2008年12月23日

神仏は妄想である 189

釈尊が阿含経などの小乗教において強調したことは、人間の苦悩の原因はもろもろの執着にあるということであり、それゆえ苦悩を脱却するには、いっさいの執着を断ち切る以外にはないということでした。
その根拠として、諸行無常、諸法無我などの法を説いたのです。諸行無常とは、すべのものは時間の経過とともに徐々に変化し、いつまでもそのまま止まっていないという法であり、諸法無我とはすべてのものは相互に関係しあって存在しているゆえに、人間の目に確かなものとして映るものはすべて仮の存在にすぎないことを説いた法です。
創価学会 妙法蓮華経方便品第二の解説

日蓮宗、及び日蓮正宗も、同じである。

しかしよく考えると、人間からいっさいの執着がなくなったら、はたして人間らしい味のある人生を送ることができるでしょうか。生活に、仕事に、家庭に、趣味に執着があればこそ人は行き続けることができるのです。
そのように考えれば、釈尊の阿含経の教えは、一歩間違えば人間否定、人間の生きる意味の抹殺にもなりかねません。
と、続ける。

更に、
現実に、阿含経の教えをそのまま実践した声聞、縁覚の二乗たちは、人里離れた人間味のまったくない山林で二百五十戒、五百戒などと呼吸ひとつ満足にできない戒律を設けて、自身を束縛したものですから、悟りはおろか、みな、枯木のようにやせ衰え、辛うじて己が生命を維持するに精一杯の状態であったのです。それは二乗たちが、阿含経を釈尊の方便の教えであるとこを理解できず、真実の教えと錯覚したからです。

二乗というのは、小乗である。
大乗仏典は、徹底的に、二乗、つまり、小乗の人々を馬鹿にして、更に、貶めて、経典を、創作した。

真意は一乗に導くところにあったことは、方便品の説法で示されるのです。

つまり、一乗とは、大乗である。
説法が示されるというが、釈尊、釈迦仏陀が、説法したのではない。
作者が、そのように、創作したのである。

後で、大乗仏典の、歴史的成立過程を見る。

さて、この本文を、私たちの立場で読むと、まず「吾成仏してより巳来」の「吾」は、いうまでもなく日蓮大聖人、すなわち人法一箇の御本尊をさし、「巳来」とは久遠元初巳来、すなわち無始無終をさすのです。

したがって、本文の意味を文底から述べると、末法の御本仏日蓮大聖人は、無始無終の久遠元初から、種々の因縁、種々の比喩をもって広く言教を演べ、無数の方便を説いてきたのです。

更に、進めて、読むと、結果的に、
ここに、釈尊の仏法と日蓮大聖人の仏法との根本的違いがあるのです。
と、なる。

日蓮宗系は、皆、そのように考えるのである。
すべて、大乗仏典からの、焼き写しであり、勝手な解釈、勝手な思い込みである。

日蓮が、辿り付いた地点は、日蓮の、強迫性人格障害、妄想症による、苦悩であり、それを、何とか、法華経から、引き出して、文底というような、創作を行わなければならなかったことである。

弟子たちが、どんどんと、御本尊を布教し、更に、寺、伽藍を創り、新興宗教系は、建物を創り続けたのも、執着を良く生かしたのであろう。
その凄まじい執着は、甚だしいものである。
信徒、会員から、金を引き上げて、組織を拡大し、更に、金を引き上げて、膨らませているのである。

釈迦仏陀の、仏法と、日蓮の仏法の、根本的違いであるという、妄語には、呆れる。

大乗教は、大半が、日本にしか残っていない。
その、日本仏教の、僧たちの、生き方と、それでは、小乗が伝えられた、ビルマ、タイ、ラオス、ベトナム、台湾などの、仏教の僧たちと、比べてみるとよい。
どちらが、釈迦仏陀の、教えを実行、実践しているかである。

堕落は、共にあるが、小乗の僧たちの方が、実に真っ当である。
つまり、釈迦仏陀の仏法が、生きている。
大乗の、日本仏教は、世俗まみれである。

更に、である、日本仏教の僧たちは、職業としての、僧職であり、宗教ではない。宗教的でもない。
葬式を主にする、職業である。

釈迦仏陀の、出家というものからは、遥かに遠い。

更に、驚くべきことは、知見波羅密という、迷いの此岸から、さとりの彼岸に到達した状態を意味する言葉、更に、そのための、修行法である、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の、六つの六波羅密というものを、題目、御本尊のみで、クリアーできると、教えた、日蓮の狂いは、計り知れない。

