2008年10月14日

神仏は妄想である 173

法華経が、奇想天外な、創作であるというのが、最初から出て来る。

最初は、尊者の名前が、延々とあり、次に、菩薩である。
ちなみに、その菩薩たちは、後、一度、この世に生まれるという。

例えば、文殊、観音、薬王、弥勒などは、菩薩大士と呼ばれる。

面白いのは、インド魔界の面々である。
グハ神、ヴァルナ神、インドラ神と、それらをも、菩薩である。八万の菩薩という。

神々の、帝釈天、持国、多門、自在、大自在、ブラフマー神、一万二千の、ブラフマー神に属する、天子たちであるという。

更に、八龍王である。それは、幾百、幾千、コーティもの多くの従者を引き連れている。

更に、魔界の阿修羅までも、登場させる。

最初から、嘘話です、というようなものである。

それらの、インドの神々、つまり、リヴ・ベーダなどの、神をも、登場させての、壮大なスケールであるが、そうすればするほど、嘘になることを、知らない。

結果、仏教は、バラモンや、ヒンドゥーを飲み込んだかのように、見えるが、その逆である。

今、インドでは、仏教は、跡形も無くなり、ヒンドゥーの中の一人の神として、釈迦仏陀がいるのである。

上記に挙げた、菩薩や神々は、当然、日本にも、入り込んで、無用な、信仰を得ている。

そして、全く、架空の、更に、魔界の極めつけを、象徴する、弥勒菩薩が、語り始めるのである。

ああ、如来はこのような奇跡を、偉大な瑞相としてお示しになった。それには、いったいどんな訳があるのであろうか。世尊がこのような偉大な瑞相として奇蹟をなされたのは、何ゆえなのか。世尊は三昧にはいっておられる。そして、このような稀有であり、思いも及ばないこれらの偉大な奇瑞、神通力による偉大な奇蹟が、あらわれたのである。私はその意味をたずねたいのだが、いったいだれに問うたらよいのか。そのばあい、だれがいったい、この意味を解明する能力があるのであろうか。

と、弥勒が言う。

インド人も、びっくりの、誇大妄想の話が展開される。

奇蹟というものを、一番嫌った、釈迦仏陀である。
それが、堂々と、奇蹟を現し、その意味は、何かと問うという、仰天である。

数えられず、まったく数えきれず、広大で、計り知れず、考えも及ばず、推量を超えた劫の過去世に、いやそれよりもさらに遠い以前にあったことですが、まさにそのとき「月と太陽と燈明とするもの、日月燈明と呼ばれる、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来が、この世に出現されました。そのかたは、知と行をかねそなえ、善逝であり、世間をよく知り、この上なきものであり、調練されるべき人々をよく調御するものであり、神々と人間との師であり、仏陀であり、世尊でありました。
中央公論社 大乗仏典

仏の教えを聞いて、迷いのない心を得たいと願うものには、四諦の法を説いて生老病死という人生の苦しみにとらわれぬ心と、人生の変化におどろかぬ心がまえを説いてくださいました。また、びゃくし仏も求めるものには十二因縁の法を説き、もろもろの菩薩のためには六波羅蜜を説いて、最高の智慧にまで導かれました。
庭野

四諦とは、苦諦、集諦、滅諦、道諦である。

苦諦とは、仏の教えを、聞かない人は、この世の全てが、苦しみであるというもの。

集諦とは、人生苦が、どうして、起こるのかを知ること。

滅諦とは、人生苦を、消滅された後の、安穏の境地。
それは、釈迦仏陀が、悟った、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の、三大真理であると、する。

