2008年11月20日

もののあわれ331

源氏「たのもしき人なき御有様を、見そめたる人には、疎からず思ひむつび給はむこそ、本意ある心地すべけれ。ゆるしなき御気色なれば、つらう」などことつけて、

源氏
朝日さす 軒のたるひは とけながら などかつららの 結ぼほるらむ

と宣へど、ただ「むむ」と、うち笑ひて、いと口おもげなるもいとほしければ、出で給ひぬ。



源氏は、頼れる人もいない様子ですから、あなたを見初めた私に、よそよそしく、しないで、親しんでくだされば、本望です。しかし、中々そのように、ならないのが、残念です、などと、口実を作り、
源氏
朝日が射す、軒のつららは、溶けているのに、どうして、あなたは、氷のように、口をつぐんで、打ち解けてくれないのでしょう。

と、仰るが、姫君は、ただ、むむっと、笑い、たいそう口が重い様で、返歌を待つのは、気の毒と、源氏は、邸を後にした。


実は、源氏は、姫の容姿や、その対応に、嫌気が差したが、それを、あからさまに言わないのである。
それで、距離を置くべく、姫の対応の無さに、かこつけて、それを、口実にして、距離を置くのである。
それも、極めて、相手を粗末にしないという、心得である。

ことつけて
かこつける。口実を作り。そして、逃げるのである。
それも、源氏の優しさである。

笑いを、むむ、と表現する。
擬音である。
日本語には、この擬音や、擬態語というのが、多い。
日本人ならば、それが、何となく、解るのである。

源氏は、色好みの、礼儀として、この姫を、最後まで、面倒みるのである。

ここにも、源氏物語の、粋がある。
決して、はいさようならと、捨てることはない。



御車よせる中門の、いといたうゆがみよろぼひて、夜目にこそ、しるきながらも、よろづ隠ろへたる事多かりけれ、いとあはれにさびしく荒れまどへるに、松の雪のみ暖かげに降り積める、山里の心地してものあはれなるを、「かの人々の言ひしむぐらのかどは、かうやうなる所なりけむかし、げに、心苦しくらうたげならむ人をここちすえて、うしろめたう恋しと思はばや。あるまじき物思ひは、それに紛れなむかし」と、「思ふやうなる住処に合わぬ御有様は、とるべき方なし」と、思ひながら、「我ならぬ人は、まして見しのびてむや。わがかうて見慣れけるは、故親王のうしろめたくとたぐへ置き給ひけむ魂のしるべなめり」とぞ、おぼさるる。



御車を、寄せてある中門が、酷く歪んで、倒れそうである。
夜目だからこそ、はっきり見えたようでも、隠れていることも、色々あったわけだ。
今朝は、気の毒にも、寂しく荒れ果てた所に、松の雪だけが、暖かそうに、降り積もっている。
山里かと、思われて、ものあはれなるを。
これを、現代文に訳することは、出来ない。
山里かと、思われて、ものあはれ、とは、当時の心境であり、今では、どのような心境であるかということを、想像するしかない。
山里かと思えて、しんみりとするが、とでも、訳すのか。
しみじみと、感じ入るというのか。
寂しく荒れ果てた所に、松の雪が積もっている。それは、その風景は、風景のみにあらず、心象風景として、心の中にある、あはれに、結びつくのである。
そこで、ものあはれなり、と書く。
私が、源氏物語の中にある、風景描写に、もののあはれ、というものを、観ると言うのは、これである。
人の心の機微だけではない。
風景に、託す思いに、もののあはれ、という、心象風景が、重なるのである。
すでに、心にある風景が、もののあはれなのであるという、平安期の心の風景である。
それを、日本人は、求め続けてきた。
それを、また、著わすのに、自然描写をするのである。決して、観念としての言葉を、用いないのである。
ここに、日本の思想というものの、姿がある。
観念論を打ち立てないこと。
それは、風景や自然を観る心に宿り、更に、それは、所作に表れるのである。
物語の訳を続ける。
雨夜の、品定めで、あの連中が言った、草深い家とは、このようなところなのだろうか。
なるほど、いじらしい、可愛い女が、ここにいて、気になり、恋しくてたまらないと思うものだ。
けしからぬ、我が思いは、それで、紛らわせようか。
などと、思ったり、また、自分以外の人なら、自分以上に、我慢できようか。私が、こうして知り合ったのは、亡き常陸の宮が、気にしてのこと。後に残った者に対する、魂の、導きであろう。と、思うのである。

