2008年10月16日

神仏は妄想である 175

巧みな方便。
中央公論 大乗仏典

方便品第二
法華経

方便とは、正しい手段という意味である。
嘘も方便は、嘘であり、本当の方便は、本当である。

腐っても鯛であり、腐ってサンマにならない。
方便とは、臨機応変である。相手に合わせて、説明するという行為になる。
それは、正しいことを、伝える手段であるということだ。

しかし、では、正しいと判定するものは、何か。
この世に、正しいというものが、あるのか。
事実としてのものはあるが、正しいという、価値判断の出来るものは、あるのか。

太陽は、正しいのか、正しくないのかを、考えない。
太陽は、在って在るものである。

宗教の蒙昧は、正しいという判断を、妄想に委ねるのである。
正しいと、信じ込めば足りる。

正さというものも、相対であり、その都度変化する。すると、それは、正しくないという。変化すると捉える方が、正しいと、諸行無常というが、教えは、相対化しないのである。

だが、そこで、方便という、実に巧みな、技を使い、撹乱させる。

仏は、すべてのものごとのほんとうの姿をはっきりと見とおしておられる方ですから、その智慧は非常に奥深くて、かぎりないものです。たいへんむずかしくて、その智慧を習うことはなかなかのことです。一切の声聞「学習主義者の修行者」やびやくし仏「縁覚すなわち体験主義者の修行者」などがとうてい知ることのできるものではありません。
庭野

平然として、書くが、これが、法華経の最大の罠である。
つまり、声聞や、びやし仏などは、とうてい知ることの出来ないものであるというのは、小乗の修行者のことである。

小乗の修行者、つまり、初期仏教団の否定である。

シャーリープトラよ、正しいさとりを得た尊敬されるべき如来たちが深い意味を秘めて語られことばを知ることは、容易ではない。それはなぜであるか。如来たちはみずから明証である法を、いろいろ巧みな方便と知見によって、すなわち原因や理由や喩えや根拠やことばの解釈や教理の設定によって、説き明かすからである。

そして、それはそれぞれに応じた巧みな方便を用いて、それぞれがちがったことに執着している衆生たちを解脱させるためである。

シャーリープトラよ、正しいさとりを得た尊敬されるべき如来たちは、偉大なる方便と知見との最高の境地に達せられている。

彼らは執着なく、障害のない知見を有し、仏陀としての十の力、四つのおそれなき自信、十八の仏陀に特有な性質、五つの機能、五つの能力、七つのさとりを助ける部分、禅定、解脱、三昧、等至という、未曾有の特性をそなえ、種々の教えを説くのである。

中略

シャーリープトラよ、如来が知る法を、如来こそが如来に対して説かれるのである。あらゆる法をすべて、シャーリープトラよ、如来こそが説くのであり、あらゆる法をすべて如来のみが知るのである。
大乗仏典

そして、世尊が、延々と、詞を述べるという、段取りである。

たとえ、お前のような賢者たちで十方の世界が満ちており、またそれ以外に私の声聞たちがいて、そのものたちで同じように全世界が満ちているとして、彼らのすべてがいま一つになって、善逝の知を考察したとしても、これらすべてが総がかりになっても、私にある無量の仏陀の知をそのまま知ることはできない。
大乗仏典

この、知ることが出来ない。わからないであろう。
つまり、小乗の否定なのである。

更に、仏陀の言葉に疑問を、投げ掛け、ついには、そこを立って去ってしまうという、小乗の皆々、それを、仏典は、こう書く。

そこで、世尊は、尊者シャーリープトラが三たびにわたって説法を懇願するのを知って、尊者シャーリープトラにこう言われた。
いまや、シャーリープトラよ、お前は三たびまでも如来に懇願した。このように懇願しているお前に、どうして私が説かないであろうか。だから、シャーリープトラよ、正しく聞きなさい。よく心のうちに思いなさい。私はお前に説くであろう。
大乗仏典

