2009年01月16日

神仏は妄想である 207

般若心経について、書く前に、確認しておきたいことがある。

インド人は、ゼロという数を発見した、民族である。
その、ゼロの発見で、数学というものが、飛躍的に発展したこと。
そして、その、ゼロという言葉は、空という言葉と、同じであるということ。

さて、空とは、無ではないと、書いた。
無とは、有に対する、対立したものである。
空と、無とは、一緒ではないこと。

であるから、中国思想の、無の思想と、ごちゃごちゃにしないこと。
中国思想の、無の思想は、別物である。

それが、禅宗によって、曖昧になり、老荘思想によって、解釈されるという、仰天を起こしてしまい、老荘思想の、禅思想ということにまで、至り、今は、もう、整理のし様がないほどになっている。

禅なのか、老荘思想なのか、解らないということである。

更に、老荘思想は、日本人の自然観というもの、更に、自然感覚というものを、おおきく、捻じ曲げてしまったということも、言っておく。

漢籍によって、大きな知的刺激を受けたが、冷静に、日本の心というものを、考えると、老荘思想など、物の数ではない。

信濃なる 千曲の川の さざれ石 君踏みては 玉とひろわん
万葉集

この、一つの、歌で、老荘の自然観というものは、超える。

頭で、捏ね繰り回した、言葉遊びは、日本には無い。
物があり、人があり、そして、心が、あった。
言葉だけが、単独にあるような、思想というものは、日本には、無い。

ちなみに、釈迦仏陀も、頭で、捏ね繰り回した説教を繰り返したのではない。

更に、これから死に行く人に、般若という、知恵の空を、語った訳ではない。

元々釈迦牟尼の思想というのは雲の上の思想でもなく、神秘的な思想でもなく、線香の匂いのする思想でもありません。極めて現実的な人々の福利が永続的に保障された社会を建設するための提言です。
藤見紀雄 般若心経の思想

更に、付け加えれば、霊能者たちが、読経して、霊を出したり、霊を払ったりするようなものでもない。

更に、ハウツー物で、理解して、般若心経とは、などという、甘いものでもない。

勿論、誰が、どのように、それを、解釈しようと、勝手である。
しかし、それは、その人のことであり、その人の、問題意識であり、その人のみに、言えることで、他の人には、全く意味の無いということもある。

空が、縁起であり、中道であるとは、数学のゼロの意識である。
すべては、ゼロが、基点になったのである。

般若心経を、理解するもっとも良い手立ては、数学を、学べばよい。

それから、もう一つ、余計なことを、言えば、解らないものは、解らないでよいのである。
解った振りをするのが、一番悪い。
空も、無も、解らないのであれば、解らなくていい。
それでも、死ぬ時は、死ぬ。

それから、真理などという、化け物は、この世にも、あの世にも無い。

ただ、あえて言えば、この世も、あの世も、進化だけがある。
進化が、真理だといえるのかと、問われれば、私は、知らない。
だが、知らなくても、そのうちに死ぬ。

私が、確実に、解っていることは、確実に、死ぬということだけである。

後は、死ぬまでの、暇潰しをしていると、それだけである。

先の、藤見さんが書く。
「般若」という思想は先に、「空」という言葉の概念を理解しなければ納得することのできない思想だからです。つまり、「空」の理解は「般若」を理解するための必要条件だということです。

般若心経の「空」というのは「情報」と大きな関わりをもっています。いや「情報」というものがなければ般若心経でいう「空」は存在しないのです。
藤見

このように、般若心経を、見た人を知らない。
今までは、へんちくりんな、言葉遊びに始終するものばかりであった。

例えば、もっとも、理解しやすいような、耳障りの良い、空の説明を、抜粋する。

目に見える物質は色だ。水は太陽に照らされ、気体となって蒸発する。それは目に見えない物質だから空だ。
水から蒸発して、天高く上がっていった水蒸気は、やがて雲になる。雲が集まって、気温や気圧という条件がととのったとき、水蒸気は雨となって地上に降り注ぐ。
雨は目に見える物質だから色だ。地上の雨は集まって谷川は集まって大河となり、やがては海に帰ってゆく・・・
「うーむ。そうすると、水は色であるが空でもある。だから色は空に異ならずか。
それなら人間の肉体だって、死ぬと火葬されて灰になる。つまり空になるけれども、ふたたび空から生まれてくるんでしょうか」
「そうとも。空は水や肉体ばかりでなく、すべて形あるものの根源だ。いや、すべての生命の源だな。いうなれば空は生命の蔵だよ。

上記、誰の本かは、書かないが、この程度で、ああそうかと、思わせる、詭弁である。
よく解る、般若心経入門であるだろうが、これは、単なる精神論である。

嘘ではないが、本当でもない。
言葉の手品である。

この調子で、解説が続き、解った気になるのである。
一体、現実の世界を、何と心得ているのか、である。

何故、繰り返し、この、般若、つまり、智慧というものを、多くの人が、考え込み、様々に解釈してきたのか。

鎌倉時代に、文盲の人々に、絵を描いて、地獄の様を、教えたようなもの。

文字は、読めても、解らない人を、解った気にさせるもの。
解らないことは、解らなくていいのだという、思想、姿勢が無い。

解る者は、解説しなくても、解るのである。
話して解る人は、話さなくても、解るものである。

教えの、説得は、無用なのである。

それでは、私の姿勢は、何かと、問われれば、ゼロも、妄想であるということを、書いている。
神仏は妄想である。のである。



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2009年01月17日

神仏は妄想である 215

藤見紀雄氏の、般若心経の思想、という著書から、多く刺激を受けて、それを紹介している。私は、今まで、このように、般若心経を、読む者を知らない。

ただし、これは、あくまでも、般若心経という経典の思想であり、その解説である。

釈迦仏陀が、そのように、語ったと、藤見氏も、言うが、実は、釈迦仏陀は、そんなことを、語ってはいない。
何故なら、釈迦仏陀当時に、それほど多くの語彙は無かった。
初期仏典の、ダンマパダなどを、見れば、どうでもいいような、ことが、書かれている。要するに、寝惚けた言葉の羅列である。しかし、釈迦仏陀が行為したことにより、人々は、釈迦仏陀を慕い、釈迦仏陀は、このようなことを、また、このように、説きたかったのであろうが、あると、断定されて、経典が出来上がった。