道諦とは、日々の修行である。

苦諦から、集諦へ、そして、道諦から、滅諦へである。

要するに、人生というものを、どのように、捉えるかということである。

諸行無常とは、諸行は、この世のすべての現象であり、それが、無常、つまり、変化するということである。

諸法無我とは、
この世の中のすべてのものごとは、必ずほかのものとつながりがあるもので、全然他と切り離されて孤立しているものはない」ということです。
庭野

我というものは、他によって、我になるという、考え方をしても、よい。
我として、単独では、我は在り得ないのである。

涅槃寂静とは、涅槃は、無という意味もあり、死を意味する言葉であるが、また、迷いが無いという、状態をも言う。
寂静とは、迷いを無くし、人生苦というものが無い、平穏、安定した、状態、生活ということである。

涅槃寂静の境地に至るには、諸行無常を悟り、諸行無我を行うということである。

更に、八正道という、考え方と、六波羅蜜という、考え方をもって、その境地に至るというのである。

八正道には、見、思、語、行、命、精進、念、定、がある。

六波羅蜜は、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の、六つである。

これらの、説明は、省略する。
要するに、ものの考え方であり、生き方指南である。

私は、これに、異を唱える者ではない。
それを、一つの基準として、生きることも良いことだと、思う。

ただ、それは、己だけのものであり、人に説いて、強制するものではないということ、である。

仏教を、知り始めて、その気になると、人に説く人がいる。
勿論、アホである。
自分が、それを、実行して生きればいいのである。
何の問題も無い。

更に、それを持って、論戦するなどとは、愚の骨頂である。

私も、時々、その被害を受ける。
迷惑なのは、新宗教系である。
大半が、日蓮宗、密教系である。

こちらは、もう、30年以上も、それらの、経典を読み、学び、更に、検証して、私のモノを、考えているのである。

初歩程度の知識を、披露して、得意になる様は、呆れて、物も言えない。

S苑、S会、更に、訳の解らない、研究会や、同好会等々である。

本人は、知ったという喜び一杯なのであろう。平然として、説くのである。勿論、何も知らない。知ったと、確信、信じているだけである。
何となれば、その人の行為を、見れば、すべて解る。
要するに、自分の尻を拭けない者が、他人の尻を、拭くというのである。
万事休す。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第4弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

もののあわれ295

君は先づ内に参り給ひて、日頃の御物語など聞え給ふ。主上「いといたう衰へにけり」とて、ゆゆしきと思し召したり。聖の尊かりけることなど問わせ給ふ。委しく奏し給へば、主上「あじゃりなどにもなるべき者にこそあなれ。行ひのらふは積もりて、公に知ろしめされざりけること」と尊がり宣はせけり。



君は、最初に、参内なさり、この頃のことなどを、申し上げる。
主上、天皇は、すっかりやつれたものだと、言い、ご心配遊ばすのである。
上人の尊いことをなどを、お尋ねになるので、詳しく申し上げると、天皇は、あじゃりなどになるのも、当然の者であろう。修行の長きは、大きいが、朝廷では、存じなかったことである。と、尊敬する言葉であった。



らふは積もりて
修業のことである。
あじゃり、とは、僧の位のこと。



大殿参り合ひ給ひて、大臣「御迎へにもと思ひ給へつれど、忍びたる御ありきにいかが、と思ひはばかりてなむ。のどやかに一二日うち休み給へ」とて、大臣「やがて御送り仕うまつらむ」と申し給へば、さしも思さねど、ひかされて罷で給ふ。我が御車に乗せ奉り給うて、自らは引き入れて奉れり。もてかしづき聞え給へる御心ばへのあはれなるをぞ、さすがに心苦しく思しける。



大臣も、そこに、居合わせて、お迎えにと存じましたが、お忍びでのことと、ご遠慮いたしました。私の宅にて、ゆっくりと、一日二日、お休み下さい。と、申し上げる。
大臣は、源氏を迎えて、ここから、お供をさせていただきますと、自分の車に、源氏を先に乗せて、大臣は、末席に乗る。
大事にされていると、源氏は思うが、そう思うと、大臣が気の毒にも思えるのである。

