2008年12月22日

神仏は妄想である 188

原始仏教の団体を、サンガと称する。
サンガとは、政治的には、共和制体制であり、経済的には、組合である。

出家した、男性は、比丘、女性は、比丘尼、在家信者の男性は、優婆塞、うばそく、女性は、優婆夷、うばいと、称した。
勿論、中心は、出家者である。

ゴータマは、出家の清い自由な生活を賛美した。
在家の愛欲の生活から、離れ、独身となり、人里はなれた、大樹の下、塚の間に坐し、または、山々の洞窟に住み、静かに禅定を楽しむ。
衣服として、三衣、さんね、をまとうだけである。
飲食物、衣服を獲得して、貯蔵することを、禁じた。執着を起こすことのないようにである。

他者に対する態度は、尊重する、軽視しない、争わない、怨まない。

実にこの世において怨みにむくいるに怨みをもってしたならば、ついに怨みのやむことなし。怨みをすててこそやむ。これは永遠不変の法である。

一切の衆生に対して、慈悲の行為を、強調した。

一切の生きとし生けるものに対しても無量の慈しみのこころを起こすべし。

こういう修行を実践した修行僧は煩悩を滅ぼしつくし、憂をはなれ、心は静寂に帰し、この世をも来世をも願うことがない。
中村元

この世も、来世も、願うことなしというのである。
要するに、生まれてこなくても、いいのである。
生まれてきたことが、苦しみの元なのである。

人々は、互いに、助け合って生きるべきである。

曠野の旅の道連れのごとく、とぼしきなかよりわかち与うる人は、死せるもののあいだにあって滅びず。これは永遠の法である。

更に、階級的区別に反対し、人間平等を掲げる。

世に名とし姓として挙げられるものは、ただことばにすぎず

仏教団体は、共和制政治を、模したものであった。

史実としての、仏教教団の、あり様である。

これで、解る通り、生き方指導である。
そこには、妄想は無い。

更に、それは、ゴータマという人間にとって、必要な、生き方であったということである。

愛欲の生活から、離れない生き方もある。
インドでは、愛欲の充実を、計る、カーマスートラ、ラティマンジャリー、アナンガランガ、ラティラハスヤという、四つの、代表的な、性愛の手引書がある。

愛欲から離れる生活を、清い生活であるとは、一つの観念である。
性愛という、生き方もある。

ただし、それにも、捕らわれないことだという、説が、出るのだが。
要するに、性愛を、徹底的に楽しむが、それにも、捕らわれないのである。

20世紀にも、インドから、性愛を元にした、悟りの教えが、ピッピーを通して、アメリカ、そして世界に広がったことがある。
勿論、それ以前からも、ある。

煩悩即菩提という、へんてこりんな言葉遊びで、性愛肯定する、仏典の創作もある。

理趣経という、真言密教の、経典にも、ある。

初期、仏教の、有様を、見れば、ゴータマ・ブッダという、人間が観た、人生が、そのようであったということである。

超越した何者かを、置くのではなく、己の心に、焦点をあてて、心の平安を、説いたのである。
その言葉の多くは、インドの言葉の世界による。

彼らが、拝んだものは、仏、法、僧、である。
仏になった人、そして、法という、ダルマ、普遍的事実、そして、修行する僧である。

インド思想史を、俯瞰しつつ、法華経、更に、大乗仏典というものを、見詰めてゆくと、それらが、歴史的事実から、離れたものではないということが、分かる。
つまり、人間の生活の、文化的水準に合わせ、更に、複雑な言葉の、成り立ちにより、言語化されてゆくという、ゴータマの考え方である。