つまり、多くの人によって、仏教という思想、宗教が作られていったのである。

それを、釈迦仏陀という、権威、無形の権威を、掲げて、それぞれが、教えを立てていったのである。

だから、仏教の教義は、ある見方、例えば、キリスト教神学などから見れば、滅茶苦茶に、見える。

勿論、キリスト教神学というものも、多く、ギリシャ哲学の借り物である。
オリジナルとしては、罪の羅列であろう。
信者を支配するために、膨大な罪の意識になるものを、作り上げたのである。

さて、それを、前提に、藤見氏の、解説を、もう少し紹介する。

釈迦牟尼の思想というのは社会の中で最も恵まれない人達の福利を永続的に保証することにありました。しかしバラモン教の社会においてはそのような思想や倫理観は異端でした。人々は福利の保証されている人達の既得権の永続性が維持されることを秩序の基本に置いていたのです。
藤見

釈迦仏陀の思想は、バラモン教の序列の原理に、反することだった。
しかし、釈迦仏陀は、序列の原理を廃止して、対等の原理を社会に、実現しようとした。

序列の原理は、カースト制のような世襲の階級の序から、長幼の序、性別の序、人種の序、貧富の序、地位の序などの、様々な差別を生み出す原因があることを、発見したという。

序列の原理は、広く流布された情報のよって、形成された観念の中の心象である。
更に、この、序列の原理を守ろうとするのは、権威主義となる。

権威主義はそれぞれの社会の体制が提供する情報を素直に受け入れて心象を形成している具体的な知識を豊富にもった人間によくみられる傾向です。
藤見

そして、権威主義は、画一性の原理と、一体になり、異端者を排除しようとするのである。更に、この、画一性の原理を進めると、全体主義になる。

自由主義とは、多様性の原理により、様々な選択を希望できる思想を言う。

様々な社会には、様々な思想と、倫理観がある。だが、多くの人は、様々な倫理観があるとは、考えられないのである。

イスラム社会、アラブ諸国の、倫理観を、日本人は、真実理解できないということを、知らないと、似ている。
また、イスラエル、パレスチナ問題なども、然り。

民族と宗教が、一体になった、倫理観というものを、日本人が理解するには、逆立ちしても、無理なのである。
大二次世界大戦の、国家神道というもので、解釈も出来ない。
あれは、一時的な、狂いである。
戦争が、終わり、伝統としての、神道に戻った。
勿論、今でも、国家神道の悪夢に、うなされていると、信じ込む者もいるが、大半は、強迫神経症である。


「アノクタラサンミャクサンボダイ」という仏陀の「覚り」が語られるまでには「空」について語られ菩薩が「顛倒夢想」から遠く離れ「涅槃」に至るまでが語られてきました。このようにこれまでに語られた内容の中に「無上正等正覚」とはどのような概念かを考察するヒントがあるのです。先ず観自在菩薩は「五蘊皆空」と見極めたとき理知を確立したのです。つまり人間の活動は全て観念と一体だということから倫理観や理性的な倫理性の要請を受けて理知が確立されたのです。また菩薩が「顛倒夢想」から遠く離れたのも、仏陀が「アノクタラサンミャクサンボダイ」を得たのも共に確立された理知に依るところでした。これらを振り返ると結局は倫理の問題になるのです。
藤見

その、倫理とは、諸悪莫作衆善奉行、つまり、悪いことをしない、良い事をする、である。

だが、これは、非常に抽象的であるから、具体的現実を、この言葉と、照合するために、現実を抽象化しなければならない。

藤見氏は、この作業を、帰納といい、更に、抽象的な倫理観を実現するために具体化することを、演繹という。
帰納と、演繹という、論理上の作業が的確に行われることが、現実の社会に、倫理を実現することになる。

この作業が、的確に、行われないと、建前と、現実が乖離して、倫理の崩壊を招くのである。

藤見氏は、この、具体性から抽象性へ、また、抽象性から具体性への的確な変換をする知恵が、無上正等正覚だと、推測する。

これについては、これ以上詮索しない。
空の思想、空とは何かということを、書いている。

ただ、言えることは、既存の仏教思想や、このように、般若心経というものを、説くというのは、精神論のみでは、成り立たないということである。

釈迦仏陀の、平等の教えというものを、後世の人々が、真剣に、考えて、経典の中で、議論しているのである。

単なる、精神論であれば、それは、現実生活に、少しの、慰めを与えるが、生きるという、実際的行為の中に、釈迦仏陀の、教えは、生かされないということである。

バラモンの社会で、人間平等を、掲げるということは、とてつもなく、大変なことであり、それは、死を賭けた教えでもある。

何故、人間は、平等なのかということを、般若の思想、大般若経は、語る。
般若心経は、その心臓部だといわれる。

空の思想は、精神論ではなく、現実主義、そして多様な社会に、合わせて、空の思想を、実現するものであろうとの、願いがある。

それならば、神仏は妄想ではなくなる。
神仏が現実に生きることになる。
そこでは、神仏とは、勿論、人間のことである。


藤見氏の、アノクタラサンミャクサンボダイの記述を、私は、カタカナにしている。

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もののあわれ 387

心にくく、由ある御けはひなれば、物見事多かる日なり。申の時に、内に参り給ふ。みやすん所、御こしに乗り給へるにつけても、父おとどの、限りなき筋に思しこころざして、いつき奉り給ひし有様かはりて、末の世に内を見給ふにも、もののみ尽きせず、あはれにおぼさる。十六にて、故宮に参り給ひて、二十にて後れ奉り給ふ。三十にてぞ、今日また九重を見給ひける。




奥ゆかしく、風情ある人柄であるから、見物の車が多い日である。
申の刻に、御所に参上される。
御息所は、御輿に乗って、おいでになる際、父の大臣が、皇后の位にと、期待されて、大切にされた頃の様子とは違い、年を経てから、御所を見ると、ただ感無量である。
もののみ尽きせず あはれにおぼさる
思い出多く、それが、あはれ、という、感情に高まる。
ただ、感慨無量である。寂しい、切ないと、色々と訳すことが出来る。
十六で、故東宮に出られ、二十にて、お先立てられた。
三十になり、今再び、御所を、見られるのである。





御息所
そのかみを 今日はかけじと しのぶれど 心のうちに ものぞ悲しき

斎宮は、十四にぞなり給ひける。いとうつくしうおはするさまを、うるはしう士奉り給へるぞ、いとゆゆしきまで見え給ふを、みかど、御心動きて、別れの櫛奉り給ふほど、いとあはれにて、しほたれさせ給ひぬ。