世尊がこのことばを告げられるやいなや、そのとき、その集会にいた、思いあがっている増上慢五千人の、比丘、比丘尼、信男、信女が席を立って、世尊の両足を頭にいただいて敬礼して、その集会所から去っていった。なんとなれば、思いあがったものはその昔の善くない行為のために、まだ得ていないものを得たと思い、まだ理解していないものを理解したと思っているからである。彼らは自分に欠陥のあることを知らないで、その集会所から出ていった。世尊はまた、無言でそれを許された。
大乗仏典。

要するに、シャーリープトラ、つまり、仏陀の、智慧一番の弟子といわれた者を、出汁にして、更に、初期修行者たちを、このように扱うことで、小乗の者たちを、判定したのである。
それは、彼らは、思いあがり、得ていないものを、得たと思い、理解していないものを、理解したと、思っている。
自分の欠陥を知らないという。

このような、でっち上げの話に、小乗の修行者たちを、当て嵌めて、断定したのである。

徹底した、小乗の否定である。

大乗仏典は、小乗の否定により、成り立つ。
それが、特に、法華経の特徴であるといえる。

法華経を、読み込み、理解したものは、すべからく、仏教とは、大乗であり、小乗は、仏教ではないという、蒙昧を言う。
小乗を、否定して、大乗が成り立つという、矛盾を、感じないのである。
小乗を、否定すれば、大乗も、否定される。
なんとなれば、小乗の教え、行為があって、大乗という、新しい考え方があるのである。

ところが、こうなってしまえば、大乗のカラクリが読めて、その魂胆が、どのようなものであるかが、よく解るのである。

初期、釈迦仏陀の弟子たちも、自分たちの下に置くという、大乗の者である。

そして、とんでもない、壮大な物語、法華経を創作した。

更に、である。
実に、くどい。
繰り返し、繰り返し同じ言葉を重ねる。

舎利佛よ、いままで述べたことをひっくるめていえば、普通の人間では想像することもできない、いままで誰も達したことのない最高の真理を、仏はすっかり悟られたのです。
庭野

釈迦仏陀の弟子、舎利佛を、登場させて、語らせるという、手である。
普通の人間、最高の真理。

読み流していれば、気づかないが、普通の人間とか、最高の真理という言葉、実に、曖昧であり、模糊である。
曖昧模糊という。

最高の真理というものもあるのだろう。
普通の人間ではない人間も、いるのだろう。

延々と、くどく、反復して、書き進める経典の、真実とは。
単なる、小乗の否定であり、大乗の肯定である。

得ていないのに、得たと思い、理解していないのに、理解したと思うという。
確かに、多々そういう人はいる。
私も、その一人である。
しかし、私は、得たとは、思わない。理解したとも、思わない。
知らないことは、知らないのである。
そして、知らないことが、多いと、知る者である。

自己否定を、徹底的にさせて、弱ったところに、教義を、埋め込むという、宗教の、手口は、十分に解った。
信じ込めば、事足りる。
信じさえすれば、思うツボである。
そして、骨まで、しゃぶられる。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第4弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

もののあわれ297

わざとかう御文あるを、僧都もかしこまり聞え給ふ。少納言に消息して会いたり。委しく、思し宣ふさま、おほかたの御有様など語る。言葉多かる人にて、つきづきしう言ひ続くれど、いとわりなき御程を、いかにおぼすにかと、ゆゆしうなむ、誰も誰も思しける。御文にも、いとねんごろに書い給ひて、例の中に、源氏「かの放ち書なむ、なほ見給へまほしき」とて、


