2008年10月22日

もののあわれ302

尼君「みだり心地はいつともなくのみ侍るが、限りの様になり侍りて、いとかたじけなく立ち寄らせ給へるに、自ら聞えさせぬこと。宣はする事の筋、たまさかにも思しめし変わらぬやう侍らば、かくわりなき齢過ぎ侍りて、必ずかずまへさせ給へ。いみじう心細げに見給へ置くなむ、願ひ侍る途のほだしに思ひ給へられぬべき」など聞え給へり。



尼君は、気分のすぐれないことは、いつもと、変わりません。今わの時になりまして、恐れ多くも、立ち寄りくださいましたのに、お礼も、申し上げられないとは。
仰せられた、あの事は、万一、思し召しが、変わりませんでしたら、この何も知らない年頃が、過ぎましたら、是非、お目をかけてくださいますように。
心細い、有様を見残して参りますが、願います、往生の障りに、思われるでしょう。と、申し上げる。

限りの様
臨終のことである。
死期が近いというのである。

たまさかにも
もし、変わらないようであれば。
源氏が、若草を、迎えたいという、話である。




いと近ければ心細げなる御声、絶え絶え聞えて、尼君「いとかたじけなきわざにも侍るかな。この君だにかしこまりも聞え給ひつべき程ならましかば」と宣ふ。あはれに聞え給ひて、源氏「何か、浅う思ひ給へむ事ゆえ、かう好き好きしき様を見え奉らむ。いかなる契りにか、見奉りそめしより、あはれに思ひ聞ゆるも、あやしきまで、この世の事には覚え侍らぬ」など宣ひて、源氏「かひなきここちのみし侍るを、かのいはけなうものし給ふ御ひと声、いかで」と宣へば、女房「いでや。よろづ思し知らぬ様に、大殿ごもり入りて」など聞ゆる折りしも、あなたより来る音して、若君「上こそ。この寺にありし源氏の君こそおはしたなれ。など見給はぬ」と宣ふを、人々、いとかたはらいたしと思ひて、「あなかま」と聞ゆ。



床が、すぐ近くなので、元気のない、尼君の声が、とぎれとぎれに聞こえる。
尼君は、まことに、恐れ多いことです。せめて、この姫が、私に代わり、お礼を申し上げることが、出来ればと、と仰る。
あはれに聞え給ひて、この場合は、可愛そうに思いということになるのか。
源氏は、いえいえ、浅はかな心で、こんなお恥ずかしいことを、申しましょうか。
前世からの、縁でしょう。
出会った時から、可愛らしい方と、思いました。
不思議なほど、この世の縁だとは、思われません。と、仰る。
そして、かひなきここちのみし侍る、とは、折角来たのですから、とでも訳す。
あの、無邪気な声を、是非、聞かせていただきたいと、仰る。
女房が、いえいえ、もう。何も解らないようで、よくお休みになっていますと、申し上げていると、あちらから来る足音がして、若君が、おばあさま、あの、お寺にいらした、源氏の君が、おいでになったのですか。どうして、教えてくださらないのと、仰るのを、女房たちが、いたたまれない気持で、お静かにと、申し上げる。


あなかま
あな、かまし、である。
やかましい
転じて、お静かに、である。



若君「いさ、見しかばここちのあしさ慰めき、と宣ひしかばぞかし」と、かしこき事聞き得たりと思して宣ふ。いとをかしと聞い給へど、人々の苦しと思ひたれば、聞かぬゆうにて、まめやかなる御とぶらひを聞えおき給ひて、帰り給ひぬ。「げにいふかひなのけはひや。さりとも、いとよう教へてむ」とおぼす。



若君は、だって、源氏の君を、見たら、気持悪いのが、直ったと、仰ったからなの、と良い事を耳にしたと思い、言う。
君は、おかしいと、思いつつも、女房たちが、困っている様子なので、聞かない振りをして、丁寧な、お見舞いの言葉を、仰せになり、お帰りになった。
なるほど、まだ幼い様子だ。ひとつ、立派に、教え込むと、思うのである。



またの日も、いとまめやかにとぶらひ聞え給ふ。例の小さくて、

源氏
いはけなき 鶴の一声 聞きしより 葦間になづむ 舟ぞえならぬ

同じ人にや」と、ことさら幼く書きなし給へるも、いみじうをかしげなければ、やがて御手本にと人々聞ゆ。少納言ぞ聞えたる。「とは給へるは、今日をも過し難げなる様にて、山寺にまかり渡る程にて、かうとはせ給へるかしこまりは、この世ならでも聞えさせむ」とあり。いとあはれと思す。



その翌日も、ねんごろに、お見舞いを申し上げる。
いつも通り、小さな結び文にして、同封した若君あてのものには、

いはけなき たづのひとこえ ききしより あしまになづむ ふねぞならぬ

幼い、鶴の一声を聞いてから、そちらへと行こうと思いつつ、葦の原を行き悩む舟は、たまらない思いです。

同じ人を、思い続けます。

幼女に、恋文を送るという。
そのように、子供向けに、お書きになったものも、大変に見事であり、女房は、これをそのまま、手本にいたしませと、侍女たちに言う。
少納言が、お返事しました。
お見舞いいただいた、尼君は、今日一日も、持ちそうにない状態です。
山の寺に、引き移りますところ、このように、お見舞いいただきましたお礼は、あの世にて、申し上げるでしょう。と、ある。
君は、深く、あはれ、と思う。
この場合の、あはれ、とは、切ない、気の毒、様々な、情の思いである。

いとあはれ
大変に、あはれ、である。
あはれ、に込める心のあり様である。




秋の夕べは、まして心のいとまなく、おぼしみだるる人の御あたりに、心をかけて、あながちなるゆかりも、尋ねまほしき心も、まさり給ふなるべし。「消えむ空なき」とありし夕べ、思し出でられて、恋しくも、また、見ば劣りやせむ、と、さすがにあやふし。

源氏
手につみて いつしかも見む 紫の ねに通ひける 野辺の若草

これは、原文のまま、もののあわれ、というものを、書き表すのである。

秋の夕暮れは、ひとしお、物思いのやむことなく、恋焦がれるお方から、心は離れない。
少しの縁でも、尋ね求めたいと思う気持も、今まで以上に強いものである。
「死に切れない」と尼君が、詠んだ夕方が、思い出される。
若草の君を、恋しくも思い、また、一緒にいれば、その不足、欠点も、見えるであろうと、思い、不安にもなる。

我が物と、早くと思う。紫草、藤壺の君に、縁のある、あの若草の君を。

若草の君という、存在を、取り払い、源氏の心境のみを、取り出してみる。
そこには、もののあわれ、というものの、心象風景が、広がる。

これが、後に、新古今にも、受け継がれる、あはれ、となるのである。

更に、日本人の、心の原風景となる、物思いともなる。

秋の夕べは、まして心のいとまなく
心をかけて、あながちなるゆかりも、尋ねまほしき心も

西行にも、それは、受け継がれる、歌詠みに、受継がれる。

もののあわれ、というものの、その、原風景が、源氏物語にある、所以である。
更に、それは、万葉集、万葉の時代、そして、それ以前の、意識曖昧な、時代からの、日本人の、微妙繊細な、心の風景であると、私は言う。

古事記、日本書紀よりも、なお、日本の心を、尋ねるならば、万葉集に、ありと、私は言う。

神世の時代とか、神話の時代というが、私は、人の心の時代という。
心の、原風景の時代である。
勿論、それは、縄文期からのものである。



posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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