2008年10月17日

神仏は妄想である 176

やめよう舎利佛、これを説明してみても、わかるはずがない。なぜなら、仏がきわめられたその真理というのは、この世に類のない、普通の人間にはとうてい理解することのできないものであって、ただ仏と仏とのあいだだけで理解できる真理なのです。だから、仏にならなければわからないのです。
庭野日敬

仏典にさえ、このような、無明、蒙昧なことを、書くのである。
普通の人間には、到底理解出来ないという。仏と仏で、理解出来るというのである。

勿論、特別な世界のこと、専門的なことならば、専門家に適わないが、この真理という、主観的なものを、云々して、理解できるものではないという。
それでは、法華経を、掲げる人や宗派、団体の人々は、理解したのであろうか。

きっと、理解していると、思い込んでいるのであろう。

何せ、仏陀も、救えなかった人々を救うために、生まれてきた人であるという、仰天することを、言う人もいる。
この場合の、救うという言葉は、何を意味しているのか、解らない。
救いというものが、あるのだと、思い込むのであろう。

さて、続ける。

その真理とは、この世のすべてのものに通ずる真理です。すべてのものごとが「現象」としてそとに現れるときのすがたや性質(相、性、体)はどんなものか、それらのもっている力やはたらき(力、作)はどうであるか、その性質や力が互いに作用しあって変化してゆくのに、どういう原因(因)が、どいう条件(縁)によって、どういう結果(果)を生み、その結果のあとにどういうことがら(報)が残るかという法則です。また、その法則は、形あるものにも、ないものにも、一切のものにあるのであって、この法則によらずに存在しているものはひとつもないということ(本末究意等)です。
庭野

法華経の訳である。

如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究意等

十如是という。物事のカラクリであるという。

この十如是が、展開した「一念三千」という考えこそ、仏の述べられた「真理」そのものであるといえるのですが、いまここでそれを詳しく説明するのは、世尊もご心配なさったように、理解しにくいかもしれないし、理解に混乱を生ずるといけませんので、ずっとあとにまわし、そこで徹底的に説明することにいたします。
庭野

実に、解りやすく、説明している。

そして、学習主義の教え、体験主義の教え、更に、大衆を救うことによって、救われるという、行動主義の教え、それが、つまり、大乗の教えという。
それは、皆、方便であるということ。
仏の方便力の偉大さ、なのであると、いう。

学習、体験主義は、小乗である。
行動主義が、大乗なのである。

衆生との、区別を、はっきりとつけて、更に、小乗の者を、増上慢として、裁くという、手法である。

大乗に言わせると、小乗の人は、解っていると、思っているという。
自分は、知っていると、思い込んでいる、それを、増上慢と、呼ぶ。
慢心一杯の者という、意味である。

大乗仏教は、多くの人によって、実に、巧みに教義が、練られていった。
それは、認めることが出来る。が、小乗を、否定しまっては、大乗も、否定することになるということに、気づかない。何故なら、小乗という、初期釈迦仏陀の、集団によって、起こったものであり、そこに、実在の釈迦仏陀がいたのであり、大乗経典の、仏なるものは、架空の、妄想の存在である。

どうして、このようなことになったのか。
それは、小乗の人々によるものでもあった。
その世界に、閉じこもってしまったが故に、釈迦仏陀の教えを、慕う、在家の信者の人々が、新しい釈迦仏陀の教え運動を、始めたのである。
そこに、一部、小乗の僧も、駆けつけた。

それからが、大乗のはじまりである。

釈迦仏陀の、教えを、飛躍させて、この法華経のように、壮大な物語を、創作する。更には、教義である。
それは、上塗りし、上塗りして、作られていった。
そこに、インド思想も、上塗りされて、とんでもない、誇大妄想に至ったという、経緯がある。

お話だから、何とでも、書ける。
更に、教義にしたいことを、経典にして、書く。
嘘の上塗りを、重ねて、ここまで来た。

釈迦仏陀の、言葉など、初期仏教経典に、僅かに、残るだけになった。
それも、寝惚けたような、言葉の羅列である。

それを、いいことに、大乗仏教は、それそれと、教義を上塗りし、とんでもない、菩薩や、如来を、作り上げて、堂々と、仏陀の教えと、掲げた。
そして、今、釈迦仏陀の地には、仏教というもの、廃れて久しい。

その、何とでも解釈のつく、大乗仏教を、もって、日本の仏教もある。ただし、仏教といえるのか、どうかは、解らない。
仏教というものが、そのようなものであれば、仏教なのであろう。