あるまじき物思ひ
これは、藤壺のことである。
その思いで、今回のことを、紛らわせようとしている、我が身の、後ろめたさである。

非常に、微妙な心の有様である。
プレイボーイが、多くの女と交わるが、最も、恋しい女は、あるまじき人への、思いなのである。
どんなに、多くの女と、関係を持っても、満足しないのは、実は、あるまじき女への、思いがあるからである。

結婚を決めた女がいるにも関わらず、別の女と、関係を持ち、妊娠させた、男を知っているが、第三者から見れば、その行為は、不徳の行為であり、いい気な者なのであるが、男というもの、単純にいかないのである。

他の女とも、交わりたい、しかし、好きな女がいる。
欲望のままにと言えば、解る気がするが、それだけではない、何か、もっと、別のもの、別の心境があるようである。
男の、我が儘で、済ませられない、何かである。

浮気心とは、男の、微妙たゆたう、不確実性ではないかと、思える。
要するに、不安なのである。
それは、人生に対する、生きることに対する不安が、恋というものに、逃避させるのである。
ひと時の恋、プレイラブに、逃げる。
それを、女は、誠実ではないと、言う。
男は、不安だから、女を抱かざるを、得ないといえば、女は、納得するかといえば、しない。だから、男と女の関係は、永遠に、溝がある。そして、その溝は、埋められない。

それは、実に、あはれ、なのである。
あはれ、を、生きるしかないのである。

何故、紫式部は、それに気づいたのか。
それは、当時の結婚形態にもよるものであると、私は、思う。

男は、複数の女と、関係して、当たり前の時代である。
更に、通い婚である。

源氏物語の、理解は、当時の風習、風俗を理解することは、勿論のことだが、実は、あはれ、という、風景を、まず、理解しなければならない。

何故、もののあはれ、なのか。そして、もの、とは、何かである。
あはれ、の前に、もの、がつくには、意味がある。

この、もの、というものを、見つめて書き続けてゆく。



posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

もののあわれ361

日たけ行きて、儀式もわざとならぬ様にて出で給へり。暇もなう立ちわたりけるに、よそほしう引き続きて立ちわづらふ。よき女房車多くて、ざふざふの人なきひまを思ひ定めて、皆さしのけさする中、あんじろの少しなれたるが、下簾の様などよしばめるに、いたう引き入りてほのかなる袖口、裳の裾、かざみなど、物の色いと清らにて、ことさらにやつらたる気配しるく見ゆる車二つあり。「これは、さらにさやうにさしのけなどすべき御車にもあらず」と、口ごはくて手触れさせず。いづかたにも若き者ども、えひ過ぎ立ち騒ぎたる程のことはえしたためあへず。おとなおとなしき御前の人々は、「かくな」などと言へど、えとどめあへず。




日も高くなっているので、外出の儀式も格式張らず、葵の上の一行は、お出かけになった。
物見車が、混雑して立ち並んでいる。
それらは、美しく並んでいるが、車の置き場に困っているようである。
立派な女房車が多く、車沿いの、人のいない空き地を見つけ、ここにと思い定めて、あたりの車を皆、退けさせる中に、網代車で、真新しくはないが、下簾の様子など、乗り主の、趣味が伺えて、乗り手は、車の奥に、ちらりと見える、袖口、裳の裾、かざみ、など、色合いも、こざっぱりとして、わざと目立たぬようにしている様子の、車が二台ある。
これは、全く、押し付け退ける車ではないと、言い張り、手を触れさせない。
どちらも、若い者どもが、酔い過ぎて、立ち騒いでいる時は、鎮めることなど、できない。
年配の、前駆の人々は、そんなことは、するなと言うが、とても、制しすることができない。


