2008年10月15日

もののあわれ296

かの若草の生ひ出でむ程のなほゆかしきを、「似げない程と思へりしも、道理ぞかし。言ひ寄り難き事にもあるかな。いかに構へて、ただ心安く、迎へ取りて、明け暮れの慰めに見む。兵部卿の宮は、いとあてになまめい給へれど、にほひやかになどもあらぬを、いかでかの一族におぼえ給ふらむ。一つ后腹なればにや」など思す。ゆかりいと睦まじきに、いかでか、と深うおぼゆ。



あの、若草が生長するのが、見たいと、たまらないが、年が不釣合いだと、尼君たちが、考えたのも、最もなことである。
口説きにくいことである。
なんとか、工夫して、気楽に、邸宅に迎え入れ、一日中、相手にして、悩みを忘れたい物だ。
兵部卿の宮は、とても、品があり、洒落てもいるが、色艶があるわけではないのに、どうして、あの一族の、あのお方に、似ているのか。
同じ、皇后さまの、子供だからか。
なとど、考えられると、その縁に、親しみを感じて、切にと、思われるのである。


なほゆかしき
成長する様を見たいと言う。
ただ、なほゆかしき、という言葉を、現代語に訳すことは、無理である。
成長する様の、その過程を、なほゆかしき、と、表現する様は、微妙な、ニュアンスである。
日々に、少女が、女になる過程を、なおゆかしき、というのである。
ある意味では、実に、艶かしいのである。


作者、紫式部は、男というものの、本性を見抜いていたのか。
男が、女を、思うが如くの、女に教育するということが、理想であると、見ていたのである。

ゆかしき、は、後に、奥床しい、という、大和言葉になる。



またの日、御ふみ奉れ給へり。僧都にもほのめかし給ふべし。尼上には、源氏「もてはなれたりし御気色のつつましさに、思ひ給ふる様をも、えあらはしはて侍らずなりにしをなむ。かばかり聞ゆるにても、おしなべてたらぬ志のほどを御覧じ知らば、いかに嬉しう」などあり。



翌日、お手紙を、差し上げた。
僧都にも、ご挨拶と、共に、頼みの事を、それとなく書きつけた。
尼君には、取り合っていただけなかったことに、気が引けて、考えておりますことを、十分に、お伝えできなかったことが、残念です。
重ねて、申し上げますことを、並々ならぬ、私の思いの強さと、思ってくだされば、どんなに嬉しいことか。などと、書いた。


ほのめかす
何となく、それと、解るように、語ることを、ほのめかす、という。
現在でも、使用されている言葉である。




中に小さく引き結びて、

源氏
面影は 身をも離れず 山桜 心のかぎり とめて来しかど

夜の間の風もうしろめたくなむ」とあり。御手などはさるものにて、ただはかなうおし包み給へる様も、さだ過ぎたる御目どもには、目もあやに好ましう見ゆ。「あなかたはらいたや。いかが聞えむ」と、思しわづらふ。尼君「ゆくての御事は、なほざりにも思ひ給へなされしを、ふりはへさせ給へるに、聞えさせむ方なくなむ。まだ難波津をだに、はかばかしう続け侍らざめれば、かひなくなむ。さても、

嵐吹く 尾上の桜 散らぬ間を 心とめける ほどのはかなさ

いとどうしろめたう」とあり。


中に、小さく、結び文にして、つまり、この形は、恋文の形である。

おもかげは みをもはなれず やまざくら こころのかぎり とめてこしかど

山桜の、美しい姿が、私の心から、離れない。私の心は、すべて、そこに置いてきました。

夜の間の風が、気がかりです。と、書く。
筆跡は、勿論、無造作に包んだ、その包み方も、年寄った方には、眩しいほどに、見えるものである。
尼君は、ああ、恐れ多い。何と、お返事を申そうと、思案に暮れる。
尼君は、お出かけ際の、お言葉には、ご冗談とも思いましたが、このように、お手紙を頂きまして、お返事のしようもありません。まだ、なにわづ、さえ、満足に書けませんで、折角の、お手紙も、如何にも出来ないことで、ございます。
それにしましても、

