2008年12月13日

もののあわれ353

七月にぞ后居給ふめりし。源氏の君、宰相になり給ひぬ。帝おり居させ給はむの御心づかひ近うなりて、この若宮を坊に、と思ひ聞えさせ給ふに、御後見し給ふべき人おはせず。御母方、みな親王たちにて、源氏の公事しり給ふ筋ならねば、母宮をだに動きなき様にし置き奉りて、つよりにとおぼすになむありける。弘薇殿、いとど御心動き給ふ、ことわりなり。されど、主上「東宮の御世、いと近うなりぬれば、疑ひなき御位なり。思ほしのどめよ」とぞ聞えさせ給ひける。げに、「東宮の御母にて二十余年になり給へる女御を置き奉りては、引き越し奉り給ひ難きことなりかし」と、例の、やすからず世人も聞えけり。




七月には、立后の事があった。
源氏の君は、宰相、つまり、参議になられた。
陛下は、位を、退かれる、支度を進める。
この、若宮、つまり、藤壺の子であり、源氏の子を、東宮にと、願うも、御後見、みうしろみ、後ろ盾する方がいない。
御母方は、皆、親王たちで、皇族が政治をされる筋合いはない。
せめて、母君を確固たる、地位に据えて、その力にとの、思し召しであろう。
弘薇殿の女御が、ひとしお動揺するのも、もっともである。
しかし、帝は、東宮の御世も、近いこと。もう疑いようがない地位です。安心するがよいとの、仰せである。
いかにも、東宮の御母として、二十年以上にもなる、女御を差し置いて、他の方を中宮の位には、しにくいことであると、例によって、世の人々は、噂するのである。





参り給ふ夜の御供に、宰相の君も仕うまつり給ふ。同じ宮と聞ゆる中にも、后腹の皇女、玉光りかがやきて、類なき御おぼえにさへものし給へば、人もいと殊に思ひかしづき聞えたり。まして、わりなき御心には、御輿のうちも思ひやられて、いとど及びなき心地し給ふに、そぞろはしきまでなむ、

つきもせぬ 心のやみに くるるかな 雲いに人を 見るにつけても

とのみ、ひとりごたれつつ、ものいとあはれなり。



中宮入内の夜の御供には、宰相の君、源氏も、出仕される。
藤壺の宮は、同じく中宮と、申し上げる中でも、先帝の皇后を母とする、内親王であり、玉の如く光り輝き、比類の無い、帝からの寵愛がある、お方であるゆえ、人々も、特別に、崇め敬うのである。
まして、切ない源氏の、心の中には、御輿のうちも、思いやられ、いよいよ、及びも付かない、気持になるのも、じっとはしていられないのである。

源氏
果てしない、暗い思いに、何も見えない。雲の上に、あの方が、登られたのである。

とだけ、独り言を口に出し、感慨無量である。




御子は、およづけ給ふ月日に従ひて、いと見奉り分け難げなるを、宮いと苦しとおぼせど、思ひよる人なきなめりかし。げにいかさまに作りかへてかは、劣らぬ御有様は、世に出でものと給はまし。月日の光の空に通ひたるやうにぞ、世の人も思へる。



御子は、成長されて、その月日に添って、ますます、区別し難いことを、宮は、お気に病む。
気の付く者は、いない様子である。
つまり、藤壺の産んだ子が、源氏にますますと、似てくるというのだ。
本当に、どのように、作り変えたら、君に劣らない、有様が、この世に、生まれることがあるのだろうか。
月と日の輝きが、大空に並んで、似通っているようなものだと、世の人も思うのであった。


しかし、作者、紫式部は、決して、源氏の、その姿形を書かないのである。

読者の想像力に、任せられてある。いや、それさえも、拒絶しているようである。
源氏の、美しさを、追及しては、いけない。
何故なら、源氏は、この世の者ではないのである。

つまり、これは、物語なのである。
だから、こそ、書き続けることが出来る。

源氏の容姿を、いくら詮索してもいいように、物語が、作られている。それは、また、それぞれの、物語によって、変化するのである。

紫式部も、源氏を描こうとしているのではない。
源氏を、描くという、スタイルを取りつつ、もののあはれ、というものを、求めている。
そして、それは、いつまでも、捉えることが出来ないのだが、それは、確実に存在するものである。

そして、それは、人の心の中にあり、つまり、内観なのである。
内道である。

もののあわれ、という、心象風景は、人の心の中にあるものなのである。
それを、出すことは、心を出すことと、同じである。

言葉に、解して、説明することの出来ないものを、言葉という、物語に託して、描き出すこと。それが、源氏物語の、存在意義なのである。

西洋哲学、思想にある、語り過ぎるという、言葉の世界は無い。

それは、所作として、表出するものである。
所作の中に、隠れるものである。
何故なら、心象風景だからである。

日本人は、対座して、話すということを、しない。
例えば、いけばなを、互いに見詰め合って、言葉を交わす。
一碗を間に置いて、茶を飲むという行為を、間にして、語り合う。

春夏秋冬という、風景を見つめつつ、人が対座する。
実に、奥床しいのである。
また、奥床しくなければ、通じないのである。

これは、自然豊かな、民族だからである。
この、豊かな自然によって、作られた、民族なのである。

自然と、共生、共感する民族であり、そこに、心を置いた。つまり、心を、自然に預けることが、出来る民族なのである。

太陽を、お天道様と、呼ぶ民族は、無い。
自然の、象徴である、太陽を、擬人化して、おてんとうさま、と、呼ぶ民族である。

ゆめゆめ、この、民族の心を、誤ってはならない。
そして、もののあはれ、ということを、考える時、それが、前提としてあるということ。

もののあはれ、という、心象風景は、伝統なのである。

紅葉賀を、終わる。




posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第9弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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