あんじろ
車の簾の中に掛けて、下に長く垂らす、白絹である。

よしばめる
教養が、現われる様である。




斎宮の御母御息所、「ものおぼし乱るる慰めにもや」と、忍びて出で給へるなりけり。つれなしづくれど、おのづから見知りぬ。男「さばかりにては、さな言はせそ。大将殿をぞ豪家には思ひ聞ゆらむ」など言ふを、その御方の人も交れれば、「いとほし」と見ながら、用意せむもわづらはしければ、知らず顔を作る。




これは、斎宮の御母、御息所が、物思いに乱れて、心の慰めにもなろうかと、こっそりと、出られた車である。
気づかれないようにしているが、自然に、御息所と解る。
男は、それくらいの車に、そんなことを言わせるな。大将様を御大家として、頼みにしているのだろう、などと言うのを、大将方、つまり、源氏方の、人々も、御供に交じっているので、御息所を気の毒と思いつつも、仲裁するのも、煩わしいと、知らぬ顔をする。





つひに御車どもたて続けつれば、ひとだまひの奥におしやられて、もの見えず。心やましきをばさるものにて、かかるやつれをそれと知られぬるが、いみじう嫉きこと限りなし。しぢなどもみな押し折られて、すずろなる車の筒にうちかけたれば、またなう人わろく、悔しう、「何に来つらむ」と思ふに、かひなし。「ものも見で帰らむ」とし給へど、通り出でむ暇もなきに、「事なりぬ」と言へば、さすがに、つらき人の御前わたりの待たるるも、心弱しや。笹の隅にだにあらねばにや、つれなく過ぎ給ふにつけても、なかなか御心づくしなり。



とうとう、大臣の車を、立て続けたので、お供の衆の車の後へ、押しやられて、何も見えない。
胸の痛みは、言うまでもないことである。
この、忍びの姿を、それと知られたくないが、この上もなく、悔しい気持である。
車を立てるために、ながえを乗せる、しじ、なども、皆押し折られて、轅、ながえ、を、他の車の、こしき、に、打ち掛けてあるため、体裁が悪く、それが残念で、何のために、出て来たのかと思う。
今更、詮無いことである。
何も見ずに、帰ろうとするが、抜け出す隙間もない時、行列が来たと、言うので、恨めしい方の、お通りを、このような形で、待たされるとは、と、女心の弱いことである。
ここは、笹の隈でもないからか、馬も止めずに、見向きもせずに、通られるにつけても、かえって、尽きぬ、物思いの、種となるのである。

葵の段の、車争いの部分である。
御息所は、非常に傷ついてしまうのである。



げに常よりも好み整へたる車どもの、我も我もと乗りこぼれたる下簾のすきまどもも、さらぬ顔なれど、ほほえみつつ、しり目にとどめ給ふもあり。大殿のは著ければ、まめだちて渡り給ふ。御供の人々うちかしこまり、心ばへありつつ渡るを、おしけたれたる有様、こよのうおぼさる。

御息所
かげをのみ みたらし川の つれなきに 身のうきほどぞ いとど知らるる

と涙のこぼるるを、人の見るもはしたなけれど、目もあやなる御様かたちの、いとどしういでばえを見ざらましかば、とおぼさる。




以前に話したように、いつもより、趣向を凝らした、数々の車の、下簾の、隙間、隙間にも、そ知らぬ顔をされながら、源氏は、にっこりとして、流し目に、御覧になることもある。
大臣家の、車は、はっきりと、解るので、真面目な顔をして、通る。
御供の衆も、敬意を表して、気をつけて、通るので、御息所は、惨敗したような気分で、我が身を、この上なく、哀れと、思うのである。

御息所
御祓の行われる今日、御手洗川で、お姿を遠くから、見たが、君の無情に、我が身の、不幸を、更に深く思い知らされる。

と、涙のこぼれるのを、人が見るのは、きまり悪いが、眩いばかりの、御姿の、常よりも、いっそう美しく、晴れ晴れとして、お引き立ちなのを、もし、見ずにいたなら、どんなにか、残念だろうかと、思うのである。

笹の隈にだにあらばにや
古今集
笹の隈 ひのくま川に 駒とめて しばし水かへ かげをだに見ん
からの、笹の隈、である。

みたらし川
み、と、影をのみ見、の、見を、かけている。

posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第9弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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