大乗仏典の、根拠無き、誇大妄想を知る上でも、必要だと、思えるからだ。
インドは古来幾多の民族の活動舞台となり、そこで多数の民族の文化が栄えたのであるが、インド文化形成の主動的地位を占めて来たものはアーリヤ人である。インド人の用いる主要な文化語はほとんどすべてアーリヤ人の言語に由来するものである。
中村元 インド思想史
ここで、アーリヤ人の言語に由来する、ということが、重要である。
それでは、アーリヤ人の前は、どうだったのか。
西暦前3000前より、発生し、それから、前2000年にかけて、インドには、インダス文明が起こり、その文明の担い手、つまり、ある一民族が一定の都市計画の元に、都市を建設していたということである。
この文明は、広く、西暦前1500年頃まで、続いたと言われる。
インダス文明とは、何か。
この文明の文字の解明が、未だされていないという。
ただ、後世のインド民間信仰と密接な関係があると、推測される。
それは、地母神である、シヴァ神の像の原型らしいもの、性器崇拝、樹神、動物崇拝が、確認されている。
特に、牝牛が、崇拝の対象だった。それは、今でも、続いて、インドでは、平然と、牛が、街中を、闊歩している。
更に、禅定、沐浴も、行われていた。
しかし、寺院や、祭壇などは、無い。祭具というのも、見つからないようである。
アーリヤ人とは、信仰を異にしていたことは、確かである。
アーリヤ人が、インドに侵入して来た時、インドには、ムンダ族という、民族が北部インドに、生存していたことが、確認されている。
現在も、ムンダ族は、インド奥地に生存しているが、一般インド人よりも、生活程度が、低く、差別待遇を受けている。
さて、アーリヤ人の、敵対者は、ドラヴィダ人であった。
しかし、鉄を使用した、アーリヤ人に征服されたのである。
この、ドラヴィダ人は、守護神として、女神を崇拝し、性器崇拝、蛇神、そして、樹木崇拝も、行っていた。
この、習慣が、実は、インドに後々まで残ることになるのである。
アッサム、ベンガルの一部、ナーガランドには、蒙古系の種族が住み、彼らも、一般インド人とは、異なる習慣を持つ者である。
アーリヤ人は、西洋人と同じ祖先に由来する、人種である。
原住地は、コーカサスの北方地域であったとする、説が有力である。
彼らは、遊牧民として生活していた。
家畜の名称に関して、インド・ヨーロッパの諸言語に、類似性が認められるという。
ただし、穀物の名称には、それが無い。
西方に向かった者は、ヨーロッパに定住して、諸民族となる。
東方に向かった者は、西トルキスタンに数世紀定住して、その一部が、東南に進み、イラン人となる。
東南に進んだ者は、西北インドに入り、五河地方を、占領した。インド・アーリヤ人である。これが、西暦前、13世紀末といわれる。
その彼らが、前1000年頃までに、リグ・ヴェーダの、宗教を起こしたのである。
リグ・ヴェーダは、インド・ヨーロッパの、最古の文献である。
インド、最古の文献とも、言われる。
リグとは、讃歌、ヴェーダとは、知恵、転じて、バラモンの聖典となった。
アーリヤ人は、野蛮である。更に、武器と、戦術に勝れて、原住民である、ドラヴィダ人らを、征服し、駆逐してしまうのである。
原住民は、アーリヤ人の下に、隷属し、インドにおける、最下の、位置に置かれた。
だが、まだ、今に至る、カースト制までには、至らなかった。
当時の、アーリヤ人は、血縁関係、言語、宗教の、自覚はあったが、部族間の、政治的統一性は、無い。
つまり、統一国家なるものは、存在しない。
さて、リグ・ヴェーダである。
今日に至るまで、それは、暗唱によって、伝えられるという、驚異である。
前、1000年から、800年頃に、編纂されたというが、作製は、1200年から、1000年である。
アーリヤ人は、家庭の祭壇に、供物を捧げ、更に、大規模な、祭祀を行っていたという。
リグ・ヴェーダの宗教観は、多神教である。
神々の多くは主として自然界の構成要素・諸現象あるいはそれらの背後に存すると想定された支配力を神格化して崇拝の対象としたのである。
中村元
天神、太陽神、暁紅神、雷神、暴風神、風神、雨神などなど。
これらの、神々に対して、神話が発達することにより、それが、擬人化されて、独自の性格、性行が、与えられ、次第に、自然現象とは、関連なく、固定されていった。
例えば、インドラとは、理想的戦士である。後の、帝釈天と呼ばれるもの。
サラスヴァティーとは、西北の河の名前であるが、女神と、崇められて、財と富みの神とされた。後の、弁財天である。
更に、定住することによって、自然界の、関係はなくなり、抽象的観念による、神観念が、起こったのである。
抽象的観念である。
これが、後に、宗教という、観念を生むことになる。
要するに、人間の勝手な観念である。
この抽象的観念に、おいて、人生を意味付けするという、思考法が、現れた。
それが、宗教観念である。
私の指摘は、そこにある。
抽象的観念による、宗教とは、抽象的である。
何一つ、確定したものは、無い。
リグ・ヴェーダの後に、哲学思想の、萌芽である。
当然、変だと思う人が、現れる。
無いものを、在るとする、考え方を、おかしいと思う人である。
空想の産物を、崇拝しては、おかしいと、気づくのである。
一気に、飛躍すれば、空想の神や仏というものを、崇拝するのは、おかしいと、気づく人である。
つまり、妄想であると、気づく人である。
私も、その一人である。