それが、記録されるという、自体になり、更に、教えが、飛躍したものになってゆくのである。

人間の創造力であり、妄想力である。

自然の中で生きていた頃の、人間と違う有様が、見えてくる。
それは、都市化である。
都市化が、人間の精神を、複雑なものに、仕立て上げる。

自然を、凌駕したかに見える時代に入ると、俄然、人間の創造力は、妄想力は、威力を発揮する。

イメージを、言語化することで、無いものが、在るもののごとくに、なってゆくのである。

精神を作るものは、言葉である。
他人に話せば、語りになり、己の中で、行えば、思考、思索になる。
言葉の世界のあり様が、精神のあり様となる。

複雑な精神は、複雑な言葉を生む。

更に、言葉が、独り歩きして、言葉による、教化がはじまる。それが、宗教である。
人間の精神活動の一つである。
すべてではない。

何にも、捕らわれてはいけないというならば、それらの言葉にも、捕らわれてはならないのである。

実は、人生を苦、として観た仏陀は、人間の大脳化、大脳の進化によるものだとは、気づかなかった。

大脳の進化が、苦と感じる根本だということである。
しかし、進化を否定することは、出来ない。
後戻り出来ないほど、人間の脳は、進化したのである。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第4弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

もののあわれ363

今日は、二条の院に離れおはして、祭見に出で給ふ。西の対に渡り給ひて、惟光に車のこと仰せたり。源氏「女房、出で立つや」と宣ひて、姫君のいと美しげにつくろひたてておはするを、うち笑みて見奉り給ふ。源氏「君は、いざ給へ。もろともに見むよ」とて、御髪の常よりも清らに見ゆるを、かき撫で給ひて、源氏「久しうそぎ給はざめるを、今日はよき日ならむかし」とて、暦の博士召して、時間はせなどし給ふ程に、源氏「先づ女房でね」とて、童の姿どもの、をかしげなるを御覧ず。いとらうたげなる髪どものすそ、はなやかにそぎわたして、浮紋の表の袴にかかれる程、けざやかにみ。源氏「君の御髪は、我そがむ」と、そぎわづらひ給ふ。源氏「いと長き人も、額髪は少し短うぞあめるを、むげに後れたる筋のなきや、あまり情なからむ」とて、そぎ果てて、源氏「千尋」と、祝ひ聞え給ふを、少納言、「あはれにかたじけなし」と、見奉る。




今日、源氏は、二条の院の、離れにおいでになり、祭り見物に、出掛ける。
西の対に、渡りになり、惟光に、車の用意を命じた。
源氏は、女房たちは、出掛けますよ、と、仰り、姫君の、とても可愛いげに着飾るのを、微笑んで、御覧になる。
源氏は、姫君に、さあ、いらっしゃい。一緒に見ようと、言い、いつもより、美しく見える髪を撫でた。
源氏は、長い間、髪を切っていないようだが、今日は吉日だろうと、暦博士を呼ばれ、時の良し悪しを、調べさせる。
その間に、源氏は、まず、女房たちが、出なさいと、童女たちの、美しい姿を、御覧になる。
とても可愛らしい髪のすそを、誰も彼も、華やかに切り揃えて、浮紋の表の袴に、垂れている具合が、くっきりと、鮮やかに見える。
源氏は、姫君に、あなたの、御髪は、私が切ろうと、言う。
そして、随分と沢山だ。これからも、どんどんと、伸びてゆくのだろう、と、切りにくい様子である。
酷く長い人でも、額の髪は、少し短い様子。全く後れ毛のないのは、あまり風情が無いと、仰りつつも、源氏が、切り終わる。
千尋までも、と、源氏が、お祝いを、申し上げるのを、少納言は、しみじみと、嬉しく、もったいないことと、拝する。

少納言とは、姫君、紫の君の、付き人である。




源氏
はかりなき 千尋の底の 海松ぶさの 生ひゆく末は 我のみぞ見む

はかりなき ちひろのそこの みるぶさの おひゆくすえは われのみぞみむ

と、聞え給へば、

姫君
千尋とも いかでか知らむ 定めなく 満ちひる潮の のどけからぬに

と物に書きつけておはするさま、らうらうじきものから、若うをかしきを、「めでたし」と、おぼす。





源氏
計り知れない、千尋もある、海の底の、海松房、みるぶさ、のように、ふさふさとした、あなたの髪が伸びてゆく。
と、申し上げると、

姫君
海の深さが、千尋もあると、どうして、お解りですか。定めなく、満ちたり、退いたりする潮は、あなたを、じっと見ているかもしれません。
と、紙に書き付けている様子は、器用である。が、子供ぽく、美しいので、源氏は、可愛らしいと、思うのである。




