こっそりと見て、書かれていることが、良心の呵責で、はっはきりと解る。
やはりそうだったのかと、思うのも、大変、辛い。

心の鬼
良心の呵責である。



「なほいと限りなき身の憂さなりけり。かやうなる聞えありて、院にもいかにおぼさむ。故前坊の、同じき御はらからといふ中にも、いみじう思ひ交しきこえさせ給ひて、この斎宮の御事をも、ねんごろに聞えつけさせ給ひしかば「その御かはりにも、やがて身奉りあつかはむ」など、常に宣はせて、「やがてうち住みし給へ」と、たびたび聞えさせ給ひしをだに、いとあるまじき事と思ひ離れにしを、かく心よりほかに若々しき物思ひをして、つひに浮き名をさへ流し果てつべき事」と、おぼし乱るるに、なほ例のさまにもおはせず。




わが身の、不運の酷さのせいだ。
このような噂が立ち、院におかせられても、どのように思われるだろう。
故前坊は、同じ腹の兄弟の中でも、お二人は、大変睦まじく、思いあっている。
この斎宮の、事も、懇切に、ご依頼したので、故前坊の、御代わりとしても、お世話しようと、いつも仰り、このまま宮中に、御住みなさいと、たびたび、仰せられていたのさえ、そんなことは、してはならないと、思っていた。だが、このように、思いのほかに、若々しい気苦労をして、はては、浮名を流してしまいそうだと、煩悶する。
やはり、気分は、普通ではない。

御息所の、心境である。

若々しき物思い
源氏との、恋愛関係である。

浮き名をさへ流し果てつべき事
源氏に捨てられることである。


さるは、大方の世につけて、心にくく由ある聞えありて、昔より名高くものし給へば、野の宮の御うつろひの程にも、をかしう今めきたる事多くしなして、「殿上人どもの好ましきなどは、朝夕の露分けありくをその頃の役になむする」など、聞き給ひても、大将の君は、「ことわりぞかし。ゆえは飽くまでつき給へるものを。もし世の中に飽きはてて下り給ひなば、さうざうしくもあるべきかな」と、さすがにおぼされけり。




しかし、社交などでは、奥ゆかしく、教養があるとの、評判である。
昔から、有名でいらっしゃる。
野の宮に、移られる折にも、趣深く、気のきいている事を、色々いとなさり、殿上人たちの、風流好みの者など、朝夕の露を、踏み分けて、野の宮に、通うのを、その頃の、仕事としているなどを、聞くにつけても、大将の君は、もっともなこと。趣味は、嫌になるほど、持っている。もし、私との事が、嫌になり、伊勢に下ったら、きっと、寂しくなることだろうと、さすがに、思われる。

源氏の、思いである。

大方の世につけて
恋愛関係を離れて、という意味。

朝夕の露分けありくを
紫野を、朝夕に訪問する。

posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第9弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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