あらしふく おがみのさくら ちらぬまを こころとめける ほどのはかなさ

すぐに、嵐の吹く峰に、咲く桜です。その散らない間だけ、ご熱心では、頼りなくて・・・

いっそう、気がかりに、思います。と、書いてある。

まだ難波津をだに
連綿体という、書体の続き文字のことである。
それさえ、まだ、出来ないという。



僧都の御返りも同じさまなれば、口惜しくて、二三日ありて、惟光をぞ奉れ給ふ。源氏「少納言の乳母といふ人あべし。尋ねて、委しう語らへ」など宣ひ知らす。惟光「さもかからぬ隈なき御心かな。さばかりいはけなげなりしけはひを」と、まほならねども見し程を、思ひやるもをかし。



僧都の、返事も、同じようである。
残念で、二三日を経て、惟光を、使いに、立てた。
源氏は、少納言の、乳母という人がいるはず、それに逢い、細かに話し合えと、言う。
これ程に、抜け目のない心なのかと、惟光。
あれ程、子供っぽい様子だったのが。
明確ではないが、盗みみた時の事を思い出し、おかしくなる。笑いたくなるのである。

まほならねども見し程を、思ひやるもをかし
とは、作者の注釈であろう。
惟光の心境にかけて、作者の、感想である。

作者は、源氏を、突き放して見ている。
それが、また、面白い。
作者が、作り上げる、人物を、作者が、評すのである。

これ、作家の余裕である。



posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神仏は妄想である 174

その最後の日月燈明仏は、大ぜいの人びとに対して大乗無量義経を説かれ、そしてそれが菩薩の道の教えであることと、仏はいつでもその教えがひろまるようにと念じて守っていらっしゃることを説かれましたが、説法を終わられると、大衆の中にじっとすわって三昧におはいりになりました。
庭野

これは、小乗との、完全決別である。
大乗が、勝れているということを、言うのである。

菩薩という言い方は、大乗の言葉であり、小乗では、羅漢という。
羅漢より、菩薩が、勝れているというのである。
小乗否定である。

大乗の始まりは、釈迦仏陀を慕い、ストゥーバ信仰をしていた、在家の人々と、小乗の専門的知識を、持った僧たちとの、合体である。

小乗の僧たちは、教えの観念に、七転八倒し、釈迦の教えを、自分たちのために、使用した。在家の信者や、大衆に対する、行為行動をするという、感情が薄かったといわれる。

仏滅後、500年を経ると、そのような状況になっていたのである。
しかし、小乗は、陸路を通り、ビルマ、タイへ、そして、チベットへと、伝播していった。
現在も、東南アジアは、小乗仏教を持って、仏教という。


弥勒よ、そのとき、その集まりにたくさんの菩薩があって、法を聞こうと待ち望んでいましたが、この不思議な光を見て、みんなそのわけを知りたいと思いました。その中の一人に妙光という菩薩がありました。日月燈明仏は、やがて三昧から立ち上がって、妙光菩薩にむかって話かける形をとって、「妙法蓮華」という教えをお説きになったのです。
庭野

それは、六十万年の間、説法が続き、それを、また、聞いていたという。
六十万年でも、百万年でも、いいのだが、要するに、膨大な時間という意味である。
インド人は、そのような表現が好きである。


同じ名前で、おなじはたらきをなさる如来が、二万人も次々に出てこられるのですが、如来とは「真理から来た人」という意味ですから、絶対者すなわち仏というのと同じ意味です。つまり、仏の別名です。その仏が二万人も同じはたらきをし、同じ形でお出ましになるというのです。その最後の仏が「妙法蓮華経」という教えをお説きになった、そして、その説法は六十万年もつづいたのに、ほんの短いあいだのように思えた。―――こういう不思議な話が、どんな意味を含んでいるかは、おぼろげながらわかってもらえることと思います。
庭野