御息所
その昔のことを、今日は、口にすまい。堪えているのだが、心のうちでは、悲しくて、なりません。
斎宮は、十四になられた。
とても、可愛らしい姿を、美しく飾られている。
この世のものとも、思われないほどの、姿に、陛下は、お心を動かされて、別れの櫛を、差し上げる。
その時、胸がつまり、涙を流したのである。



出で給ふを、待ち奉るとて、八省に立てつづけたるいだし車どもの、袖口色あひも、目なれぬさまに、心にくきけしきなれば、殿上人どもも、わたくしの別れ惜しむ多かり。



退出されるのを、待って、八省院並べた車から、のぞく着物の袖口や色合いも、珍しくあり、趣、奥ゆかしい。
殿上人たちも、それぞれ、別れを惜しむ。




暗う出で給ひて、二条より洞院の大路を折れ給ふほど、二条の院のまへなれば、大将の君いとあはれにおぼされて、さか木にさして、

源氏
ふりすてて 今日は行くとも 鈴鹿川 八十瀬のなみに 袖はぬれじや

と、聞え給へれど、いと暗う、ものさわがしきほどなれば、またの日、関のあなたよりぞ御返しある。

御息所
鈴鹿川 八十瀬のなみに ぬれぬれず 伊勢までたれか 思ひおこせむ

ことぞぎて書き給へるしも、御手いとよしよししくなまめきたるに、「あはれなるけを、少し添へ給へらましかば」とおぼす。
霧いたうふりて、ただならぬ朝ぼらけけに、うちながめて、ひとりごちおはす。

源氏
行くかたを ながめもやらむ この秋は 逢坂山を 霧なへだてそ

西の対にも渡り給はで、人やりならず、ものさびしげに、ながめ暮らし給ふ。まして旅の空は、いかに御心づくしなること、多かりけむ。




源氏
今日は、私を振り捨てて、行かれても、鈴鹿川を渡る時、川瀬の波に袖を濡らすように、後悔されることは、ないでしょうか。

と、申し上げるが、暗くなり、落ち着きもない頃なので、次の日、逢坂の関の向こうからの、お返事である。

御息所
鈴鹿川の波に、濡れるか、濡れないか、誰が、あの遠い伊勢のことまで、考えてくださるのでしょうか。

言葉少なく書かれている、お手紙は、とても深みのある、書であり、風雅を感じる。
源氏は、これに、あはれなるけを、少し付け加えていたなら・・・と、思われる。

あはれなるけを 少し添へ給へらましかば
その中に、少し、あはれなる、風情をと、思う。
霧が厚く振り注ぐ、明け方、思い乱れて、ぼんやりとして、独り言をされる。

源氏
あの一行の、行き先を、眺めていよう。今年の秋は、逢坂山の辺りを、霧が、隠さないで、ほしいものだ。

西の対にも、渡らず、我が心ゆえと、思いつつ、一日を、過ごされる。
それにもまして、旅の身の上は、どんなに、心乱れること、多かったのでしょうか。

最後は、作者の、感想である。


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神仏は妄想である 216

ただいま、法華経を見ている。
その中で、空というものが、出て、空の思想を、竜樹から見て、更に、空を、説くという、般若経の心臓部といわれる、般若心経について、書いている。

また、法華経に戻るが、今一度、空の思想と、釈迦仏陀の思想というものを、別な角度で、見ることにしたい。

一体、仏陀は、何を知り、何を観て、そして、何故、生き方指導を開始したかである。

そのために、インド思想史も、俯瞰しつつ、書いている。

「嘘をついてはいけない」「人の物を盗ってはいけない」といった善悪、正不正には、はっきりとした理由がある。しかもそれは、倫理学や道徳哲学を専門に勉強しないと分からないような複雑で難解なものではなく、単純で明快なものである。そして、人々はそれを分かっていないのではなく、はっきり意識していないだけで実はどこかでそれに気づいている。だからこそみんな「嘘をついてはいけない」「人の物を盗ってはいけない」と本気で思うのであり、道徳や善悪・正不正の区別が人間社会にあまねく存在するのはそのためである。

ではその理由とは一体何か。
それはずばり、利害損得である。
内藤淳 進化倫理学入門

進化倫理学とは、聞きなれない言葉であり、学問である。

対象をその「外」から客観的に観察・分析するというのは、科学的態度の基本である。まさにそのことから、従来より科学の中心は、物理や天文といった自然現象を人間が観察・分析する自然科学であったわけだが、最近ではわれわれの外にあるそうした現象にとどまらず、人間自身の行動や心理を対象にした人間科学が大きく発展している。
内藤淳

そこでは、人間の行動や、思っている動機、理由の背後にある、意識していない心の働きが存在する。
思考や行動が、それらを基にして、生じているということを、様々な実験や観察により、明らかにする学問であるという。

私は、宗教の時代が、終わり、このような、進化倫理学の時代がくると、予想する。

人間科学であり、それは、十分に思索に耐えられるものである。

近年は、人間行動進化学という、分野が、成果を上げている。
それは、生物進化の観点から、その過程で、人間が、いかなる心の働き、行動パターンを、発達させてきたかということ。
生物として、人間が、共通に持つ基本的性質とは、どういうものかを、研究している。

その中でも、人間の道徳性というものが、重要な研究テーマであり、それを、扱う研究が、進化倫理学と、呼ばれる。

進化倫理学に基づいて独自の発想でこの問題を考えたとき、その答えが人間ひとりひとりの「利益」の中に見えてくる。これは、言い換えれば、道徳に「利益」という客観的な根拠を見出すということで、これまでの倫理学ではなかなか答えが見つからなかったこうした問題に、新しい角度から光を当て、独自の見方を提示しているところが、新しい学問分野としての進化倫理学の大きな特長である。
内藤淳

人文、社会科学、自然科学、更に、文系、理系という、枠組みを超えて、人間や社会の問題を考えるという。
分野横断的な、視点を持つ学問として、注目すべきである。

それはまた、宗教の終焉を示す、学問とも、成り得る。

ここで、少し、寄り道して、この学問について見ることで、釈迦仏陀の、観たものを、より深く理解したいと、思う。

人間というものは、そもそも、利己的な存在であるとの、主張が、この、進化倫理学のテーマである。

利己的というと、わがままだとか自分勝手だとか、それ自体で「悪い」イメージがあるので、こうした表現をすると、それだけで「人間の性質はもともと悪なのだ」という受け取り方をする人がいるかもしれない。しかし、自分の利益に向けて行動すること自体は善でも悪でもない。
内藤淳

