2008年12月27日

もののあわれ 368

少し御声もしづまり給へれば、「ひまおはするにや」とて、宮の御湯もて寄せ給へるに、かきおこされ給ひて、程なく生まれ給ひぬ。「嬉し」とおぼすこと限りなきに、人にかり移し給へる御物の怪ども、ねたがり惑ふ気配いと物騒しうて、後の事又いと心もとなし。




少し、お声も収まり、葵の上は、よいときも、ありますと言う。
母宮が、薬湯を傍に持ってきて、女房に抱き起こされ、間も無く、お生まれになった。
どなたも、嬉しいと、思うことは、この上もないが、霊媒、よりまし、に、乗り移った、物の怪どもが、口惜しいと、うろたえて騒ぐ様子は、大変に騒がしく、後産のことが、また、気がかりである。

人にかり移し給へる御物の怪
霊媒に、移させた、物の怪である。




言ふ限りなき願ども立てさせ給ふけにや、たひらかに事成り果てぬれば、山の座主、何くれやむごとなき僧ども、したり顔に汗おしのごひつつ急ぎまかでぬ。多くの人の心を尽くしたる日頃の名残少しうちやすみて、「今はさりとも」とおぼす。御修法などは、またまた始め添へさせ給へど、先づは、興あり珍しき御かしづきに、皆人ゆるべり。



言い尽くせないほど、色々な願を立てたせいか、無事に後産も終わり、比叡山の座主や、名のある尊い僧たちは、得意げに、汗をふきつつ、急ぎ退出した。
多くの人が、心を砕いて、看病した、幾日のも心労の後、気持ちも少し治まり、両親も、今はさりとも、もうたいしたことは、あるまい、と、思う。
御修法などは、またまた、御始めになるが、さしあたっては、面白く、珍しい、赤ん坊の、お世話をして、皆、心が、緩むのである。




院をはじめ奉りて、親王達上達部残るなき産養どもの、めづらかにいかめしきを、夜ごとに見ののしる。男にてさへおはすれば、その程の作法、にぎははしくめでたし。




上皇をはじめとして、親王方や、上達部が、残らずお贈りになった、産養、うぶやしない、の、ご祝儀の、珍しく、立派な様を、お祝いの夜ごとに、見て騒ぐ。
御子は、男でいらっしゃるので、産養の作法は、賑やかで、立派である。




かの御息所は、かかる御有様を聞き給ひても、ただならず。かねては、いとあやふく聞えしを、「田平かにもはた」とうちおぼしけり。あやしう、我にもあらぬ御心地をおぼし続くるに、御衣などもただ芥子の香にしみかへりたり。あやしさに、御ゆするまいり、御衣着かへなどし給ひて、試み給へど、なほ同じやうにのみあれば、我が身ながらだにうとましうおぼさるるに、まして人の言ひ思はむ事など、人に宣ふべき事ならねば、心ひとつに思し嘆くに、いとど御心がはりもまさり行く。




かの、御息所は、そのような様子を、聞いて、心が安らかではない。
前は、大そう危ういとの、噂だったが、安産とは、と、思う。
不思議だったこと、自分が解らなくなったことを、月々と思い出す。
お召し物なども、すっかり、芥子の香に、沁みている。
それが、不思議で、髪を洗い、お召し物を、着替えてみるが、変わらず、芥子の匂いがする。
自分の体でさえ、厭わしく思われるのに、世間の人が思ったりすることは、どんなことだろうと、人に話すことが出来なく、一人で、嘆いているので、更に、心が、乱れてゆくのである。

芥子の香は、修法の時に、護摩に焚くものである。その匂いが、着物についているというのである。
当時は、このようなことが、頻繁にあったということだ。
平安時代は、陰陽師の活躍した時代でもある。
生霊、死霊、物の怪、魔物など、不可思議な物の存在があったといえる。

人の心が、純粋であれば、こそ、それらの働きが、明確に、見えたのである。

目に見えない世界である。



大将殿は、ここち少しのどめ給ひて、あさましかりし程の問はず語りも、心憂くおぼし出でられつつ、いと程へにけるも心苦しう、又けぢかう見奉らむには、いかにぞや、人の御為いとほしう、よろづにおぼして、御文ばかりぞありける。




大将殿は、気分も、やや落ち着いて、呆れた、あの時の生霊の、語りも、嫌なことと、思い出した。
御息所にも、ご無沙汰したままであるのが、気の毒だったが、親しくお会いすると、さぞ、嫌気を感じるだろうから、それでは、あの方に、悪い気がすると、お手紙だけを、お出しになった。




いたう患らひ給ひし人の、御名残ゆゆしう、心ゆるびなげに誰もおぼしたれば、ことわりにて、御ありきもなし。なほいと悩ましげにのみし給へば、例のさまにてもまだ対面し給はず。若君の、いとゆゆしきまで見え給ふ御有様を、今からいとさまことにもてかしづき聞え給ふさまおろかならず。ことあひたる心地して、大臣も嬉しういみじと思ひ聞え給へるに、ただこの御心地おこたりはて給はぬを、心もとなく思せど「さばかりいみじかりし名残にこそは」と思して、いかでかはさのみは心をも惑はし給はむ。



大変に、患った方の、病後は、大切であり、油断は出来ないと、誰もが、思っているので、源氏も、もっともだと、忍び歩きも、しないのである。
葵の上は、やはり、大そう苦しそうにしているので、源氏は、平素の対面はされないでいる。
若君の、恐ろしいほどに、美しく見える様子は、今から、大事に育てるという思いが強く、並通りではなく、万事に、思い通りになった心地して、左大臣も、嬉しく、ありがたいと、思う。
ただ、姫君の、気分が全快せず、気がかりである。
あれほど、酷かった病後ゆえにと、思い、いかでかはさのみは心をも惑はしむ、とは、作者の言葉である。
どうして、そんなに、深く心配することがあろう、と言うのである。

というのは、作者が、これから起こることを、知っているからである。
そんなに、心配することはないであろう。が、しかし、何か、あるのである。


例のさまにてもまだ対面し給はず
顔と顔を、じかに合わすこと。




posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第9弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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