2008年12月24日

もののあわれ365

かかる御物思ひの乱れに、御心地なほ、例ならずのみおぼさるれば、ほかに渡り給ひて、御修法などさせ給ふ。大将殿聞き給ひて、「いかなる御ここちにか」と、いとほしう、おぼし起して渡り給へり。



御息所は、物思いに、沈み、気分がすぐれずにいる。
住まいを変えて、祈祷などさせている。
大将、つまり、源氏は、それを聞いて、どういう容態かと、愛しく思い、進まぬ気持ちであるが、お出かけになった。

おぼし起こして渡り
何とか、力を出して、出掛けた、のである。

御息所の、悩みは、源氏の正妻への、嫉妬心である。
それに、煩悶しているのである。





例ならぬ旅所なれば、いたう忍び給ふ。心よりほかなる怠りなど、罪許されぬべく聞え続け給ふ。源氏「自らはさしも思ひ入れ侍らねど、親達のいとことごとしう思ひ惑はるるが心苦しさに、かかる程を見過ぐさむとてなむ。よろづを思しのどめたる御心ならば、いと嬉しうなむ」など、語らひ聞え給ふ。常よりも心苦しげなる御気色を、ことわりに、あはれに見奉り給ふ。




いつもと、違う仮の住まいなので、君は、忍びで、行かれる。
心ならぬ、ご無沙汰であるから、その、罪も許されるようにと、うまくお詫びの言葉を言うのである。
正妻の病状などにも、困っている旨を言う。
私は、それほどに、深く案じていませんが、親たちが、大変ご心配しているのが、気の毒です。こういう時は、傍についていようと思い、つい、ご無沙汰してしまいました。と、源氏が言う。
御息所も、いつもより、痛々しい様子を、気の毒と思い、お見舞いを申し上げる。

旅所
いつもと、違う場所に出掛ける時に、使う、言い方。





うちとけぬ朝ぼらけに出で給ふ御さまのをかしきにも、なほふり離れなむ事は、おぼしかへさる。やむごとなき方に、いとど志添ひ給ふべき事も出で来にたれば、一つ方におぼししづまり給ひなむを、かやうに待ち聞えつつあらむも、心のみ尽きぬべきこと、なかなか物思ひの驚かさるるここちし給ふに、御文ばかりぞ暮れつ方ある。
源氏文
日頃少しおこたるさまなりつるここちの、にはかにいといたう苦しげに侍るを、え引きよがでなむ
とあるを、例のことつけと見給ふものから、

御息所
袖ぬるる 恋路とかつは 知りながら おりたつ田子の みづからぞ憂き

山の井の水もことわりに」とぞある。御手は「なほここらの人の中にはすぐれたりかし」と見給ひつつ、「いかにぞやある世かな。心もかたちも、とりどりに捨つベくもなく、又思ひ定むべきもなきを」苦しうおぼさる。御返り、いと暗うなりにたれど、
源氏
袖のみ濡るるやいかに。深からぬ御ことになむ。
あさみにや 人はおりたつ 我が方は 身もそぼつまで 深き恋路を

おぼろげにてや、この御返りを自ら聞えさせぬ」などあり。




互いに、打ち解けぬままに、夜を明かした。
朝早く、帰る、その姿の美しさを見て、やはり、振り捨てて、遠くに行くことは、出来ないと、思い直す。
身分の高い方、つまり、源氏の正妻に、いっそう愛情が勝る、出産を控えて、本来なら、そちらに、心を落ち着けるべきだろうに、このように、お出でを待つというのは、気がもめることだと、御息所は、新たに、物思いにふけるのである。
そんな夕方、お手紙が届いた。

源氏
この頃、少しよかった病人の気分が、急に酷くなり、苦しそうです。手を施しかねています。

と、あるのを、いつものことと、思いつつも、お返しは、

御息所
物思いに、袖の濡れる、恋の道とは、知りながら、その泥沼に、自ら入るという、我が身が、辛く思います。

山の井の水のように、浅い愛情の方には、涙で袖が濡れるばかりとのことは、本当でした、と、書いてある。
筆跡は、矢張り、多くの人の中でも、優れていると、思いつつ見るのである。
一生の相手は、見つからないものだ。心も、姿も、それぞれであり、問題にならないものはなく、さればとて、この人こそと、思い定めるものもないと、苦しく、源氏は、思う。
お返しは、日も暗くなってから、

源氏
袖だけが、濡れるというのは、どういうことでしょう。お心が、深くないからです。

浅いところに、あなたは、下りているのでしょうか。私の方は、全身濡れるほど、深い恋路の泥沼の中にいます。

この返事を、そちらに出向いて、申し上げないのを、よほどのことと、思ってください、などと、書いてある。


山の井の水
悔しくぞ 汲みそめてける 浅ければ 袖のみぬるる 山の井の水
山の井の水は、浅いので、汲んでも、袖を濡らすばかり。
その、山の井の水のように、底の浅い相手の心の、あり様も確かめずに、たまたまに、出会ってしまったことが、悔やまれて、涙で、袖が濡れるばかりだ。

源氏の思いと、御息所の、思いが、噛み合わない。
嫉妬に、迷える女の心に、源氏は、一種の諦めを、御息所は、源氏の帰る、後姿に、執着を、感じるのである。

いつの世も、男と女は、こうして、演じてきたのである。
一夫一婦制という、結婚生活でも、女と男の、やり取りは、変わりなくある。

この、揺れ動く、心の綾もまた、もののあはれ、なのである。

そして、更に、その、もののあはれ、に、身を任せるという男と女の姿に、作者は、共感する。
つまり、男と女は、そういうものであるという、諦観である。

これを、迷いであるとして、そこから、逃れる道を、捜し求めているのではない。その、風景の中に、身を入れるしか、生きる方法が無いというのである。
更に、紫式部は、それで、良いとしている。

だから、こそ、紫式部は、延々と、物語を書き続けた。
それは、終わらない物語なのである。
人の一生が、書かれるが、また、次の人も、同じようにして、生きるのであり、この物語は、延々として、未来永劫続く物語なのである。

それを、もののあはれ、として、描くのである。
そして、人は、この、もののあはれ、から、逃れることはない。
もののあはれ、を、生きることで、生きているのである。

そこに、生きることのすべが、内包されてあるのだから、何も、それから、逃れるとか、捨てるとか、考えなくてもよいのである。
人間とは、そういう者である。
人生とは、生きてきた人の、生き方の、繰り返しなのである。




posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第9弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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