2008年12月21日

神仏は妄想である 186

五濁の悪世 ごじょくのあくせ

方便品第二の終わりに、庭野は、五濁の悪世について書いている。

功濁というのは、時代が長くたったために起こってくる悪です。世の中も、同じ状態が長く続くと動脈硬化を起こしていろいろな弊害が起こる。だから、ときどき新鮮な空気を吸い込まなければならないのです。

こんな寝惚けたことを、平然として言う。時代は、いつも新鮮である。
そして、いつも、激動である。
動脈硬化などを、起こしている暇はない。

つまり、一つの物の見方である。そのように、見るということである。
まして、悪世、この世は、悪い世の中だという、観念を持つこと自体が、病気である。
後で、法華経の教えは、悟ればこの身がすなわち仏であり、この世がすなわち寂光土であるという。つまり、この世が、極楽になるという、言い方をする。
極楽は、我々の日常生活にあるのだと言う。
こうして、宗教家というものは、幻を語り、信者から、搾取する。

第二の煩悩濁というのは、字のとおり、煩悩(迷い)のために人間がみんなつまらない行いをするようになること。犯罪の横行はこのゆえです。

この人、何を言っているのだろうか。
犯罪の横行など、いつの時代も、あった。
今にはじまったことではない。

一番、つまらない、行為を繰り返しているのは、自分たちであろう。
自然に、人を裁いていることに、気づかないという、愚かさである。

第三の衆生濁というのは、人びとの性質が違うところから起こってくる争いです。もともとはひとつの生命で貫かれているということを知らず、表面の相違にとらわれて、それぞれが自我を主張するために、対立が起こり、家庭の中や社会が不和になる状態です。

これ程、愚かな、考え方もない。

性質が、違うということが、個性であり、それが楽しいのである。
意見の相違を、話し合いによって、解決するからこそ、人間であることの、醍醐味がある。

対立の中世界など、進歩も、発展もない。

いやいや、そんなことではなく、もっと、根本的な、生命原理であるというだろう。
法華経を信ずる者、その生命原理とやらを、知っていると、思い込むから、手がつけられない。
生命原理は、法華経など、いらないと、知っている。

第四の見濁というのは、ものの見かたがそれぞれちがうために起こる世の中の乱れです。みんな自己本位の狭いものの見かたをすめたに、くいちがいが起こってくるのであって、みんなが仏の教えのような正しいものの見かたをするようになれば、自然と争いのない平和な世界ができるはずです。

ここまでくると、アホとしか、いいようがない。

物の見方が、何故、自己本位と、決め付けられるのか。
皆が、仏の教えの正しい者の見方をすること。それは、全体主義であろう。
独裁政治と同じようなことを言う。
更に、争いのない、平和な世界が、出来ると、これまた、寝惚けたことをいう。
日本だから、このアホ振りも、通用する。

また、知能程度の低い人には、通用するが、このような、解釈に、頷いている者が、何人集っても、世界が、平和になることは、無い。

そこまで、言うならば、仏教発祥の地、インドに行き、それを、高々と掲げてみるがいい。
インドの仏教徒は、カーストの外にあり、つまり、カーストにも属さずに、最下層の貧民として、生きている事実である。

アホ、馬鹿も、極まれりである。
日本という、安全地帯にいての、この解釈、ほとほと、呆れる。
確か、この人は、世界宗教者会議というものを、提案したはずである。
何の役にも立たない、会議である。

宗教者が、手を結んで、何か一つでも、有意義なことが、出来たか。
そんなことは、一切無い。
この、平和ボケは、この人の、ボケ具合であろう。

最後の、命濁には、呆れて言葉も無い。

第五の命濁というのは、人間の命が短くなるために、人びとの考えることなすことが、目前の利益や、すぐの効果の現れるようなことばかりを追って、コセコセしたものになり、そのために世の中にみにくいゴタゴタが絶えず、ゆったりしたところのない状態です。これも、みんなが人間の永遠の生命ということに目を覚ましさえすれば、必ず救われることなのです。

人間の命は、長くなって、久しい。
目先の利益や、すぐに効果の現れるようなことばかりを追って、というが、それを、しているのは、その人の団体であろう。
現世利益を、求める人の群れ。
信仰を得てから、このように、変わりました。奇蹟が、起きましたという、布教雑誌を出して、まさに、目先の利益、すぐに効果の現れることを、求める人の群れである。