源氏
浅香山 あさくも人を 思はぬに など山の井の かけはなるらむ

御返し
尼君
汲みそめて 悔しと聞きし 山の井の 浅きながらや 影を見るべき

惟光も同じ事を聞ゆ。「このわづらひ給ふ事よろしくは、この頃過ぐして、京の殿に渡り給ひてなむ聞えさすべき」とあるを、心もとなうおぼす。



改まり、このようにお手紙を下さるのである。
僧都も、恐縮した旨を、申し上げる。
惟光は、少納言に申し入れて、面会した。
事細かに、君のご真意と、口上なさること、日頃の、様子などを話す。
雄弁であり、その人柄に相応しい話し方をするが、それは、少しばかり、無理がある。
どういう、つもりなのであるかと、ゆゆしうなむ、とんでもないことのように、思うのは、尼君だけではない。
ここでは、少納言とは、尼君のことである。
君の手紙も、惟光の、口上と同じで、とても、情けを込めて、書かれてあり、いつも、同様の、結び文であり、
源氏が、その、放ち書き物を、是非、拝見したいと、書いてある。

源氏
あさかやま あさくもひとを おもはぬに などやまのいの かけはなるなむ

とても深く、あなたを思うのです。どうして、私から、あなたは、離れるのでしょう。

これは、万葉集が出典である。
浅香山 影さえ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思はなくに


御返し
くみそめて くやしとききし やまのいの あさきながらや かげをみるべき

汲んでみて、後悔したと、聞きました、山井戸の浅いままで、こちらの影が、映せましょうか。真心を確かめてからに。

これは、古今集からの出典である。
くやしくぞ 汲みそめてける 浅ければ 袖のみぬるる 山の井の水

惟光も、この返事と、同じ口上である。
こちらの、病気がよくなれば、もう暫くして、京のお宅に、お帰りになります。その上で、お返事します。というのである。
心細く思われる。


源氏は、惟光を、使いに出して、手紙と共に、気持ちを、伝える。
その、惟光であるが、これまた、実に、雄弁なのである。
更に、源氏の手紙と、同じことを言う。


惟光について、私は、今まで、何も書いてこなかった。
惟光は、源氏の乳母の、子供である。
つまり、源氏と、同じような年、少し下であろう。

源氏に対して、忠臣を尽くす。
源氏の思いを、我が思いとして、行為行動するのである。

私は、これに、同性愛行為を見る。
源氏の、好色の行為に、忠実に、付き合い、更に、手引きまでする。
この、伝統は、武士道にまで、引き継がれる。

君と家臣の付き合いは、基本的に、同性愛である。

女色と、男色は、別物である。

ここまで、源氏の心を、汲んで理解し、そして、それを、成就させようとするのは、一心同体である。
忠実な、僕というより、情を交わした相手である。

小君という、少年もいたが、源氏は、小君に対しても、同性愛行為を、持って臨んでいる。寂しいから、と、一緒に寝るのである。

作者、紫式部は、それ以外に、触れないが、また、源氏物語、研究をする者は、それには、全く触れないが、それは、当然あるものであるとの、前提で、書いているのである。

そして、その、伝統ともいえる、男同士の関係は、江戸時代まで、続くのである。
しかし、明治期になり、西洋の、同性愛という、誤った、考え方、特に、キリスト教によるものであり、病気であり、罪であるとの、判定を、受け入れてから、誤解の誤解に至る。

日本の男同士の関係を、西洋の、同性愛という、観念で、取り入れて、伝統を、壊したのである。

以後、それは、変形し、変質し、更に、戦争により、歪なものになり、とんでもない観念を作り上げた。
武士道というものの中には、男色、男同士の恋愛が、欠くことのできないものであると、断定しているのである。

その関係を、書く事のない、武士道は、偽物である。

何も、同性愛性交を言うのではない。
西洋は、性交のみに、焦点を当てる。話にならない。野蛮な彼らの、考えることである。しかし、同性愛性交は、西洋の方が、激しいという、アホらしさ。

命を、預ける関係を築く、日本の武士道である。
更に、それは、由緒ある、伝統なのである。
性交ではない。情緒なのである。
日本における、男性同性愛における、基本的、関係軸は、情操、情緒として、考えなければ、理解出来ないものである。
すべては、キリスト教による、西洋思想が、潰してしまったのである。

posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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