利己的であるのは、人間が、進化によって、地球に生まれた生物であることから、極めて自然なものである。
進化というのは、個々の生物が、自分の遺伝子を次の世代に残す中で、そのため、プラスになる、特徴や性質が、子孫に受継がれることで、起こること、明確である。

生物が、成功裏に、自分の遺伝子を残すということを、包括的、適応度の向上という。適応度とは、専門用語であり、すなわち、利益のことである。

面白いのは、自分の遺伝子を残すことと、種の保存とは、別物であるということ。
生物は、種の保存本能を持たないのである。

進化の過程で、生物に受継がれるのは、自分の遺伝子であり、種という、集団全体を残すための、性質ではないというのである。

種の保存という、考え方は、一種の信仰に似る。

種の保存という、本能は、生物の間に、進化しないのである。
実に、真っ当な、考え方である。

自己犠牲のみに、生きれば、種の保存は出来ないのであるから。

そして、更に、
進化は別に「弱肉強食」でも「優勝劣敗」でもないし、進化倫理学は、競争を擁護する思想とは違う。社会進化論というのは、単なる競争主義の価値観を、進化に関する誤った知識に当てはめて提示したもので、人間行動進化学や本書で論じる進化倫理学とは別物である。
内藤淳
というのである。

進化と進歩とは、違うものである。
劣った者が、淘汰されることで、世界が良くなる、発展するという話は、人間行動進化学からは、出てこない。

これは、非常に、興味深い学問である。
進化した、生物である、人間の精神と、心というものを、再度、確認しつつ、眺めることができる。

更に、釈迦仏陀が、観たものを、進化倫理学というもので、解決することが、出来るのである。

やたらめったら、理解不能な、言葉の数々を取り上げなくても、実に、よく分かる、話なのである。

宗教は、学問の領域に入らないが、人間観察と、その進化の過程から、考察したものは、学問足りえるのである。


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神仏は妄想である 208

般若心経の解説書や注釈書は大変な数に上がります。おそらく何所の書店に立ち寄っても一冊や二冊は表題に般若心経の文字を見付けることができるものと思われます。こうした中で何冊かの般若心経の解説書を読みますと語句の説明は様々で共通するところは古い時代の注釈の引用ぐらいなものです。ただ残念なことに経文の流れに沿って一語ずつの概念を明確に説明している解説書には出会うことができませんでした。
藤見紀雄

私も、同じである。
多くは、煙に巻いたものである。
更に、売れない作家をはじめとして、科学者や、ゴロツキ文筆業の者が、書く書く書く、のである。

いかに、宗教というもの、どうにでもなることが、解るというもの。
彼らの、妄想に時間を使っている暇は無い。
だが、それらが、売れているというから、日本人の、読解力が落ちたといえる。

簡単、明瞭が、いいのではない。しかし、小難しい言葉を、並べ立てるアホの書いた者も、うんざりする。

大半の解説書が日本の伝統的な仏教の宗派に所属する宗教家によって書かれていることもあって、語句の概念を一語ずつ明確に説明することより宗教学上の説明に重点が置かれていることが多いのです。また一方で特定な語句についてのみ情緒的な情景描写によって伝統的な説明をすることに努めている解説書もあります。この方法は釈迦牟尼の用いた比喩の方法を模倣したものです。様々な説明が出てくるのは、般若心経という短い経典の中に極めて多くの思想的な内容が抽象化され濃縮されて盛り込まれているため、簡単に釈迦牟尼の思想の全容を読み取ることができるような説明は困難なところがあるからです。
藤見

日本に伝統的な、仏教の宗派があると、想定すれば、の、話である。
彼らは、宗派の教えの、都合に合わせて、解説するということで、邪道、外道に他ならない。
更に、宗教学上の云々とあるが、宗教学など無い。それを、学問としたのは、西洋のキリスト教の、連中であり、日本には、宗教学など、無いのである。

また、宗教を、学問の枠に入れるということは、果たして、いいのかということもある。

あれは、学問足りえるのか。
思想といえば、聞えはいいが、妄想といえば、学問にはならない。

教学などという、連中がいるが、単なる、思いつきのことである。
一人の思いつきを、教学などという、心境が解らないし、驚愕する。

私は、竜樹の空も、般若心経の、空も、最後の、解決を見ている。
それは、最後に書く。

兎に角、藤見氏の、般若心経の、解説は、今までにないものであるから、実に、興味深いのである。

そして、釈迦仏陀の教えに、非常に近いと、判断した。

仏教の思想を伝えるための情報の混乱は経典が作られる前にもありましたが、経典が作られた後にも他の地域で使われている言語に置き換えるときに、元の名辞の表そうとしている概念を正確に理解することができないままに訳出されることでも惹き起こされていたのです。このために釈迦牟尼が神秘的な事柄の不明なところを明らかにして、秘密や神秘性を解消しようとした本願とは程遠い考え方を仏教の教えとして誤解しているところが少なくありません。
藤見

世界の宗教の中で、その教義が、滅茶苦茶なのは、仏教である。
兎に角、とんでもない、飛躍である。
先に書いたように、学問などにはならない程、混乱の至りである。

更に、日本に来て、益々、仏教というものが、不明瞭、不明確、ずたずたに、されたといえる。

とても、おかしいのは、漢語の解釈をするという、仏教愛好者たちである。
勿論、彼らは、それを、真剣にやっている。

実際のところ仏教ほど本来の教えが判らなくなっている宗教はありません。現代の日本においては殊にその傾向が強く「ほとけさま」と言うときの「ほとけさま」とは一体どんな概念を指しているのかはっきりしません。日本で「ほとけさま」と言うとき死者のことか仏像のことを指していることが多く、人間としての仏陀を意識して「ほとけさま」と言うことは殆どありません。このようにして「ほとけさま」とは死者か仏像のことであり、「ほとけさま」との関わりは葬式や盆や法事などといった儀式を華やかに執り行うことに限られてしまったのです。
藤見

その通りで、それらは、すべて、商売なのである。
宗教法人という、税制上の待遇を受けて、さんざんの商売をしているのである。

よくぞ、素顔で、表を歩けるものだと、思う。

ちなみに、仏教は、葬儀も、死者の追善供養なども、一切、取り仕切らない。
まして、死者に戒名など、つける訳が無いのである。

これほど、堕落し、かつ、膨張し、とんでもない常識を作り上げた、日本の仏教というものも、無いものである。

千年以上も前に、漢語で、入って来たお経というものを、未だに、無反省に、読経している様、信じられないの一言。
更に、そこから、派生する、新興宗教の仏教系といわれる、宗教団体は、糞も味噌も一緒。
臭くて、たまらないのであるが、信じてしまえば、あちっのもの。
糞と味噌を、拝んで、救われるという、信じ難い行為を、続ける。

