2008年10月29日

もののあわれ309

かしこには、今日しも宮わたり給へり。年頃よりもこよなう荒れまさり広うものふりたる所の、いとど人少なにさびしければ、見わたし給ひて、父宮「かかる所には、いかでかしばしも幼き人の過ぐし給はむ。なほかしこに渡し奉りてむ。なにの所狭き程にもあらず。乳母は曹司などして侍ひなむ。君は、若き人々などあれば、もろともに遊びて、いとようものし給ひなむ」など宣ふ。



あちらには、丁度その日、宮様が、お出でになった。
尼君の、生前よりも、いっそう荒れた、広く古びた邸が、いよいよ、少人数で、寂しい。
それを、御覧になり、こんな所では、どうして、少しの間でも、幼い人がしられよう。やはり、あちらに、移そう。少しも、窮屈なことはない。乳母は、部屋を貰って、仕えればいいのだ。
若君は、若い人もして、一緒に遊んでもらえる。

いとようし給ひなむ
きっとそれが、いい。
と、仰るのである。

曹司とは、女房、局のことである。



若君の父親である、宮様が、来た。
それが、源氏にも伝わる。さて、源氏は、どうするのか。



近う呼び寄せ奉り給へるに、かの御移り香の、いみじう艶にしみかへり給へれば、父宮「をかしの御匂ひや。御衣はいとなえて」と心苦しげに思いたり。


傍に若君を呼んで、お話すると、源氏の君の、移り香が、素晴らしく匂い、しみつくのである。
匂いに、しみつくという、表現は、無理であろうか。
父宮は、いい香りだね、お召し物は、くたくたになっているのに、と、気の毒に思うのである。

若君の衣に、源氏の移り香が、着いて、薫るという。




父宮「年頃も、あつしくさだすぎ給へる人に、添い給へるよ。かしこにわたりて、見ならし給へ、などものせしを、あやしう疎み給ひて、人も心おくめりしを、かかる折りにしもものし給はむも、心苦しう」などと宣へば、少納言「何かは。心細くとも、しばしはかくておはしましなむ。少し物の心思し知りなむに、わたらせ給はむこそ、よくは侍るべけれ」と聞ゆ。



父宮は、これまで、病気の尼君と一緒でしたね。あちらに、来て、過ごしなさい。など申したのに、嫌がってしまったようですね。あちらも、少し隔たりができたようです。でも、こんなことになった今、引き移るということも、気の毒なこと、と、仰る。
乳母は、心細くても、もう暫く、このままでおいでなさいましょう。いくらか、事の訳がわかってから、お引き移りするのが、よろしいかと、思います。と、申し上げる。


あつしくさだすぎ給へる人に
熱っぽい状態を言う。
つまり、若君の今の状態は、そのようであるということ。
病気の尼君と一緒に生活していたことに、慣れてしまい、そこから、出られない様子である。




少納言「夜昼恋ひ聞え給ふに、はかなき物もきこしめさず」とて、げにいといたう面やせ給へれど、いとあてにうつくしく、なかなか見え給ふ。父宮「何か。さしも思す。今は世になき人の御事はかひなし。おのれあれば」など語らひ聞え給ひて、暮るれば帰らせ給ふを、いと心細しと思いて泣い給へば、宮もうち泣き給ひて、「いとかう思ひな入り給ひそ。今日明日わたし奉らむ」など、かへすがへす、こしらーおきて、出で給ひぬ。名残も慰めがたう泣き給へり。




乳母は、一日中、お婆様のことを、慕い、何も、召し上がりません。と申す。
すっかり、面痩せしたようだが、かえって、それが上品で、可愛くも見える。
父宮は、なんの、そう、悲しみになることは、ありません。もう亡くなった方のことは、しょうがないのです。私がいるのだから、大丈夫です。などと、言うが、日が暮れて、お帰りになる頃に、若君は、心細いと、泣くのである。
父宮も、お泣きになって、そんなに、思いこんでは、いけません。
今日明日にでも、引き取りに来ましょうなどと、繰り返し仰り、なだめて、お出になる。
その後も、寂しさゆえに、泣き続けるのである。




行く先の身のあらむことなどまでも、思し知らず、ただ年頃たち離るる折りなうまつはしならひて、今は、なき人となり給ひにける、と思すがいみじきに、幼き御ここちなれど、胸つとふたがりて、例のやうにも遊び給はず。昼は、さても紛らはし給ふを、夕暮となれば、いみじく屈し給へば、かくてはいかでか過ぐし給はむ、と慰めわびて、乳母も泣きあへり。




先行きの、身の成り立ちを考えるのではなく、ただ、長年、片時も離れることなく、つきまとっていたのである。
しかし、もう、お亡くなりになったのだと、思うと、堪らなくて、子供心に、胸が一杯になる。
いつもの、ような遊びも出来ないのである。
昼間は、何とか紛らわすが、夕方になると、すっかり、ふさぎこんで、これでは、どうして暮らしてゆくことが、できようと、なだめることも、出来ず、乳母も、共々に、泣くのである。

いつの世も、人の死は、悲しい。
時の経つのを、待つしかない。



posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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