解りやすいということでは、評価するが、書いていることが、大嘘である。

死んでからでないと極楽へは行けないのではない、仏はわれわれの心の中にある。極楽はわれわれの日常生活の中にあるという、教えが、法華経の教えと言う。

念仏は、死後、極楽へ行くための、方法であるという、念仏宗を、暗に批判している。と共に、法華経の、正しさを説いているように、見受けられるが、逆効果である。

こんな、おめでたい、現実遊離した、教えが、正しいも何も無い。

完全悟る
大きな歓喜
自分も仏に成る

このように、説いた、この人は、仏になり、極楽に行ったのでしょうか。
霊界には、極楽という、次元も、質もありませんが・・・

この人は、法華経解釈によって、益々、妄想性を甚だしくして、自分が、何をやっているのか、解らなくなったようである。
毎日が、妄想の中で暮らせたという、幸せである。

会長先生と、信者に尊敬され、
死後は、開祖として、讃えられる。

ヒステリーの開祖の、霊友会から、野心を持って出て、教団を創り、開祖になり、と、最も、世俗的生き方をした。
世俗にまみれたのである。

その証拠が、本部の建物である。

人を騙すには、目に見える物が、必要である。
教えより、本部伽藍を建てて、信者を、撹乱させた、罪は、重い。

仏に代わって、私が、判定する。
未だに、三次元と四次元の隙間で、法華経を論じているのが、関の山である。
その、蒙昧に、気づいていないという、悲惨である。

また、日蓮を通しての、法華経解釈であるから、その蒙昧は、甚だしい。
何せ、六道から、声聞界、縁覚界、菩薩界の修業も、題目を唱えることで、超えてしまい、仏界に至ると、信じ込んだのである。

インスタントの、仏界に至る方法であるが、全く、誤りである。

要するに、日蓮自体が、仏教、釈迦仏陀の、教えを知らないのである。

自縛という、境地から、逃れられなかった、日蓮を見習えば、皆、この人のように、独善と、世の中から、遊離したことを、平然として、書き連ねるのである。

チベット民族や、ミャンマーの僧侶たちが、殺されても、平然として、何の行動も、起こさなかった。
小乗は、滅びて善しなのであろう。

それで、仏の命の、教えなどと、ほざいている様、あはれ、である。
身の危険の無い、日本では、どんな妄想を語っても、安全である。
あはれ、である。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第4弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

もののあわれ362

ほどほどにつけて、装束、人の有様、いみじく整へたりと見ゆる中にも、上達部はいと異なるを、一所の御光にはおしけたれためり。大将の御仮りの随身に、殿上の丞などのすることは、常のことにもあらず、珍しき行幸などの折のわざなるを、今日は右近の蔵人の丞仕うまつれり。さらぬ御随身どもも、かたち姿まばゆく整へて、世にもてかしづかれ給へるさま、木草も靡かぬはあるまじげなり。



行列の人々は、身分に応じて、装束や、供廻りを立派に、整えている。その中でも、上達部は、際立つのであるが、お一方の、輝く美しさには、圧倒されていた。
大将、つまり、源氏の、一日だけの、随身として、殿上人である、丞などが、供奉することは、普通のことではなく、特別の、行幸の時のことであるが、今日は、右近の蔵人の丞が、お仕えしている。
その他の、御随身たちも、顔、身なりも、整えて、このようにして、世の人々から、大切にされているという様には、草木も、靡かないものはないと、思われる。

源氏の称賛である。

殿上の丞
近衛将監で、昇殿を許された者である。





壷装束などいふ姿にて、女房のいやしからぬや、又尼などの世を背きけるなども、倒れまろびつつ、物見に出でたるも、例は、「あながちなりや。あなにくし」と見ゆるに、今日はことわりに、口うちすげみて、髪著こめたるあやしの者どもの、手を作りて、額に当てつつ見奉りあげたるも、をこがまし。あさましげなるしづのをまで、おのが顔のならむ様をば知らで、えみ栄えたり。何とも見入れ給ふまじきえせ受領のむすめなどさへ、心の限り尽くしたる車どもに乗り、様ことさらび、心げさうしたるなむ、をかしきやうやうの物見なりける。