日蓮のことを、如来として、認識するという、仰天であるから、手がつけられないのである。

真の方便の智慧と、本仏としての知見波羅密とをことごとく具足しているのが、日蓮であるというのだ。

更に、大きな誤りは、大乗仏典の、釈尊を持ち出して、釈尊の説法であるという、甚だしい勘違いである。
鎌倉時代ではない。
もう、大乗仏典が、いかにして、書かれたかということが、明確に、解っているのである。

日蓮の、時代ならば、それが、真実であるという、認識だったが、現代、そんな認識は無い。

ハリーポッターと、同じように、創作なのであるという、事実である。

釈迦仏陀は、人は行為によって、成るといった。
見て見よ、日本の仏教愛好者の、面々の姿を。

江戸三代将軍、家光の政策による、檀家制という、既得権益に、浸り、のうのうとして、仏の教えなるものを、説いているが、一切の行為は無いに、等しい。

人を見たら、奪うことばかりを考えている、僧という存在に、仏の教えというものは、皆無である。

もし、清く正しく、生きている。また、修行を続けて、世のため、人のためにと、思い込んでいる、僧侶がいたならば言う。
世の中の、最低の人間である。

人間の、尊さは、蒔いて、刈り取り、漁をしている人、そして、物を作り出す人である。
そのほかは、在っても無くてもいい。
その下の下に、僧侶というものがある。

つまり、僧侶とは、恥ずかしい存在であるということだ。
しかし、彼らは、恥ずかしいという、感性さえも皆無なのである。つまり、救いようが無い者である。
最も、迷う者、である。

人間は、黙っていても、死ぬ。
宗教の妄想がなくても、死ぬ。
死ねば、霊になる。
ただ、それだけのことである。

存在に、救いなどというものは、無い。
存在していること、それが、救いという言葉を、使いたいのなら、そのように言う。

救いようのない者に、救われたと信じる信者は、本当に、哀れである。
これを、あはれ、という。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第4弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

もののあわれ364

御息所は、物をおぼし乱るること、年頃よりも多く添ひにけり。つらき方に思ひ果て給へど、今はとてふり離れ下り給ひなむは、いと心細かりぬべく、世の人聞きも人笑へにならむ事とおぼす。さりとて、立ち止まるべくおぼしなるには、かくこよなきさまに、皆思ひくたすべかめるも安からず。「釣するあまのうけなれや」と、起き臥しおぼしわづらふけにや、御ここちも浮きたるやうにおぼされて、悩ましうし給ふ。




御息所は、あれこれと、物思いすることが、いつもより、多くなった。
つらき方に思ひ果て給へど、君の、仕打ちは、実につれないものだったと、今は、諦めて、もうこれっきりと、伊勢へ下るというのは、心細いことだし、世間の物笑いの種になると、思う。
しかし、都に、居残るという気持ちになるとしては、こんな酷いほど、誰もが、馬鹿にしているような気もするのである。
私は、漁師が釣りをする時の、ウキのように、心が揺れ動くと、寝ても醒めても、思案に暮れる。そして、気持ちが、どこかに浮いているような、気分で、具合が悪いのである。

釣するあまのうけなれや
古今集
伊勢の海に つりするあまの うけなれや 心一つを 定めかねつる
うけ、は、ウキのことである。
揺れ動く、ウキである。



大将には、下り給はむ事を、「もて離れて、あるまじき事」など防げ聞え給はず。源氏「数ならぬ身を、見まうくおぼし捨てむもことわりなれど、今はなほ言ふかひなきにても、御覧じ果てむや、浅からぬにはあらむ」と、聞えかかづらひ給へば、「定めかね給へる御心もや慰む」と、立ち出で給へりし御禊河の荒かりし瀬に、いとど、よろづいと憂くおぼしいれたり。




大将、つまり、源氏は、伊勢に下るということを、構いもせずに、それを止めることもしないで、人並みではない私を、見るのも嫌だと、見棄てるのも、もっともなこと。
今になっては、つまらぬ私でも、見限らないでいてくださるのが、浅からぬ愛情でしょうと、言いにくいような、言い様である。
決断のつかなかった、心も、紛れるかもしれないと、お出でになった、御みそぎの日の、荒々しい事件のため、いっそう、何事も、恨めしく思うのであった。



大殿には、御物の怪めきていたう患ひ給へば、誰も誰もおぼし嘆くに、御ありきなどびんなき頃なれば、二条の院にも時々ぞ渡り給ふ。さはいへど、やむごとなき方は異に思ひ聞え給へる人の、珍しき事さへ添ひ給へる御悩みなれば、心苦しう思し嘆きて、御修法や何やなど、我が御方にて多く行はせ給ふ。