今日も、所なく立ちにけり。馬場のおとどの程に、立てわづらひて、上達部の車ども多くて、源氏「物騒がしげなるわたりかな」と、やすらひ給ふに、よろしき女車の、いたう乗りこぼれたるより、扇をさし出でて、人を招き寄せて、女車「ここにやは立たせ給はぬ。所さり聞えたり。「いかなるすきものならむ」と、おぼされて、所もげによきわたりなれば、引き寄せさせ給ひて、源氏「いかで得給へる所ぞ、と、ねたさになむ」と、宣へば、由ある扇のつまを折りて、

女車
はかなしや 人のかざせる あふひゆえ 神の許しの けふを待ちける

注連の内には」とある手をおぼしいづれば、かの内侍のすけなりけり。あさましう、「ふりがたくも今めくかな」と、にくさに、はしたなう、

源氏
かざしける 心ぞあだに おもほゆる 八十氏人に なべてあふひを
かざしける こころぞあだに おもほゆる やそうぢびとに なべてあふひを

女は、「つらし」と、思ひ聞えけり。

典侍
くやしくも かざしけるかな 名のみして 人だのめなる 草葉ばかりを

と、聞ゆ。



今日も、物見の、車が、隙間無く、立て込んでいる。
馬場の、大殿の辺りで、車の立て場に困り、上達部たちの車が多くて、騒がしいものだと、源氏が言い、躊躇っていると、相当な女車で、沢山乗り込んでいる間から、扇を差し出して、君の、車の御供を呼び寄せる。
ここにお立ちになりませんか。場所を差し上げましょうと、女車からの声である。
源氏は、どんな物好きかと、思う。
場所も、程よい所なので、車を引き寄せる。
源氏は、こんなに良い所を、どして取られたのかと、羨ましいと、言うと、風流な扇の端を折って、

女車
はかないことです。すでに、外の人が、かざしている葵とは、知りませんでした。神の許す、今日の日を、待っていたとは。

注連縄の内には、とても、入れませんと、書いてある、筆跡を見て、源氏は、思いだした。
あの、典侍である。
呆れたことだ。年甲斐も無く、若い気でいると、憎らしくなり、素っ気無く、

源氏
私だけはなく、沢山の人に逢うつもりで、葵をかざしていた。その浮気な心は、当てにならないでしょう。

女は、恨めしいと思い、申し上げる。

典侍
葵、逢う日という名だけで、人に、空頼みさせる、草葉に過ぎないものを、悔しいことです。信じきり、かざしていたなんて。
と、申し上げる。



人とあひ乗りて、簾をだに上げ給はぬを、心やましう思ふ人多かり。「一日の御有様のうるはしかりしに、今日はうち乱れてありき給ふかし。誰ならむ。乗り並ぶ人けしうはあらじはや」と、おしはかり聞ゆ。
「いどましからぬかざし争ひかな」と、さうざうしくおぼせど、かやうにいとおもなからぬ人、はた、人あひ乗り給へるにつつまれて、はかなき御いらへも、心安く聞えむも、まばゆしかし。



誰かと、相乗りして、御簾をさえ上げないことを、妬ましく思う人が多い。
先日の、ご様子が、威儀正しいものだったのに、今日は、気楽に、お出歩きされる。誰だろうか。並んで乗っている人は、不美人ではあるまい、と、典侍は、推察するのである。
張り合いの無い、言い合いだと、物足りなく思うが、このような、厚かましく言わないのは、やはり、誰か、相乗りして、憚られるので、ちょっとした、返答も、気安く言うのは、きまり悪いに違いないと、典侍は、思う。

物語の、どうでもいい、話だが、話のツマとしては、面白い。

posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第9弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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