ある、新興宗教の観音経というものを、読んで、仰天したことがある。
神様仏様、兎に角何でもありの、とても、通常の意識では、考えられない代物。

その大元は、神道系で、更に、そこから、狐に憑かれて、出来た新興宗教で、更に、そこから枝分かれしたもので、更にと続く。

そんなものに、お清めされたら、良い人も、悪くなるのは、必死。
健康な人も、不健康になる。

目が潤んで、浮遊霊にとりつかれた、信者の面々である。
ホント、ご苦労さんである。

精神疾患に罹っているとしか、思えないのである。それでも、拝むモノが、欲しいのか。
人間とは、あはれなモノである。

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神仏は妄想である 210

諸悪莫作衆善奉行 しょあくまくさしゅうぜんぶぎょう
悪を行わない。善を行うこと。
これが、仏陀最大の教え、また、教えの根幹である。

釈迦牟尼はこの倫理観が社会において実現されるときに全ての悩みも苦しみも解消されて人々の安心が保障されることを確信されていたのです。そしてこれを実現するために「空」や「般若」という概念を取り出して説明しているのが般若経典であり、その般若経典を更に要約した経典が般若心経です。

釈迦牟尼は意図的に提供される「間接的情報」において、ただ人々に受け入れ易い情報を提供することで人々の関心を買おうとすることは邪道であり、人々の権益を侵害することにもなり、提供された情報が流布され人々に受け入れられることが、人々の永続的に保障される福利の向上に繋がるか、人々の永続的な福利を害することに繋がるかという視点が大切にされなければならないと説いたのです。
藤見紀雄

上記のように、解説したものを、私は、見たことがない。

日本仏教愛好者たちは、いつまでも、言葉の概念を、曖昧にして、仏教、いや、それぞれの、宗派の教えを説く。本末転倒である。

悟りと、解脱と、涅槃と、覚りと、味噌糞一緒なのである。
全然、別物であることを、知らないのか、知っても、言わないのか。それで、全く、勘違いして、釈迦仏陀の教えを、捕らえる人、多数。

だから、
無にもなれず
空にもなれず
云々
という、文句を語る人も、現われる。

それは、悟り得ない自分というもの、卑下しているのである。

それぞれの思想によって倫理観の違いはあっても、どのような思想にも倫理観のない思想というものはありません。バラモン教にはバラモン教の倫理観があり、キリスト教にはキリスト教の倫理観があるのです。・・・
倫理観と言っても決して普遍的なものではなくそれぞれの社会や思想によって異なるものです。このように様々な倫理観がある中で釈迦牟尼はその思想から形成された倫理観を「諸悪莫作衆善奉行」という言葉によって示しています。「般若」というのはこの「諸悪莫作衆善奉行」という倫理観を実現するための知恵のことです。
藤見紀雄

現代の、倫理観というものを、理解しない、現在のローマ法王は、コンドームにより、エイズの予防にはならない、云々と言って、フランスの多くの信者、一般の人の支持を失った。

要するに、楽しみの性行為は、罪であるとする、根底から、抜けられなく、兎に角、性を快楽的に扱うのは、駄目。よって、コンドームを使用して、性を楽しむのは、駄目。
妊娠を目指す性行為のみ、よろしいと、今も、思い続け、性に対する倫理観を、変更できないでいる。
中世のまま。
石頭というより、意固地であり、頑固を越えて、頑迷である。

本人は、高齢であり、性の欲望も、希薄で、更に、法王という、聖人振りを演じなければならないからいいが、性欲旺盛な若い人を、自分と同じように、捉えている様は、あはれで、滑稽であり、ほとんど、人生というものについて、知らないのである。

彼が知ることは、死んだら、天国に行き、主イエスの、傍にいられるという、妄想である。
法王なのだから、主イエスから、我が友よと、言われると、信じ込んでいるのである。

さて、悪い行為をするな、善を行うことと、いっても、それは、何かということになる。

それには、理性による論理的な考察が必要になる。

そこで「般若」がこの必要性を満たすのです。そして「悪い行為」とは「他者の権益を侵害する行為」のことであり、「善い行為」とは「他者に権益を提供する行為」のことであることを明確にするのです。仏教ではこの「他者に権益を提供する行為のこと」を「布施」と呼んでいます。この「布施」と言うのはお坊さんやお寺さんに寄進することだけを言うのではなく、少しでも他者の役に立つ行為の全てを言います。
藤見

般若の別名は、理知ということになる。
つまり、理詰めの知恵、である。

日本仏教愛好者たちは、釈迦仏陀の教えを、都合よく、人々に伝えて、自分達の権益だけを、守るという、外道に落ちている。それにさえも、気づかない。

鎌倉仏教から、起こった、宗派の全てを見るがいい。
釈迦仏陀とは、何の関係も無い、蒙昧な教えで、信者を騙し、果ては、布施は、寺にするものであること、供養すれ、供養すれと、一体、誰のための、先祖供養かである。
それで、幸せになる。家族円満、家内安全。

仏典には、一言も無い、戒名から、更には、死者のことには、触れなかったはずが、葬式で、荒稼ぎ。
釈迦仏陀も、アワを吹いているだろう。

それで、お釈迦様の教えは、と、嘘八百であるから、救われないどころか、彼らが言う、地獄へ、直行である。

具体的な知識というのは特定の事物の表面だけを捉えて形成された心象であるために、どうしても建前と現実が乖離し易いところがあります。しかし現実の社会でこの理知を実現するためには多くの軋轢が生ずることも予想されるのです。それぞれの国の統治の在り方についてこの理知を実現しようとすることは政治の問題に関わることです。体制を動かしている人達にとって面白くないに違いありません。それでもこの問題に触れなければ人々の福利が本当に保証された社会を実現できない現実の中にあっては軋轢を恐れることなく「角が立っても」議論を起こすこともまた理知の働きです。
藤見

般若とは、パンニャーという梵語を、そのまま、漢字に当てた言葉である。
それは、理性と知性を、一体にした概念であり、現代の日本語として、相応しいのは、理知という言葉になる。