大臣家では、物の怪らしく、酷い苦しみの様子である。
どなたも、どなたも、心痛している折り、君も、忍び歩きなど悪いことであると、二条の院にも、たまに、お越しになるだけである。
何と言っても、大切にするということでは、格別に思っている方が、おめでたまで、加わっているのに、尋常ではない様子。
君は、どうなるのかと、心配になり、ご祈祷や、何やかにと、ご自分の部屋で、色々と行わせる。



物の怪、生霊などいふもの多く出で来て、さまざまの名のりする中に、人にさらに移らず、ただ自らの御身につと添ひたるさまにて、ことにおどろおどろしうわづらはし聞ゆる事もなけれど、又片時離るる折もなきもの一つあり。いみじき験者どもに従はず、しうねき気色、「おぼろげの物にあらず」と見えたり。大将の君の御通ひ所、「ここかしこ」とおぼしあつるに、「この御息所、二条の君などばかりこそは、おしなべてのさまにはおぼしたらざめれば、恨みの心も深からめ」と、ささめきて、物など問はせ給へど、さして聞えあつることもなし。



物の怪、生霊、いきりょう、などというものが、沢山出てきて、色々と名乗り出る中に、霊媒の口から、どうして、名乗らずに、ただ、体に、じっと憑いたモノがある。
特別に、酷く苦しめることはないが、それではと、思うと、少しの間も、離れる時、とてつもないものが、一つある。
優れた、験者、げんざ、たちの、祈祷も、効かず、しつこい様子は、一通りのモノではないと、思われた。
大将の君の、恋人達を、一人一人考えて、周囲の人は、御息所と、二条の君は、並々の気持ちではないので、姫君への、恨みも、強いでしょうと、囁き合うので、占い師に、尋ねさせるが、これぞと、申し当てることもない。

二条の君とは、若紫、若草の君である。

名のりする
よりまし、と言い、童女などに、霊を懸らせて、霊に問うのである。


物の怪とても、わざと深き御敵と聞ゆるもなし。すぎにける御乳母だつ人、もしは親の御方につけつつ伝はりたるものの、弱目に出で来たるなど、むねむねしからずぞ乱れ現はるる。ただつくづくと音をのみ泣き給ひて、折々は胸をせきあげつつ、いみじう堪へがたげに惑ふわざをし給へば、「いかにおはすべきにか」と、ゆゆしう、悲しく思しあわてたり。




物の怪といっても、格別に深い敵と、名乗り出ることはない。
亡くなった、乳母のような人とか、姫君の、親の家系の方の、代々の死霊が、弱みに付け込んで、来たのなど、主に、祟るのは、ばらばらに、出て来る。
姫君は、ただ、さめざめと、声を上げて、泣くばかりである。
時々、胸を詰まらせ、とても辛そうに、苦しみ、どうなるのか、と、不安でもあり、悲しくもあり、源氏は、狼狽した。



院よりも御とぶらひ暇なく、御祈りのことまで思し寄らせ給ふさまのかたじけなきにつけても、いとど惜しげなる人の御身なり。



桐壺院からも、お見舞いが、しきりにあり、ご祈祷のことなど、お心に掛けてくださるのも、もったいなく、このまま、亡くなるのではと、いっそう、惜しく思われる、姫君の、御身である。

桐壺院は、上皇であり、源氏の父。


世の中あまねく惜しみ聞ゆるを聞き給ふにも、御息所はただならず思さる。年頃は、いとかくしもあらざりし御いどみ心を、はかなかりし所の車争ひに、人の御心の動きにけるを、かの殿には、さまでも思し寄らざりけり。



世の中が、あまねく、命を惜しむのを、聞かれるにつけても、御息所は、妬ましくてならない。
これまでは、これほどまででなかったのだが、競争心が、あの、車争いのために、恨みの念に変わったのを、左大臣の邸では、それほどまでとは、考えなかったのである。


いと かくしも あらざりし 御いどみ 心を
これほどまでとは、思わなかった、対抗心である。

はかなかりし 所の 車争ひに
ふっとしたはずみの、所での、車争い、である。

それが、御息所の、心を苦しめ、更には、生霊として、姫君に、憑依するという、状態になるのである。
だが、御息所も、自分が、そうしていることを、知らない。

霊学から、見れば、十分に有り得ることである。
死霊よりも、生霊の方が、激しい力を持つ。

両者共に、まだ、御息所の、生霊だとは、知らないのである。


posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第9弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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