さて、仏教の定義とは、何か。
釈迦仏陀という、実在の、人物が、説いた人の、教えというならば、大乗仏教とは、言うことが、出来ない。
新興宗教である。

新興宗教仏教というのであれば、いたしかたない。

日本には、宗派、または、宗旨というものがある。

天台、真言から、浄土、法華、等々は、まさに、新興宗教である。
それ以前の、奈良の仏教がある。
南都仏教である。

南都の仏教、奈良の寺は、檀家を置かない。
故に、拝観料で、やっと、維持している様子。
葬式も、行わない。つまり、仏教の僧が、葬式を、取り仕切らなかったということが、わかる。

天台以降の、宗派は、今は、葬式専門である。
大乗の教えも、行わない、大乗仏教になって、久しい。

行動主義の、仏教と、掲げたが、行動も、しない。
安穏として、檀家、信徒、信者から、搾取して憚らない。

釈迦仏陀の、教えは、どこに行ったのかと、誰も問わない。

実は、大乗の者、大乗経典、その教え、教義が、嘘であると、薄々知っているのである。

阿弥陀仏など、いるはずがない。
南無阿弥陀仏などとは、嘘である。

南無妙法蓮華経と、唱えても、なんともならんと、知っている。
ただ、唱えると、そのテンポで、少し元気になったつもりになる。

真理の教えとあらば、仏典を、取り出すまでもない。

そのまま、真理の姿を、伝えるとよい。

ところが、それが、曲者で、宗教のデパートのように、仏教も使い、神道や、その他の、宗教の教義を使い、果ては、インド魔界の神々を、使い、様々な信宗教や、研究会を、立ち上げて、宗教経典を、盾に、新しい宗教を、興すという。

信徒、信者、会員は、皆々、喜んで、搾取されるという、カラクリである。

オウム真理教という、セクト、カルトの集団になることが、すぐに出来るという、寸法である。
宗教関係に、武器を、持たせると、騒乱が絶えないのである。
どんな、穏健な、宗教団体も、武器を、持たせたら、危ない。
何故か、それが一番だと言うのである。
他は、間違い。
人間の、盲点を衝くのが、宗教のカラクリであるる

盲点とは、一度信じると、信じ込んで、排他的、非寛容を、身につけるからである。

要するに、宗教は、人間破壊の何物でもない。
宗教で、救われる人以上に、宗教で、人間破壊される人の方が、圧倒的多数である。

何せ、こんな、私の、チンケなエッセイにさえ、命懸けで、挑む者がいる。
教祖、代表、教え親に、心酔して、我を忘れる。

あはれ、である。



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神仏は妄想である 177

只今、法華経を読んでいる。

大乗仏典である。
そこには、小乗仏教との、区別化を徹底して行っている。
小乗では、救われないのだということを、繰り返し言う。
それを、あたかも、釈迦仏陀の教えのようにである。
全くの、創作である。

更に、インド魔界の神々も、取り入れて、ごちゃまぜにして、仏の最高位を、言う。
そのための、理屈の世界は、甚だしい程のものである。
それを、また、勉強して、その気になるという様、呆れて、物も言うことが、出来ない。

言葉の、定義を、知れば、知ったと思い込む。

すべての物事の、現象は、性質があり、相、性、体、それらの、働きを、力、作、どういう原因、因、どういう条件で、縁、どういう結果、果、を生み、結果の後の、報、が残る。
この法則によらずに、ないものはない。
相、性、体、力、作、因、縁、果、報、そして、それらを、ひっくるめて、本末くきょうとう、というのである。

十如是が、展開して、三千大世界が、登場するというのである。
一念は、その三千世界に、至るのである。

これは、言葉遊びである。

哲学というのであれば、一つの哲学である。
しかし、これが、宗教、つまり、拝む対象となることが、おかしい。

人間は、このような、理屈がなくても、生きられる。

確かに、釈迦仏陀は、因果の法を、教えた。しかし、それが、大切なことではなく、心を、いつも、一定の静かさに保ち、静かに息をして、静かに、心の動きを、見詰めて、生きることを、指導した。
それが、いつの間にか、とんでも、屁理屈の世界に、展開されているという、始末である。

上記の言葉を、もってして、世界のカラクリを、説明するのは、認めるが、そうではないこともあると、言っておく。
理屈の無い世界もある。

そして、仏の下に、インド魔界の神々を従えるという、狂いは、如何ともし難い。
神々の世界は、仏の下の世界であり、云々である。
それを持って、日本の神というものを、観念化した、仏教の誤りは、甚だしい。

日本には、彼らの言う神観念はない。

日本には、カムと呼ばれる、祖先霊の総称である、この世に実在した、この世に生きた、祖先の総称である、皇祖皇宗と呼ばれる、霊位を、カムとして、拝したのである。
その、カムは、隣の神々をも受け入れて、共に、奉ることを、許した。

神武天皇も、最初に皇位に就いて、地場にあった、諸々の、族たちの、奉るものを、すべて、奉って、政を、はじめられた。
政治を、そのまま、政、まつりごと、とするのは、日本のみである。

