2008年12月25日

もののあわれ 366

大殿には、御物の怪いたう起りて、いみじう患らひ給ふ。「この御生霊、故父大臣の御霊などいふものあり」と、聞き給ふにつけて、思し続くれば、物思ひにあくがるなる魂は、さもやあらむ」とおぼし知らるる事もあり。年頃、よろづに思ひ残す事なく過ぐしつれど、かうしも砕けぬを、はかなき事の折に、人の思ひ消ち、なきものにもてなすさまなりしみそぎの後、ひとふしに思し浮かれにし心、しづまり難うおぼさるるけにや、少しうちまどろみ給ふ夢には、かの姫君とおぼしき人の、いち清らにてある所にいきて、とかく引きまさぐり、うつつにも似ず、たけくいかきひたぶる心出できて、うちかなぐるなど見え給ふこと、度重なりにけり。




おほい殿には、御物の怪が、沢山現れて、病状が酷く悪いのである。
つまり、葵の上のことである。
御息所は、この人の生霊だの、つまり、御息所の生霊だの、故父大臣の御霊だという者がいると、聞いて、色々と考えてみるに、物思いに、あくがるなる魂は、と、我が身の不運を嘆く以外に、人を不幸にすると、思う気持ちは無いが、物思いのゆえに、体から、さ迷い出るという魂は、そういうこともあるものだと、思い当たる節がある。
年頃、御息所は、この何年間の間、あらゆる物思いを、過してきた。
しかし、これほどまでに、気持ちが、揺れることはなかった。
それなのに、あの、些細な、車争いのことで、あの人、葵の上が、自分を物とも思わず、無視する態度であったこと、その、みぞきの日以来、不安定な気持ちが、更に、激しくなり、なかなか落ち着くことなく、少し、うとうとするときの、夢などに、あの姫君、葵の上と、思われる人が、たいそう清潔にしている所へ自分が、出向いて、あれこれと、引っ張りまわし、普段とは、全く違い、恐ろしく、荒々しい気持ちで、乱暴に、揺さぶったりするのを、幾度も、見ている心地がするのである。





「あな心憂や。げに身を捨ててやいにけむ」と、うつし故頃ならず覚え給ふ折々もあれば、さならぬことだに、人の御ためには、よさまのことをしも言ひ出でぬ世なれば、「ましてこれはいとよう言ひなしつべきたよりなり」とおぼすに、いと名だたしう、「ひたすら世になくなりて後に恨み残すは、世の常の事なり。それだに人の上にては、罪深うゆゆしきを、うつつの我が身ながら、さるうとましき事を言ひつけらるる、すくせの憂きこと。すべてつれなき人にいかで心もかけ聞えじ」とおぼしかへせど、思ふも物をなり。




ああ、嫌なことである。
なるほどに、やはり、魂が、抜けて、葵の上の、所に出ていったのだろうか。
自分の心を、生気でないと、思うことが、幾度もあったので、それほどのことでなくても、身分ある人に関しては、世間というものは、良いことを言わないものである。
まして、このことが、私の、仕業だと、噂を立てられるのは、格好のことである。
そう思うと、今にも、それが、広まるような気持ちになる。
御息所は、ひたすら、一途に、この世を去った後に、怨みを残すことは、よくあること。
それでさえ、人事としても、そのような、いとわしいことを、噂されるのは、我が身の、前世の、定められた、運命の辛いこと。
もう一切、つれない、あの方、源氏の君に、どうかして、思いをかけないように、なりたいものだと、決心するのであるが、思うまいと、思うことも、思っている証拠なのである。

最後の、箇所は、作者の考えである。
思ふもものを、なり
と、付け加える。
思はじと 思ふも物を 思ふなり
思うことを、やめようと思うことも、思っていることだ、と、当時の、流行の歌詠みの、一節である。




斎宮は、こぞうちに入り給ふべかりしを、さまざまさはることありて、この秋入り給ふ。九月には、やがて野の宮にうつろひ給ふべければ、再び御祓へのいそぎ、取り重ねてあるべきに、ただあやしうほけほけしうて、つくづくとふし悩み給ふを、宮人いみじき大事にて、御祈りなどさまざまつかうまつる。おどろおどろしきさまにはあらず、そこはかとなくて、月日を過ぐし給ふ。大将殿も、常にとぶらひ聞え給へど、まさる方のいたう患ひ給へば、御心のいとまなげなり。



斎宮は、昨年、御所にお入りになる予定だったが、色々な、差しさわりがあり、この秋に、入られる。
九月には、すぐに、野の宮に、移られるはずであるから、二度目の、みそぎの、準備が、重ねてあるべきだったが、御息所は、ぼんやりとして、寝込んで、苦しんでいるために、斎宮の、仕え人は、重大事として、祈祷などを、執り行うのである。
重態というわけではないが、どことなく、不調のままに、月日を過す。
大将殿、つまり、源氏も、お見舞い申し上げるが、それより、いっそう大事な方が、重く患っているのであるから、心の、休まる暇も無いのである。


少し、霊学から、説明する。
文学として、理解する場合は、御息所の、異常心理ということで、済ませているが、それ以外の、解釈の仕様が無いのである。

死霊、生霊というものが、有る、存在するものとして、個々で扱う。

生霊とは、肉体から、霊体が、抜け出て、相手に、関わることである。
それは、良い場合のこともあり、悪い場合のこともある。

良いというのは、恋愛などで、相手を思うあまりに、生霊が、憑くということである。その場合も、両者に、不調が、起こる。
ただし、恋愛成就すると、それは、収まる。

しかし、怨み、辛みの場合は、困難が伴う。両者共に、不調に陥る。
人を、呪はば穴二つという、諺は、そういう意味である。

怨み、呪いの思いが、霊と、なって相手方に、憑依するのである。
すると、憑依された者は、原因不明の、不調を起こし、具合が悪く、吐いたり、下痢をしたの、果ては、精神不安定に陥る。
一方、憑依した方も、同じように、不調に陥るのである。

例えば、憑依され方が、霊的に、強い体質、つまり、跳ね返す力が、強い場合は、相手方、憑依した者が、更に、苦しむということもある。

そして、憑依した者が、自分が、憑依していると、気づかないことが、多い。
嫉妬の感情の場合などが、そうである。

清め祓いという、日本の伝統行為には、そのようなことに、対処する方法も、ある。
言霊による、祓い清めである。

それは、職業神主にお願いすることはない。
自分で、出来ることである。

古神道の、方法は、それぞれの、地域に伝統行事として、残り、村の主などが、それを、行った。また、今でも、行っている地域もある。

平安期は、主に、加持祈祷によるものが多かった。
それは、宮中においてなされた。

また、このことに、触れることになると、思う。



posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第9弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。