般若とは、倫理的な妥当性を、論理的に、検証することであり、それを、知恵と言う。

仏陀が、この考え方を得たのは、覚りを得てからの、オリジナルなものである。
更に、この仏陀の、オリジナルは、仏陀の感受性のゆえであること、付け加える。
それを、言い表しえないという、逃げの手は、通用しない。
感受性によるものであることを、明確にしておく。

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2009年01月18日

もののあわれ 378

院の御なやみ、かんな月になりては、いと重くおはします。世の中に惜しみ聞えぬ人なし。内にもおぼし嘆きて、行幸あり。



院のご病気が、十月に入り、とても、重くなりました。
世の中の人は、それを、惜しみ、心配している。聞えぬ人なし、心配しない人は、いないのである。
帝も、心配されて、行幸される。




弱き御心地にも、東宮の御ことを、かへすがへす聞えさせ給ひて、つぎには大将の御こと、院「侍りつる世に変らず、大小の事を隔てず、何事も御うしろ見とおぼせ。よはひのほどよりは、世をまつりごたにも、をさをさはばかりあるまじうなむ見給ふる。必ず世の中のたもつべき相ある人なり。さるによりて、わづらはしさに、みこにもなさず、ただ人にて、おほやけの御うしろ見をせさせむと、思ひ給へしなり。その心たがへさせ給ふな」と、あはれなる御遺言ども多かりけれど、女のまねぶべきことにしあらねば、この片はしだに、かたはらいたし。





衰弱された御心ながらも、東宮のことを、繰り返し繰り返し、頼むのである。
そして、次には、大将のこと。源氏のことである。
院は、私の在世中と、変わらずに、大小に関わらず、お世話役と、思ってください。年のわりには、政治を執らせるにせよ、別に遠慮することないと、思います。必ず、天下を治める能力がある人です。そのために、面倒が起こることを、恐れて、親王にもせず、臣下として、朝廷のお世話役をさせようとしたのです。この私の、心に、背くことなきよう。と、心打つ、遺言が、多くあった。
女の口にすべきことではないので、ここに、少しでも、漏らしたことでも、気が引ける。とは、作者の言葉である。




みかども、「いと悲し」とおぼして、さらにたがへ聞えさすまじき由を、返す返す聞えさせ給ふ。御かたちもいと清らに、ねびまさらせ給へるを、うれしく頼もしく見奉らせ給ふ。限りあれば、急ぎ還らせ給ふにも、なかなかなること多くなむ。





陛下も、悲しく思い、決して背くことのない、旨を、繰り返し繰り返し、申し上げる。
お姿も、大変綺麗で、お年とともに、なりあそばしたこと、院は嬉しく、頼もしく、ご覧になる。
限りがあるので、急いで、戻られるが、心残りが、多くある。




東宮も、ひとたびにと、おぼしめしけれど、物さわがしきにより、日をかへて渡らせ給へり。御としのほどよりは大人び、うつくしき御さまにて、「恋し」と、思ひ聞えさせ給ひけるつもりに、なに心もなく、「うれし」とおぼし、見奉り給ふ御けしき、いとあはれなり。




東宮も、ご一緒にと、思われたが、大げさになるので、日を替えて、行かれた。
お年のわりに、大人びて、可愛らしい様子。
院を、恋しいと、慕い、そこに居られたが、無邪気に、嬉しいと思い、院の御顔を、ご覧になる。その様子、とても、いたわしい。

この、あはれ、は、いたわしい、と推察する気持ちの、あはれ、である。



中宮は、涙に沈み給へるを、見奉らせ給ふも、さまざま御心乱れて、おぼしめさる。よろづのことを、聞え知らせ給へど、いとものはかなき御ほどなれば、「うしろめたく、悲し」と見奉らせ給ふ。大将にも、おほやけに仕うまつり給ふべき御心使ひ、この宮の御うしろ見し給ふべき事を、返す返す宣はす。夜ふけてぞ、帰らせ給ふ。残る人なく仕うまつりて、ののしるさま、行幸におとけぢめなし。あかぬほどにて、帰らせ給ふを、いみじうおぼしめす。



中宮が、涙に濡れているのを、見るにつけても、院は、あれこれと、心乱れ、悩んでいる。
色々なことを、お話しようとするが、とても、幼い年ゆえ、心もとなく、可愛そうであると、ご覧になる。
大将には、朝廷に、お仕えする心づかいや、東宮の、お世話を勤めることを、繰り返し繰り返し、仰せられる。
東宮は、夜が更けてから、お帰りになった。
殿上人も、残らず、お供して、ざわめいている様子は、帝の、行幸に、劣るところがないのである。
帰したくないのだが、お帰りになるのを、院は、ひどく残念に思う。

いとものはかなき
いと もの はかなき
ものはかなき、と、もの、がつく。

もののあはれ、は、もののはかなき、でもある。

あはれはかなき、と、なると、更に、思いが重なる。

はかなき、も、単に、儚いということではない。
存在の、希薄さではない。存在の深さであり、重さともなる。
儚いからこそ、それは、重大な意味があるのだ。

ここでは、その有様が、大変に儚いものであると、幼きことで、心もとないが、その存在が意味深いからである。
この部分は、訳者によって、いかようにも、表現することが、出来る。
つまり、百人百様の捉え方がある。

それぞれの、心象風景である。


posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第9弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神仏は妄想である 217

人間も、他の生物と同様に、究極的にはこうした意味での利益獲得に向けて動く「利己的」な存在である。
内藤淳

人間の最大の、脳の進化もまた、生存、繁殖のプラスにならないのに、他の身体器官と同じように進化したのは、それが、人間の利益にかなうがゆえに、進化したと、考える。

人間の脳の、進化は、集団生活の中での、社会関係に対応する必要性から、進化したと、考えられている。
つまり、自然環境を相手に、複雑で、流動的な人間関係への対応、その中での、利害調整の必要性のためである。

つまり、社会関係に対処するために、言語コミュニケーション能力を含め、知性や理性を持つことが、利益にかなったからであるとする。

脳は、自分の利益のために、行動しているのである。

そこで、釈迦仏陀の、求めた、布施行為という、利他の行為は、いかなるものなのかということも、進化倫理学では、十分に考えられている。

結論を言えば、利他行為も、利己的行為なのであるということだ。

それを、説明するために、進化倫理学入門を、利用する。

さて、果たして、人間の行動は、理性で、行動しているのか。

説明をしていると、タラタラして終わらないから、どんどん、結論を書いていくと、人間の行動原理は、つまるところ、快、不快である。
そして、その快、不快には、利益が反映しているというのである。