奉り事が、日本の政治である。
祖先霊の崇敬を、もってして、すべてが、はじまるのが、日本という国である。
そこに、理屈は、無い。

教義も無い。

その、祖先霊を、自然のもの、すべてに、自然を持って、自然を拝して、祖先霊への、崇敬を、行ったのである。

想像、妄想の神々とは、全く違うのである。
日本には、想像の神観念は皆無である。

そして、それが、伝統である。

もし、因果の法で、見れば、釈迦仏陀の、釈迦族は、釈迦仏陀の目の前で、滅ぼされている。何故か。これも、釈迦が、悟りを得ていない証拠である。

まだまだ、釈迦が、悟りを得ていない、証拠は、ある。

釈迦仏陀は、救いなどを、説いてはいない。
生き方指導をしたのである。何度も言う。

法華経が、魔境を作るのは、その屁理屈にある。
勿論、キリスト教の教義なども、魔境である。
宗教に、屁理屈がつくものは、すべて、魔境であり、それを、説く者も、魔界の者である。

大乗経典を、読んで気づくのは、この経を読めば、とか、この経を、人に伝えれば、とか、兎に角、経典の、読経と、人への推奨を説くのである。
経典に、功徳があるという、言い方は、大乗経典の特徴である。

正に、魔界からのものである。
人間に、あたかも、そうであるかのような、屁理屈を、教えて、その言葉に、絡めて、縛り付けるという、やり方は、魔物のすることである。

古代、太陽信仰の時は、そんなものは、一切無い。
意味の無い、世界を生きていても、十分に生きられたのである。

そこに、あえて、意味を、つけるという行為は、如何なることであるのか。

支配と、搾取以外の何物でもない。

インド仏教の保護者として、名高い、アシュカ王は、その後半は、滅びている。
更に、あの、シルクロードを席巻した、仏教信仰も、イスラムに乗っ取られている。

三蔵法師玄奘が、天竺に、旅した時代も、すでに、仏教が、退廃して、見るも無残になっていた。

何故か。
何ゆえか。
因果の法である。

一番知らなかったのは、仏教徒であるという、アホ振りである。
今では、インドでは、カースト制の下に、仏教徒は、置かれて、最下層の生活を、余儀なくされている。
それを、どのように、仏教徒、仏教愛好家たちは、見るのか。
因果の法であろう。

その、因果の法に照らして、日本を、見るがいい。
世界でも、有数の国になっている。
その、平和も、経済力も、豊かさも、である。
因果の法である。

祖先霊を、御祭りし、祖先霊を拝してきたゆえではないか。

それが、末法であり、仏の法が廃れた故であるという、屁理屈を、捏ねているのである。
悪あがきも、いい加減にである。

因果の法である。

更に、現象が、そのようになるのならば、その、現象学により、仏教の衰退を、分析するがいい。

中国仏教は、どうした。
因果の法である。
見る影も無い。

それでは、小乗仏教を保持した、国々は、どうか。
後進国として、あっても、仏教精神は、生き残っている。

因果の法である。

ビルマ、タイ、ラオス、ベトナム、カンボジア、小乗の国である。
あれほどの、共産主義に、襲われても、人々は、信仰を持ち続けて、生き抜いてきた。
因果の法である。

信教の自由の国、日本にて、大乗仏教などと、吠えても、知れたもの。
更に、未だに、法華経経典を、もって、その屁理屈を持って、仏法などという、アホ振りを晒しているのも、日本の新興宗教である。
つまり、原始信仰も、更に、真っ当な、感覚の、信仰さえも、持てないでいる。
精々、教祖の、悪魔憑きの霊能力の、下に付き添っているのである。

それが、導き出す霊界なるものは、魔界のことである。
つまり、インド魔界に飲み込まれているのである。

人生に意味など、無いのである。

物事のカラクリを、知っても、詮無いことである。

釈迦仏陀の言葉にも、病にある人に、病の説明をするより、手当てをせよという言葉がある。勿論、医療の知識を、持っている人に、手当てを受けることが、最良である。

実際、釈迦仏陀は、医療行為も、行っている。

百の言葉より、一つの行為であること、明々白日である。

意味の無い人生でも、十分に生きられるのが、人間の強さである。

花が咲き、花が散ることに意味は、無い。ただ、自然のあるがままに、委ねて、花は咲き、そして散る。人間も、同じことである。

神も仏も、人間の創造の産物である。
あるのは、祖先の霊位のみである。
実に、神仏は、妄想である。

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もののあわれ298

藤壺の宮、悩み給ふ事ありて、まかで給へり。上の、おぼつかながり嘆き聞え給ふ御気色も、いといとほしう見奉りながら、かかる折りだにと、心もあくがれまどひて、いづくにもいづくにもまうで給はず。内にても里にても、昼はつれづれとながめ暮らして、暮るれば王命婦を責めありき給ふ。いかがたばかりけむ、いとわりなくて見奉るほどさへ、うつつとは覚えぬぞわびしきや。



