2008年11月25日

もののあわれ336

二条の院におはしたれば、紫の君、いともうつくしき片生ひにて、紅はかうなつかしきもありけり、と、見ゆるに、無紋の桜の細長、なよらかに着なして、何心もなくてものし給ふ様、いみじうらうたし。古代の祖母君の御名残にて、歯黒めもまだしかりけるを、引き繕はせ給へれば、眉のけざやかになりたるも、うつくしう清らなり。「心から、などか、かう憂き世を見あつかふらむ。かく心苦しきものを見て居たらで」と、おぼしつつ、例の、もろともに雛遊びし給ふ。絵などかきて色どり給ふ。よろづにをかしうすさび散らし給ひけり。我もかき添へ給ふ。




二条の院に、いらっしゃれば、紫の君が、子供らしい姿で、実に可愛らしい。
紅も、こんなに、嬉しい色合いもあるのだと、思えるほど、美しい。
無地の桜差重ねの、細長を、なよやかに着ていて、無邪気な様子は、なんともいえずに、可愛いい。
昔ながらの、お祖母様の、教育の名残で、お歯黒も、まだであったが、君が、教え、眉も、くっきりと、可愛らしく立派である。
源氏は、どうして、辛い女関係に、関わるのか。こんなに、いじらしい人を相手にせずに、と、繰り返し思う。
いつものように、人形遊びをするのである。
紫は、絵などを描いて、色をつけている。
何かと、面白いのか、暇潰しに、書き散らしていた。
源氏も、その横に描き入れる。

実に、美しい文である。

いとも うつくしき 片生ひにて かたおひにて
片生ひにて、とは、子供のことである。
片恋、かたこひ、といえば、片思いである。
まだ、成長の段階にある者である。

紅はかう なつかしきも
紅が、こんなに、美しく感じられるのである。

いみじう らうたし
とても、可愛い。それを、何度も作者が書く。


髪いとながきをんなをかき給ひて、鼻に紅をつけて見給ふに、画にかきても見ま憂き様したり。わが御影の鏡台にうつれるが、いと清らかなるを見給ひて、手づからこのあかばなをかきつけ、にほはして見給ふに、かくよき顔だに、さて交れらむは見苦しかるべかりけり。姫君見て、いみじく笑ひ給ふ。



髪の長い女を描いて、鼻に紅をつけて、御覧になると、絵に描いたものでも、見るのが、嫌になる。
ご自分の、鏡台に写るのを見て、大そう立派なのを、見て、ご自身も、この赤色をつけて、色付けすると、こんなに美しい顔でも、赤い処があれば、見苦しいのである。
姫が見て、大笑いする。



当然、末積花のことである。

それにしても、作者は、源氏を美しいと、書く。そして、それ以上の、微細なことは、描かない。読者は、想像するしかないのである。
源氏物語の魅力とは、これである。
源氏の顔が見えない。故に、読者の想像に、委ねられるということだ。




源氏「まろが、かくかたはになりなむ時、いかならむ」と、宣へば、紫「うたてこそあらめ」とて、さもや染みつかむと、あやふく思ひ給へり。空のごひをして、源氏「さらにこそ白まね。用なきすさびなりや。内裏にいかに宣はむとすらむ」と、いとまめやかに宣ふを、いといとほし、と、おぼして、寄りてのごひ給へば、源氏「平中がやうに色づり添へ給ふな。赤からむはあへなむ」と、戯れ給ふ様、いとをかしき妹背と見え給へり。



源氏が、私が、こんな、かたわになってしまったら、どうでしょう、と、言うと、紫は、嫌です、と、そのまま、染み付かないかと、心配する。
それを、ふき取る振りをして、源氏は、いっこうに、白くならない。つまらぬ、悪戯をしたものだ。主上は、どう言うだろう、と、真面目に言うと、紫は、気の毒に思い、近づいて、拭くのである。
源氏は、平中のように、他の色を、つけないで下さい。赤いくらいなら、黒いより、ましです、と、ふざける様は、実に、好ましい、夫婦のようである。

妹背と 見給へり
いもせと みたまへり
妻と、見えるのである。それで、夫婦と、見えるということになる。




日のいとうららかなるに、いつしかと霞みわたれる梢どもの、心もとなきなかにも、梅は気色ばみほほえみ渡れる、とり分きて見ゆ。階隠の下の紅梅、いと疾く咲く花にて、色づきにけり。

源氏
くれないの 花ぞあやなく うとまるる 梅のたち枝は なつかしけれど

いでや」と、あいなくうちめかれ給ふ。
かかる人々の末いかなりけむ。



春の日の光を浴びて、いつしかに、一面に、霞んでいる木々の梢は、いつ花咲くのか、待ち遠しいが、梅が、蕾を膨らませて、今にも、咲きかかっている。
階隠、はしがくれ、の、下の紅梅は、大変速く咲く花で、もう色づいている。

源氏
紅の色の花が、訳もなく、嫌になるが、梅の立ち枝には、心引かれる。

いでや、どうしたものか、と、苦々しく言っていまうのである。
こういう方たちの、その後は、それぞれ、どうなったのでしょうか。

最後は、作者の独り言である。

いつしかと霞わたれる梢どもの
梅は気色ばみほほえみ渡れる

これは、自然の姿を、表現しているものであるが、何と、人と同じように、書いている。
梅が、ほほえみ渡れるとは、いかなることか。

万葉では、咲くことを、笑うとも、言う。
咲くも、笑うも、同じことなのであった。

花が咲くのは、花が笑うのである。

微笑みは、笑う手前である。梅の蕾が、今更に、咲く前の、微笑みにある、というのである。

このように、日本人は、自然を愛でた。
愛を、め、とも、読んだ。
めでたいことは、愛することであり、芽出たい、ことなのである。

しかし、決して、観念としての、愛というものを、語らない。
それは、自然の描写の中に、密かに、潜ませて、また、所作の中にも、密かに、潜ませたのである。

それが、もののあはれ、というものであった。

末摘花を、終わる。



posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第9弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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