われわれは基本的に自分が生存・繁殖する上で利益になるものに対して「快」を、不利益なものに対して「不快」を感じるようにできている。
内藤淳

エーッ、そんなことは、無いと言うのは、キリスト教信者であろう。特に、熱心な、クリスチャンは、否定するはずである。
ところが、彼らの、本音は、不快なことであろうと、つまり、不利益なことであろうと、信仰による理性によって、行動すると、思いこむ。
その心は、その、不快で、不利益なことをすることで、実は、最大の快である、天国という国が、保証されていると、信じ込むことである。

それは、最大の、彼らの利益である。
彼らは、人のためにと、行動しつつ、実は、自分が、天国に入いることのために、信仰の理性で、行動すると、思っている。
実に、偽善であるが、そう、信じている。

人類は、利己的でなければ、生き延びていないし、また、進化もしていなかった。つまり、滅びていたのである。

人間の行動は、その「快」を志向し「不快」を回避することで生ずる。(理性的ではなく)感情や感覚によって行動が決まるこの過程は、われわれに、自分の利益に向けた行動を自然に起こさせる仕組みになっている。こうした仕組みを通じて、人間は、自分でいちいち利害損得を考えていなくても、意識しないまま自分の利益に向けた行動をとる。言ってみれば、われわれは、自分の利益に向けて動くように「できている」のであり、自らが意識している以上に「利己的」な生き物である。
内藤淳

ただ、その副作用にて、後天的に、非利益的、反利益的な情報が、インプットされることで、自分の利益に、反する行動が生じる場合がある。
しかし、そうであっても、元にある、内面の、仕組み自体は、利益確保に向けた、構造と、機能を有していて、そういう仕組みを誰もが、備えているという点では、人間が、基本的に、利益に向けて動くという、原則は否定されないのである。

宗教が説く、利他行為というものも、進化倫理学では、徹底して、自分の利益に、集約して、理解できることになる。

あの、一見して、論じる、空、中論、因縁等々も、それ程、複雑怪奇にして、語る必要も無い。

これを、学べば、竜樹などは、大悪党だったことが、解るというもの。

また、それらの、太鼓持ちたちを、一網打尽にすることが、できるのである。

釈迦仏陀の行為も、極めて、利己的な行為であることが、解るのである。

更に、解脱とか、悟りというものも、こけおどしのようなものであることも、である。
まして、仏教の天上界という、魔界に生まれることもない。

実に真っ当に、人間として生きて、人間として、死ぬことができるのである。

そして、人類は、それを、目指して生きてきたのである。
仏などという、化け物に、なる必要は、毛頭無いのである。

内藤氏は、利他行為を、大きく四つに、分けて考える。
第一は、血縁者に対する、利他行為。
第二は、自分と特別な関係にある、人間、夫、妻、恋人などである。
第三は、友人、知人、同僚や、近所の人といった、一定の関係にある人たち。
第四は、見知らぬ人、不特定多数の人に対するもの。これが、多く宗教で、言うところの、利他行為である。

その一つ一つを、取り上げて、実に、理解しやすく、解説している。
入門書であるから、実に、気を配るのである。

その中から、私は、興味深いところを、抜粋して紹介する。

それは、実に、地味な観察である。
進化の過程の観察から、一つ一つの、人間の行動を、じっくりと、観察して、出来上がったものである。
理系の観察方法である。

そこには、文系のロマンは無い。
そして、科学であるから、ロマンはなくてもよい。
その後で、ロマンの必要な人は、付け加えればいいのだ。

そういう意味で、宗教を捉えれば、実に、歪なロマンであるということだ。
性格の悪い、意地悪な、ロマンである。
更に悪いのは、妄想を肥大化させて、現実の世界を見る目を、曇らせ、果ては、人間を、廃人としてしまう程の、威力を発揮する。

実に、宗教では、救われない。
つまり、人間のあるべき姿を、破壊し尽くすのである。
それが、妄想なのであるから、救われないというのである。

この世にも、あの世にも、救いというものは無い。
あるはずが無い。
救いというものも、妄想であるからだ。


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神仏は妄想である 209

釈迦牟尼が人々に伝えようとした事柄は既存のバラモン教の教義とは余りに違う内容をもっていましたから、釈尊御自身もそれを他の人に伝えることを躊躇われたという言い伝えがある程です。人間は一旦頭や心の中に知識や考え方を形成してしまうと、現実の状況が大きく変化しない限り、それまでの知識や考え方と全く異なる情報を拒否しようとする性質をもっているのです。
藤見紀雄

バラモンから、ヒンドゥーへと、受継がれて、今もそれが、残っている最大の、カースト制について、仏陀は、真っ向から、否定する考え方を得た。
それが、平等である。

生まれながらに、人間が差別されることはない。人は、行為によって、成るものになるのである。
それである。

バラモンの教えは、当時の人の常識であるから、当然、仏陀の考えたもの、見出したものは、拒否される可能性が、高い。高過ぎるのである。

仏陀は、それを躊躇した。
それは、経典では、梵天が、現れて、説教せよと、仏陀に言ったことになっているが、創作である。
梵天とは、魔界のモノである。
それからして、経典は、創作の産物であることが、解る。

釈迦仏陀は、空というものを、発見したと、藤見氏は言うが、果たして、そうなのかは、明確ではない。ただ、仏陀によって、空の思想が、触発されて、生まれたと、考えることは出来る。

その理由は、
仏教の経典は最初はパーリー語によって記述され、その後、サンスクリット語に書き改められたと伝えられています。しかし何分にも最初の経典が作成されたのは釈尊がこの世を去られてから四百年も五百年も経った後のことでしたから、古くからの文字として遺されている資料にさえも釈尊が否定されたはずのバラモン教の教義などが何時の間にか混じり込んでしまっているように思われます。
藤見

バラモンの教えも、当然に混じるはずである。

不立文字という言葉があるが、これは、言わず語らずという意味ではない。
言葉にして、伝えることが、出来ないという意味でもない。

要するに、それぞれの地域や、それぞれの時代に合わせて、明確な概念が伝えられなければならないという意味である。

禅は、不立文字と、言っても、語るは、語るは、一番、煩いくらいに、文字にしているのである。
アレは、上記とは、別物である。

単なる、格好つけである。
語りきれないものがあると、嘯いているのである。

そして、最も、曖昧な、悟りというものを、目指しているという、お馬鹿さである。

禅の、修行者に、自殺者が多いということは、あまり知られていない。
何年座っても、悟れないと、嘆いての、自殺であるから、やり切れない。
そんなものは、あまりせんよと、誰かが、言えば済むことなのであるが、誰も言わない。