藤壺の宮は、ご病気になられて、お下がりになっている。つまり、里にいるということである。
上とは、帝である。
帝が、気がかりになって、嘆いていることを、源氏は、本当に、いたわしいことと、見ている。
せめて、こうした時にでも、藤壺にお会いしたいと思うのである。
心もあくがれてまどい、とは、心も上の空になって、憧れるのである。
他の女性のところへは、どこにも、参らない。
宮中にても、自宅でも、昼は、ぼんやりとして、物思いに沈み、日が暮れると、藤壺に、逢わせて欲しいと、王命婦を責め立てる。
命婦は、どのように手続きをしたのか、大変無理な状況で、藤壺に逢わせる段取りを取ったが、それが、現実になることなのかと、源氏は、酷く辛い思いをしている。


この段は、非常に難しいところである。
誰が、誰の思いなのかと、迷う。

しかし、名文である。
うつつとは覚えぬぞわびしき
現実とは、思えないので、辛いのである。
しかし、原文の方が、説得力がある。



宮もあさましかりしを思し出づるだに、世と共の御物思ひなるを、さてだにやみなむ、と深うおぼしたるに、いと心憂くて、いみじき御気色なるものから、なつかしうらうたげに、さりとてうちとけず、心深う恥づかしげなる御もてなしなどの、なほ人に似させ給はぬを、などかなのめなる事だにうちまじり給はざりけむ、と、つらうさへぞおぼさるる。



藤壺も、思いもよらないことだった。
かつての、密会のことを、思い出して、常の悩みとしてあったので、あのことだけで、終わりにしたいと、思うのである。
しかし、こうして、また逢ってしまったことを、辛く感じていると、共に、お怒りの、様子でもあるが、藤壺は、情が細やかで、心曳かれるほどの、可愛らしさである。
だが、源氏には、気を許さず、思慮深く、こちらが、恥じ入る程に、立派な様子である。
やはり、普通の方とは、違うと思うが、源氏は、もう少し、平凡な風情があってもいいのにと、思い、恨めしい、気持ちになる。

つまり、源氏は、少し平凡に、色事に対して、寛容になってもと、思うのである。
源氏の勝手な、思いである。

相手は、父の帝の寵愛する、宮である。

逢うということは、契るということである。
つまり、関係するということ、である。



何事をかは聞え尽くし給はむ。くらぶの山に宿も取らまほしげなれど、あやにくなる短か夜にて、あさましうなかなかなり。

源氏
見ても又 逢ふ夜まれなる 夢の中に やがて紛るる 我身ともなが

と、むせかへり給ふ様も、さすがにいみじければ、

藤壺
世語りに 人や伝へむ 類なく うき身を醒めぬ 夢になしても

おぼし乱れたる様も、いと道理にかたじけなし。命婦の君ぞ、御直衣などは、かき集め持て来たる。



どれだけのことを、源氏は、申し上げることが、できるのかと、思う。
夜明けの来ない、暗部の山に、宿りたい気持ちである。
しかし、あいにく、夏の夜である。
短い夜で、呆れるほど、夜の明けるのが、早い。
そのため、かえって、思いが、増すのである。

くらぶの山とは、近江国甲賀群の歌枕であり、いつまでも、夜が明けないで欲しいという意味である。

源氏
みてもまた あふよまれなる ゆめのうちに やがてまぎるる わがみともがな

お会いしても、また、いつお会いすることが、出来ますか、解りません。
いっそ、この夢のようなままで、消えてしまいたいものです。
死んでしまいたい。

源氏が、涙にむせいでいる、様子に、さすがに、気の毒に思う。

藤壺
よがたりに ひとやつたへむ たぐひなく うきみをさめぬ ゆめになしても

世の中の、語り草として、伝えるのでしょう。この上もなく、辛い身を、いつまでもさめない、夢の中に消してしまっても。

思い乱れている、藤壺の宮も、ごもっともな様子。
畏れ多いことです。
命婦の君は、源氏の、衣装を集めて、持って来ているのである。

命婦は、源氏の帰りを、促すのである。

父、帝の寵愛する、藤壺の宮との、密会である。
非常に、緊張感のある、場面である。
何を語る。
語るという言葉にある、色好みである。
語り尽くすとは、情を重ねるのである。
父の妃に、思い焦がれる様。恋という。

しかし、この後、藤壺は、その結果に、振るえ慄くのである。

源氏の、子を宿してしまう。

posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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