2008年12月26日

もののあわれ 367

まださるべき程にもあらずと、皆人もたゆみ給へるに、にはかに御気色ありて、悩み給へば、いとどしき御祈り数を尽くしてせさせ給へれど、例のしうねき御物の怪ひとつさらに動かず。やむごとなき験者ども、「珍らかなり」ともて悩む。さすがにいみじう調ぜられて、心苦しげに泣きわびて、姫「少しゆるべ給へや。大将に聞ゆべき事あり」と宣ふ。人々「さればよ。あるやうあらむ」とて、近き御凡帳のもとに入れ奉りたり。むげに限りさまにものし給ふを、「聞え置かまほしき事もおはするにや」とて、おとども宮も少し退き給へり。加持の僧ども声しづめて、法華経を読みたる、いみじう尊し。




まだ、お産には時間があると、誰もが、心緩んでいる時、急に、お産の兆候があり、苦しまれる。
いっそうの、力を込めた、祈祷を大臣家では、させるのである。
しかし、例の、しつこい物の怪は、全然、動かない。
優れた修験者たちも、珍しいことだと、もてあます。
だが、物の怪の方も、さすがに調伏されて、痛々しいほどに、酷く泣き苦しみ、姫の口から、少し、緩めてください。大将に申し上げたいことがありますと、言う。
やはり、何か、訳があるのだ、と、女房達が、思う。
近くの、凡帳の中に、源氏を入れる。
葵の上は、臨終のような様である。
源氏に、申し上げておきたいことがあるのだろうと、左大臣も、母宮も、少し下がっている。
加持の僧たちが、声を低くして、法華経を読むのは、たいそう、貴い感じがする。


生霊が、葵の口を借りて、喋るのである。



御凡帳の帷子引き上げて見奉り給へば、いとをかしげにて、御腹はいみじう高うて臥し給へるさま、よそ人だに見奉らむに心乱れぬべし。まして惜しう悲しうおぼす、ことわりなり。白き御衣に、色あひいとはなやかにて、御髪のいと長うこちたきを、引き結ひてうち添へたるも、「飼うてこそ、らうたげになまめきたる方添ひてをかしかりけれ」と見ゆ。



源氏は、凡帳の帷子を、引き上げて、葵の上を、見る。
大変美しく、御腹が、高く出て、横になっている様は、他人でさえ、見れば、痛ましくて、心乱れるだろう。
まして、夫である、源氏は、この人を失うのかと、惜しく、悲しいことと、思うのは、もっともな事である。
葵の上は、白いお召し物に、色合いが、華やかな様子で、御髪の、たいそう長いのを、たっぷりと、結んである様に、源氏は、このようであってこそ、可憐で、たおやかな美しさがあって、素晴らしいと、思う。



御手をとらへて、源氏「あないみじ。心憂き目を見せ給ふかな」とて、物もえ聞え給はず泣き給へば、例はいとわづらはしくはづかしげなる御まみを、いとたゆげに見上げて、うちまもり聞え給ふに、涙のこぼるるさまを見給ふは、いかがあはれの浅からむ。



源氏は、葵の上の、手を取り、ああ、なんと悲しいことだろう。私に、辛い思いをさせるのですね、と、仰り、あとは、何も言わずに、ただ、泣くのである。
葵の上は、いつも、気まずく、こちらが、恥ずかしくなるほどの、美しい眼差しを、今は、たいそう、だるそうに、見上げる。
源氏を、じっと、見詰めて、涙を流す。
その様子を、見る、源氏は、いかがあはれの浅からむ、とは、作者の言葉である。どうして、あはれの、心が、浅いことがあろうか、である。




あまりいたう泣き給へば、「心苦しき親達をおぼし、またかく見給ふにつけて、口惜しう覚え給ふにや」とおぼして源氏「何事もいとかうなおぼし入れそ。さりともけしうはおはせじ。いかなりとも必ず逢ふせあなれば、対面はありなむ。大臣宮なども、深き契りある中は、めぐりても絶えざなれば、あひ見る程ありなむとおえぼせ」となぐさめ給ふに、姫「いであらずや。身の上のいと苦しきを、しばし休め給へと聞えむとてなむ。かく参り来むともさらに思はぬわ、物思ふ人の魂は、下にあくがるるものになむありける」と、なつかしげに言ひて、


嘆きわび 空に乱るる 我がたまを 結びとどめよ したがひのつま

と宣ふ声、気配、その人にもあらず変り給へり。「いとあやし」とおぼしめぐらすに、ただかの御息所なりけり。




葵の上が、あまり、激しく泣くので、源氏は、葵の上が、気の毒な、両親のことを、思い、また、このような、源氏と我が身の関係を、見るにつけても、残念に思っているのではと、何事も、そんなに酷く思いつめることは、ありません。たとえ、どうなろうと、必ず逢うべき縁のある者、きっと、対面するはずですと、大臣、母宮なども、深い縁で、結ばれているのだから、生まれ変っても、縁は、切れない、また、逢えると、おもって下さいと、慰めると、いえ、そうではありません、私が苦しいので、少し祈祷を、休ませて下さいと、申し上げるためですと、言う。
更に、続けて、葵の上の口から、ここに、こうして、参上しようと思ってはいませんが、物思いする人の魂は、なるほど、体から、さ迷い出るものです、と、懐かしく言うのである。


嘆きのあまりに、空にさ迷い出て、迷う私の魂を、したがいのつま、下前の、褄、着物の裾である、その裾を、結んで、元に戻してください。

と言う。
その気配、雰囲気は、葵の上ではなく、変わっている。
いとあやし、と、源氏は、色々と、考える。
その声や、様子は、まさに、御息所である。


あさましう、人のとかく言ふを、「よからぬ者どもの言ひ出づる事と、聞きにくくおぼして宣ひけつを、目に見す見す、世にはかかる事こそありけれ」と、うとましうなりぬ。「あな心憂」とおぼされて、源氏「かく宣へど誰とこそ知らね。確かに宣へ」と、宣へば、ただそれなる御有様に、あさましとは世の常なり。人々近う参るも、かたはらいたうおぼさる。




驚くべき、ことである。
人が、御息所の、生霊などと、あれこれ言うのを、つまらぬことを、と、思っていた。
源氏は、それを、不快に思い、否定していた。
しかし、目の前に、それを、見て、世の中には、こんなことがあるのかと、不気味に思うのである。
あな心憂、と、思う。
源氏は、そう仰るが、誰なのかが、解りません。はっきりと、名を仰ってくださいと、言うと、全く、御息所の様子であり、あさましとは世の常なり、驚愕するのである。
女房達が、近くに来るのも、きわりが悪いと、思われるのである。


葵の上の、口から、出た言葉は、御息所が話す言葉であった。
文学では、これを、解決出来ない。
葵の上の、潜在意識のゆえである。それは、御息所に対する気持ちが、そうさせる。という、解説が、限界である。

紫式部は、当時、このような、状態を、多々見たはずである。
生霊が、懸って、その人の口から、話し出すという状態である。

これは、死霊の場合もある。

人には、まだ解決出来ない、不思議な世界が、あるのである。

当時の人は、より、自然に近い暮らしをしている。
顕在意識も、潜在意識も、導通することが、多くあったはずである。

潜在意識は、草木にまでも、通じる意識であり、勿論、人の心にも、通じるのである。
生霊とは、人の潜在意識のあり様である。




posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第9弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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