壷装束などという、姿で、女達の賎しいものや、また、尼などで、世間を捨てた者なども、人波に倒れ、転ぶように、よろめきつつ、物見に来ている。
いつもなら、でしゃばり過ぎるとか、憎らしいことと、思われるが、今日は、皆、無理もないと思うのである。
口がすぼんで、髪を、うちぎに、着込んでいる、賎しい身分の者達が、手を合わせて、額にあてつつ、行列を見上げているのも、滑稽である。
酷く、身分の低い男までが、自分の顔が、どんなものかを知らずに、顔いっぱいに、笑みをたたえている。
君の方は、全然、お目を止められるはずもない、国司の娘などまでもが、思い切り飾り立てた、車に乗り、わざとらしく、何かと、思われないかと、澄ましているのは、それぞれに、興味深い見物である。





まして、ここかしこにうち忍びて通ひ給ふ所々は、人知れずのみ、数ならぬ嘆きまさるも多かり。式部卿の宮、桟敷にてぞ見給ひける。「いとまばゆきまでねび行く人のかたちかな。袖などは目もこそとめ給へ」と、ゆゆしくおぼしたり。姫君は、年頃聞えわたり給ふ御心ばへの世の人に似ぬを、「なのめならむにてだにあり。ましてかうしもいかで」と、御心とまりけり。いとど近くて見えむまではおぼしよらず。若き人人は、聞きにくきまでめで聞えあへり。




まして、こんなもの以上に、忍んで、通われる先の、方々は、我が身の、数ならぬ思いを知り、人知れず、嘆く者も、多い。
式部卿の宮は、桟敷の方で、御覧になっていた。
真に、眩いばかりになってゆかれる、ご器量だ。神なども、目をつけるかもしれないと、不気味に思われた。
姫君は、長年、お手紙を差し上げ続ける、源氏の愛情は、普通の人と違い、並々の人でさえ、これ以上の愛情なら、心引かれるものを、こんなに美しくあれば、と、お心が、動いた。
しかし、今以上に、打ち解けて、逢うようなことは、考えない。
若い女房達は、聞き苦しいまでに、口々に、源氏の姿を、誉めそやすのである。

式部卿
源氏の父の、弟宮。
姫君とは、その宮の姫であり、朝顔の君と、言われる。




祭の日は大殿には物見給はず。大将の君、かの御車の所争ひを、まねび聞ゆる人ありければ、「いといとほしう、憂し」とおぼして、「なほ、あたら、重りかにおはする人の、物に情遅れ、すくずくしき所つき給へるあまりに、自らはさしも思さざりけめども、かかるなからひは、情かはすべきものともおぼいたらぬ御掟に従ひて、次々よからぬ人のせさせたるならむかし。御息所は、心ばせのいと恥づかしく由ありておはするものを、いかにおぼしうんじにけむ」と、いとほしくて、まうで給へりけれど、斎宮のまだ本の宮におはしませば、榊の憚りにことづけて、心安くも対面し給はず。ことわりとはおぼしながら、「なぞや。かくかたみにそばそばしからでおはせかし」と、うちつぶれやかれ給ふ。




祭りの当日は、大臣家では、見物をしない。
大将の君は、あの、車争いを、ちくいち申し上げる人があり、実に気の毒なこと、困ったことだと、思い、やはり、惜しいことに、重々しくしている姫であるから、物事に、情けが乏しく、無愛想なところがあるため、自分では、それ程にと思っていないが、こういう、間柄の関係は、お互いに、同情しあうべきものだとも、思わない。そういう性格で、次々と、不心得な者がさせた結果だろう。
御息所は、心遣いが、立派で、上品であるが、どんなに、嫌な思いをされたただろうと、気の毒に思い、御息所に伺われたが、斎宮が、まだ、本の御殿にお出でになるので、榊への、憚りを口実にして、簡単に、対面されないのである。
無理もないと、思いつつ、なんとしたことか、お互いに、角突き合わせないで、欲しいものだと、独り言が出るのである。

本の宮
御息所の邸である。

車争いの話を聞いて、源氏が、訪ねるが、まだ、邸には、戻っていないのである。
それは、無理もないことだと、源氏は、思う。

正妻と、愛人の、争いである。

posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第9弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。