2008年11月29日

もののあわれ340

幼き人は、見つい給ふままに、いとよき心ざまかたちにて、何心もなくむつまれまとはし聞え給ふ。「しばし殿の内の人にも誰と知らせじ」とおぼして、なほ離れたる対に、御しつらひになくして、われも明け暮れ入りおはして、よろづの御事どもを教へ聞え給ふ。手本書きて習はせなどしつつ、ただほかなりける御女を迎へ給へらむやうにぞおぼしたる。政所家司などをはじめ、殊に分ちて、心もとなからず仕うまつらせ給ふ。惟光より外の人は、おぼつかなくのみ思ひ聞えたり。かの父宮も、え知り聞え給はざりけり。




幼い姫は、親しくなるにつれて、性質も、器量も、大変よく、無邪気になついて、つきまとうのである。
今しばらくは、邸の内の者にも、身分を知らせないでおこうと、源氏は、考える。
そして、以前のように、離れた対の屋に、住まわせ、至れり尽くせりの、環境を整えて、自分も、始終そこにいらして、万事万端を教えになる。
お手本を書いて、手習いをさせながら、今まで、よそにいた娘を、引き取ったかのように、思うのである。
政所、家司などを、すべて別に設けて、姫の生活に不安のないように、お世話をする。
惟光以外の者は、不審に思うばかりである。
また、姫の父宮も、何事もご存知ないのである。

若紫も、順調に育っている。
若草ともいう。



姫君は、なほ時々思ひ出で聞え給ふ時、尼君を恋ひ聞え給ふ折多かり。君のおはする程は紛はし給ふを、夜などは、時々こそとまり給へ、ここかしこの御いとまなくて、暮るれば出で給ふを、慕ひ聞え給ふ折などあるを、いとらうたく思ひ聞え給へり。二三日内裏に侍ひ、大殿にもおはする折は、いといたく屈しなどし給へば、心苦しうて、母なき子持たらむ心地して、ありきも静心なく覚え給ふ。



姫君が、それでも、時々、昔のことを、思い出される時は、尼君を恋しく思うことも、多い。
君の、お越しの時は、紛れているが、夜など、時々、こちらに源氏が泊まるとはいえ、あちこちと、通うところが多く、日が暮れると、外出するので、その後を、慕うこともあるのは、大そう可愛いと、思うのである。
二三日、御所にいたり、そのまま左大臣邸に、お越しになる時は、ひどく塞ぎ込んでしまい、いじらしくて、母の無い子を持ったような気持になるので、出歩きも、ゆっくり出来ないと思うこともある。

ありきも静心なく
しずこころ、とは、訳すのは、難しい。
静心なく、花の散るらん、などのように、静かな心ではなく、動揺する心、動く心である。
静心なくとは、不安でもある。

静心も、あはれというものの、風景である。
静心とは、奥床しいものでもある。

静心で、行為するのを、沈思黙考ともいう。




僧都は、かくなむと聞き給ひて、あやしきものから、うれしとなむ思ほしける。かの御法事などし給ふにも、いかめしうとぶらひ聞え給へり。



僧都は、そのことを、伝え聞いて、あやしく思うが、嬉しいと思うのである。
かの尼君の、法要をする時も、ねんごろに、弔問するのである。

あやしきものから、うれしとなむ思ほしける
どんなものかと、不安に思っていたが、その様子から見ると、良かったと、嬉しく思う。
源氏が、勝手に連れて行ったのだが、きちんと、育っていると、聞いて、安心するのである。



藤壺のまかで給へる三条の宮に、御有様もゆかしうて、参り給へれば、命婦、中納言の君、中務などやうの人々対面したり。「けざやかにももてなし給ふかな」と、安からず思へど、しづめて、大方の御物語聞え給ふ程に、兵部卿の宮参り給へり。この君おはすと聞き給ひて、体面し給へり。いと由ある様して、色めかしうなよび給へるを、女にて見むはをかしかりぬべく、人知れず見奉り給ふにも、方々むつまじう覚え給ひて、こまやかに御物語など聞え給ふ。宮も、この御様の常より殊になつかしううちとけ給へるを、「いとめでたし」と見奉り給ひて、婿になどはおぼしよらで、「女にて見ばや」と色めきたる御心には思ほす。



藤壺の、滞在している、三条の宮に、源氏は、慕って伺うと、命婦、中納言の君、中務といった、お傍付きの人々が、体面した。よそよそしい、もてなしだと思い、源氏は、少し憤慨するが、心を抑えて、世間話をしているところに、兵部卿の宮が、みえた。
源氏の君が、おいでであると聞いて、対面される。
宮は、風情ある姿に、好き者らしく、なよなよしているので、女にしてお相手したら、面白いだろうと、源氏が思う。すると、藤壺の宮や、姫君の関係も、親しみが湧いて、しみじみと、お話をする。
宮も、源氏が、いつもより、親しみやすく、打ち解けているので、大変美しいと、見られて、娘の婿になどとは、気づくこともなく、女にして、相手にしたらと、好き者らしく、思うのである。


 何とも、不思議な、下りである。
兵部卿の宮とは、藤壺の兄であり、若草の父である。

それぞれが、女にして、相手にしたらと、思って、向き合っている。
これこそ、見逃してはならない、場面である。
当時の、貴族達の、退廃振りは、甚だしいものがある。
性の楽しみによって、平和を維持しているが、別の見方をすれば、それしかないとも、いえるのである。

男を女として、相手にしてみるという、同性愛行為も、当然にあったことが、伺われる。
何でもありの、当時の性愛である。

この、宮様は、源氏を、娘の婿にと考えるが、すでに、源氏の手によって育てなれ、そのように、進んでいる。
知らぬは、自分ばかりである。
更に、藤壺とも、契り、源氏という、男は、とんでもないほどの、好色である。

それを、延々と描く、紫式部の物語に対する、執念は、凄まじいものがある。

一見して、エロ小説の形相だが、その向こうに、観えるもの、それを、時代の人々は、見つめた。

ああ、エロ小説だと、評価しても、おかしくない。
だが、原文の力は、そのエロ小説を、超える。
性愛を遥かに、超える。
大和言葉というものの、深みに沈むのである。

それは、声に出してみれば、よく解る。
言葉の美しさが、単なるものを、超えているのである。
言葉の力というものを、考えざるを得ないのである。



posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第9弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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