不思議ではなく、作為のある、作り話であるということ、だ。
つまり、法華経の正当性を、示す。
法華経こそ、仏陀の教えであるというもの、だ。

最後の仏が、法華経を説くというのである。
完全に、狙っているのである。
法華経第一主義である。

そして、この人は、仏を、絶対者であるとしている。
勿論、多くの仏がいるが、絶対者として、書くことは、それなりの、作為がある。
一神教的である。

法華経を、読み込み、理解を深めると、法華経による、大乗仏教こそ、仏教であると、確信する。
更に、小乗は、仏教にあらずという、極みに至る。
経典作者の、思う壺である。

私が、三蔵法師玄奘を、調べて、小説にした時、あえて、玄奘の辿り着いた、教えを書くことを、しなかった。ただ、玄奘の行為のみを、書き続けた。
実は、玄奘は、大乗のユガ経の教えを、求めていたことが、解っている。

行く先々で、小乗の僧たちに逢うが、その度に、大乗の経典を、学ぶ必要は無いと言われる。しかし、玄奘は、自分の疑問を、晴らすために、天竺に向かう。

天竺の、仏教最高学府、ラーナンダにて、小乗はもとより、大乗を学び、更に、外道の教え、バラモン等々の、インド哲学も、学び尽くす。

唐に帰国して、膨大な、経典の訳に取り掛かるのである。
その大半が、日本に来ている。

玄奘は、大局的に、仏の教えというものを、見渡していた。
小乗も、大乗も、見渡して、仏教というものを、解釈した。
そこでは、すべて、方便であるという、結論に行き着いた。
何故、経典の翻訳に、後の人生を、賭けたかというと、後世の人のためである。後世の人が、仏教を学ぶために、翻訳に賭けた。
本人は、はっきりと、自分は、学を求めていたが、禅定や、他の修行法を、為していないと、告白している。

その最後の様は、実に謙虚であった。
だが、唐では、法相宗という、宗派を立ち上げている。
ただし、当時は、宗派というものの、意識は薄い。どの派閥にいても、他の派閥の教えを、学ぶことが、出来た。それは、日本の仏教も、そうである。
空海によって、それが、制限された。
空海は、他の宗派の者は、許さないという、姿勢を取った。

さて、法華経である。
そのようにして、最後の教えと、絶対者である、仏が、説いたということである。


いよいよ入滅のときの近づくのをお知りになった釈尊は、後世の人類のために、八十年のご生涯に得られた中でいちばん大切な遺言をしておきたいと心をお決めになったことが、ここに最後の日月燈明仏の姿をかりてまざまざと表現してありますが、実伝によると、釈尊の肉体は、病気と老齢のために、非常に衰弱しておられたということです。
庭野

八十年の生涯ではない。
七十九年の生涯である。この、一年の差に、実は、重大な意味がある。
一年早く、亡くなっているのである。

さまざまと表現したのは、釈迦仏陀ではなく、後々の、創作者である。
実伝によると、云々とは、寝惚けている。
実伝ではない。

釈迦仏陀の、遺言は、真理の法を求め、我が身を、頼めという言葉である。
この世の法則の、あり様を、見て、我が身を頼むことであり、仏という妄想に、浸るなということである。

法華経を、深読みして、それが、真実だと、思う者、多数。
大乗の人は、方便として、法華経を説いたというのである。
たが、嘘も方便というのではない。
嘘は嘘である。
事実は、事実である。

真理の法というのは、この世の、つまり、宇宙の秩序と法則のことを言う。
そして、人生の、あり方である。
その、在り方は、百人百様であること。

絶対者を置いて、それに対して、座するということではない。

以後、勝手な解釈、勝手な、妄想にて、法華経が、一人歩きするのである。
法華経が、悪魔に好まれるというのは、どのようにでも、解釈して、好き放題に出来るからである。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第4弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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