ただ、その行為の中に、悟りと、表現する姿があるということ。
悟り、悟ったという、お化けは、この世にも、あの世にも、無い。

悟ったと、言う者は、精神を病んでいるのである。

仏陀は、ただ、観たのである。
何物も、掴めないということを。
この世のものは、何も、つかむことが出来ない。

それは、空気を掴むのに、似る。
空気は、あるのだが、では、空気を掴めといわれると、掴めないということを、仏陀は、観たのである。

空気は、確実にあるのに、それを、掴むことが、出来ないのは、何故か。それでは、人間の生も、死も、掴むことは、出来ない。
老いも、病も、掴むことが、出来ない。

アララっ、何一つ、掴むことが出来ないものに、右往左往して、生きている。
そんな、暇なことを、考えて、更に、観た。

皆、掴めないのであると。

更に、確実なことは、地面に足をつけているということだけ。しかし、その地面も、何時、如何なることで、崩れるかもしれない。
アララッ、どうしましょう。

本当に、阪神大震災の時、皆々、まさかと思ったと言う。
新潟の地震の際も、まさかと、思ったと言う。
皆、起こってから、まさかと、思ったという。

そして、気づいた時は、家は流されて、村は、陥没して、アララッである。
更に、人生、何もかも、失ったと思う人もいる。

何一つ、決定していることは、無い。
仏陀は、それを、観た。

要するに、現実というものを、観た。

そこで、藤見氏は、

では何が釈迦牟尼の思想の根幹であったかというと教義の全ては「諸悪莫作衆奉行」という倫理観から出発しているのです。
と、言う。

悪を行わず、善を行うことである。

実に、簡単明瞭である。

ところが、暇な人がいて、悪とは、何か、善とは何かと、考える。結果、膨大な、仏教経典が、出来た。
もっと言えば、行うとは、何か。
そして、どのように行うか。
行う時の心は、どうするのだ。
とやれば、キリが無くなる議論になる。

あの、糞暑い、南インドで、竜樹は、暑さのために、頭をやられて、とんでもない、提言をはじめたのである。


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2009年01月19日

もののあわれ 379

おほ后も、参り給はむとするを、中宮の、かく添ひおはするに御心おかれて、おぼしやすらふほどに、おどろおどろしきさまにもおはしまさで、かくれさせ給ひぬ。足を空に、思ひまどふ人多かり。




大后も、参上されようとしたが、中宮が、付きっ切りであり、お出であそばすには、気が進まない。
ためらっている間に、特に苦しむことなく、お隠れあそばした。
足も地につかないほど、途方にくれる人が多いのである。





御位を去らせ給ふといふばかりにこそあれ、世のまつりごとをしづめさせ給へる事も、わが御世の同じことにておはしまいつるを、みかどは、いと若うおはします、おほぢおとど、いときふに、さがなくおはして、その御ままになりなむ世を、「いかならむ」と、上達部殿上人みな思ひなげく。





位を、退かれたとはいえ、世の政治の後見でいられた。在世中と変わらずにあった。
今の陛下は、大変若く、祖父の大臣は、とても気が短くて、非常識である。このままでは、どうなるのかと、上達部や、殿上人たちが、心配し、嘆いている。




中宮大将などは、ましてすぐれて、ものもおぼし分かれず。のちのちの御わざなど孝実仕うまつり給ふさまも、そこらのみこ達にすぐれ給へるを、ことわりながら、いとあはれに世の人も見奉る。ふぢの御ぞにやつれ給へるにつけても、限りなく清らに、心苦しげなり。こぞ今年と、うち続きかかる事を見給ふに、世もいとあぢきなうおぼさるれど、かかるついでにも、まづおぼし立たるる粉とはれど、またさまざまの御ほだし多かり。





中宮や、大将、源氏は、それ以上の嘆きである。
どうしていいのやら、判断がつかない様子。
後々の、ご法事などの、つとめも、多くの御子たちの中でも、優れているゆえに、当然ながら、お気の毒と、世間の人も、拝する。
藤の御装束に、お召し替えされるにつけても、この上なく、清らかで、いたわしい思いがする。
昨年、今年と、続けて、このような事に、遭われると、人の世の、儚さを感じて、こんな時でも、浮かんでくるのは、出家することであるが、一方では、色々気がかりなことも多いのである。

いとあはれに 世の人も見奉る
世の人も、深く同情するのである。
様々な、場面、心境に、あはれ、という言葉が、使われる。





御四十九日までは、女御みやす所たち、みな院につどひ給へりつるを、過ぎぬれば、散り散りにまかで給ふ。十二月の二十日なれば、おほかたの世の中とぢむる空の気色につけても、まして晴るる世なき中宮の御心のうちなり。大后の御心も知り給へれば、心にまかせ給へらむ世の、はしたなく住み憂からむをおぼすよりも、なれ聞え給へる年ごろの御有様を、思ひ出で給はぬ時のまなきに、かくてもおはしますまじう、みなほかほかへと出で給ふほどに、かなしきこと限りなし。




四十九日の、ご法事までは、女御や御息所たちも、みな院に集う。それが過ぎて、散り散りに、退出される。
十二月の二十日なので、年の暮れの陰気さがあり、そうでなくても、空模様を見ると、それ以上に、晴れ間もない、中宮の心である。
大后の心も、知るゆえに、その、心のままになさることになる、今後が、味気なく、住みにくくなるだろうと、思う。更に、それよりも、親しくしていた、長年の院の、有様を、偲び続けて、おいで遊ばすこともなく、皆々、退出される頃、この上もなく、悲しみが、湧いてくるのである。


おほかたの世の中 とぢむる空の気色につけても まして晴るる世なき中宮の御心のうりなり

ただでさえ、年の暮れの陰気な、空模様である。
それを、見るにつけても、晴れることのない、中宮の御心である。

おほかた
院の崩御と、関係なくても、年の暮れの空模様は、陰気なのである。

みなほかほかへと出で給ふほどに、かなしきこと限りなし
姫たちが、それぞれ、里に帰るのである。
院に仕えていたもの達が、帰郷するのが、かなしきこと限りなし、なのである。

中宮とは、藤壺である。

これより、源氏は、不遇の時代に入る。
新しい勢力が、台頭してくるのである。

物語が、次第に、複雑になってゆく。


posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第9弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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