2008年10月18日

神仏は妄想である 178

「諸仏如来は菩薩を教化したもう」
と、おっしゃったのです。「仏は菩薩だけを教化されるので、声聞や縁覚は、仏の弟子ではないぞ」というわけですから、なんだか「仏は一切衆生を悟らせるためにこの世に出てきたのだ」ということばと矛盾があるようですが、よく考えてみると、そうでないことがすぐわかります。

中略

さて、「仏は菩薩を教化したもう」ということばの真の意味は、「自分だけ悟って、それでいいと思っているうちは、ほんとうの悟りではないぞ。ほかの大ぜいは悟っていないが、自分だけは悟っているのだという気持ちは、大ぜいと離れた気持だ。大ぜいと溶けあっていない、孤独な気持だ。まだ「我」の気持が残っていて、「諸法無我」の境地にはいっていない。だから、ほんとうの悟りではないのだ。自分も悟り。みんなも悟る。自分も救われ、みんなも救われる。みんないっしょに救われなければ、ほんとうに救われたことにはならない―― このことがわかったときこそ、ほんとうに悟ったといえるのだ。解脱したといえるのだ」ということなのです。
庭野

この、傲慢な考え方が、大乗仏教というものである。

声聞や、縁覚とは、小乗の人々である。
それらは、自分だけの、悟りと、救いを求めているというのである。
それこそ、宗教の基本なのであるが、それを、大乗は否定する。

あろうことか、皆を、悟らせ、皆を、救うというのである。

私も、他も、悟り、救われる道が、大乗であるという。
だから、余計なお世話、余計な、言動、余計な妄想を、吹き込むのである。

何度も言うが、大乗経典とは、釈迦仏陀の言葉ではない。
皆々、勝手に、創作したものである。

「我」の気持が、残っていて、諸法無我の、境地に至っていないという。
一体、人間を、何だと、心得ているのだろうか。

だから、あんたも、大乗仏典を信じて、悟りを得なさいと、勧めて、はいそうですかと、他の宗教の人が、返事をするだろうか。
また、私というものを、いつも、考えて行動している人、生きている人が、はいそうですかと、答えるだろうか。

実に、傲慢、偏狭、独善である。

そして、大乗の人は、小乗の、つまり、釈迦仏陀の、弟子まで、登場させて、従わせるという、架空のお話を、作るのである。

それとおなじように、自分が悟ろう、救われようとばかり思っているうちは、舎利佛のような大智慧者でも、仏の悟りのほんのすぐ近くまできていながら、その間にある小さいようで大きい溝がどうしても跳び越せない。ところが「大衆といっしょに救われるところにほんとうの救いがある」ということがわかったとたんに、パッとその溝が跳び越せるのです。
庭野

大衆と、一緒に救われるという、妄想である。

大乗仏教の、誤りが、これで、解るのである。
人を、教化、きょうけ、しようとする、傲慢は、甚だしいのである。
仏弟子の、智慧第一の、舎利佛でも、悟りのすぐ近くに来ていながら、小さいようで、大きな溝があり、悟っていないという、作り事である。

これで、大乗仏教というものが、小乗仏教、初期仏教、更に、釈迦仏陀の、弟子たちさえも、否定していることは、明白である。

親を、否定して、子供が成り立つものか。

それを、もって、大乗は、悟らなくても、まず、布教であると、誰彼なく、教えを伝導していった、過程がある。
皆で、悟り、皆で、救われるという、おめでたさ、である。

それを、象徴する、この法華経が、心ある、霊能力者によって、悪魔の経典と言われる所以がある。

インド魔界の、神々を、守護に置き、悟りという名の、魔界の、世界に引きずり込むという、手はずである。

釈迦仏陀は、魔界の存在に、十分気づいていたが、それらに関しては、沈黙していた。必要ないことだからである。
つまり、心静かに、冷静に物事の推移を、見詰めていれば、自ずと、それらのことが、解ると、知っていたからである。

また、死後の世界に関しても、沈黙を持って対処した。
更に、成仏などという言葉も、使わない。
一切の、妄想を、嫌った。

今を、生きることに、専念することであると。

更に、屁理屈の言葉の世界も、嫌った。
初期仏典も、装飾してある。もっと、素朴なものだった。
言葉の羅列を、嫌った。

ここで、少し話を転じてみる。

釈迦族は、モンゴロイドである。
弟子たちの多くは、インドに、侵入してきた、アーリア人が多い。
この、アーアリア人たちが、バラモン、そして、カースト制の、ヒンドゥーを作り上げた。

大乗経典も、アーアリア人が大半である。
サンスクリット語が、ドイツ語に、翻訳されやすはずである。
言語体系も、似ている。

明治期から、徐々に、西洋の仏典訳が、入ってきた。
それは、特に、小乗系のもの、多数。
次第に、それに、影響を受け始めた、日本仏教と、仏教学者たちである。

それを、嘆く者がいるが、日本の仏典も、元は、漢訳である。
最初は、漢訳によって、仏教というものを、学んだ。

もし、明治期の、西洋からの、仏典による、揺らぎがあるとするならば、それよりも、大きなものは、宗教学である。

西洋の宗教学の定義により、すべての、宗教行為を、判断するという過ちを、犯したことである。

仏典の、訳に大差は無い。
宗教概念に、大差はある。

日本の伝統を、神道という、宗教の枠で、捉えたことである。
更に、古神道に至るまで、その宗教観念で、測ったことである。
これは、実に、過ちであった。

ユダヤ人のユダヤ教が、ユダヤ人の伝統である如く、日本の神道も、伝統である。

ユダヤ人の、自己統一性が、旧約聖書であるように、日本人の、自己統一性も、神道、及び、古神道である。

ユダヤ人は、ユダヤ教を、宗教ではなく、伝統としているはずである。

キリスト教は、その旧約聖書を、キリスト以後から、借用して、新約聖書を加えて、宗教を、立ち上げた。
そして、イスラムも、旧約聖書を、借用して、イスラム教を、立ち上げた。

大乗仏教は、小乗、初期仏教を、借用して、宗教を立ち上げた。

伝統は、所作を、もって、善しとする。
ユダヤ教人も、ユダヤの所作を、持って当たる。

日本の神道も、所作を、持って当たる。

ただ、神道のいう、魂振り、魂鎮めという、鎮魂法は、釈迦仏陀という、涅槃の境地と、同じである。
ただし、インド魔界の、霊的想念は無い。

釈迦仏陀、古神道も、所作によるという、明確さがある。
つまり、行為なくして、有り得ないということ。

言葉の羅列ではないのです。
行為、所作によるから、こそ、そこに、言葉に出来ない、意味を、意義を、そして、言葉を超えたものを、感得するのです。
それは、言葉に出来ないもの。

瞑想を、語る者が、いれば、嘘です。
悟りを、語る者がいれば、嘘です。
唯一を、語る者がいれば、嘘です。
真理を、語る者がいれば、それも、嘘です。

大乗仏典は、方便でと言いつつ、嘘八百を書いて、更に、名言、迷言を、沢山書いて、膨大な、妄想を、積み重ねて、今に至る。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第4弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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