奉り給うて
乗るということの、行為の、最高敬語である。

上座は、降り口になり、下座は、乗り口になる。
源氏が、先に乗り上座に、大臣が、後に乗り、下座に、である。

御心ばへのあはれなるをぞ
それほど、大事にしてくださるという気持ちに、あはれ、を感じるのである。
この場合は、申し訳ないと思う、気遣いに対する、感謝の気持ちである。



殿にも、おはしますらむと心づかいし給ひて、久しく見給はぬ程、いとど玉の台に磨きしつらひ、よろづを整へ給へり。


お邸でも、おいで遊ばすことだろうと、ご用意されていた。
久しく、おいでにならない間に、益々と、金殿玉楼と、磨き上げ、飾りたてて、万端整えているのである。

作者は、源氏に対して、すべて、敬語扱いである。
これが、この物語の特徴でもある。
大和言葉の、敬語が、自然に身につくということだ。



女君、例の這ひ隠れて、とみにも出で給はぬを、おとど切に聞え給ひて、からうじて渡り給へり。ただ絵に画きたるものの姫君のやうにしすえられて、うちみじろき給ふ事も難く、うるはしうてものし給へば、思ふ事もうちかすめ、山路の物語りをも聞えむ、いふかひありてをかしううち答へ給はばこそあはれならめ、世には心もとけず、うとく恥づかしきものにおぼして、年の重なるに添へて、御心のへだてもまさるを、いと苦しく、思はずに、源氏「時々は世の常なる御気色を見ばや。堪へ難うわづらひ侍りしをも、いかがとだに問ひ給はぬこそ、めづらしからぬ事なれど、なほ恨めしう」と、聞え給ふ。からうじて、女君「とはぬはつらきものにやあらむ」と、しり目に見おこせ給へるまみ、いと恥づかしげに、気高ううつくしげなる御かたちなり。


女君は、例の如く、奥に居て、すぐに出て来ないのを、父の大臣が、熱心に、口説いて、やっと、お出になった。
絵に描いた、物語の姫君のように、座らされたままに、身動き、一つしないのである。
整然として、居るのである。
心に思うことを、口にしたり、山に出掛けた話をした時も、話甲斐があるほどに、反応してくれれば、嬉しく思うが、全然反応がない。
親しみのない、気のおける人だと、君を見ることなく、年を重ねるほど、よそよそしさも、増すばかりであり、たまらなく心外である。
源氏は、時には、世間並みの、妻の様子を見せてください。ひどく患っていた時も、お見舞いの言葉をと、思いましたよ。いつものことながら、恨めしく思いますと、言う。
やっと、姫が、とわぬはつらいものでしょうか、と、流し目で御覧になる、目つきに、こちらが負けて、目をそらせてしまうほど、上品で美しいご器量である。


本妻とは、うまい関係が持てないのである。
これが、また、物語を面白くする。

とはぬはつらきものにやあらぬ
問わぬことは、辛いことでしょうか。
これは、古今集を、踏んでいる。

ことも尽き 程はなけれど かた時も 訪はぬは辛き ものにざりける

後撰集

忘れぬと 言ひしにかなふ 君なれど 訪はぬつらき ものにざりける


一々と、相槌を打って聞いているのでしょうか。
それが、辛いと、思うのですか。

どうも、賢くない女、姫に思える。
源氏に大切にしてもらいたいと、思えば、僻み事は、言わないはずである。

それに対して、源氏も、キレてしまうのだ。


源氏「まれまれは、あさましの御ことや。とはぬなど言ふきははことにこそ侍るなれ。心憂くも宣ひなすかな。世とともにはしたなき御もてなしを、もしおぼし直る折もやと、とざまかうざまにこころみ聞ゆる程、いとど思ほし疎むなめりかし。よしや命だに」とて、夜の御座に入り給ひぬ。女君ふとも入り給はず。聞えわづらひ給ひて、うち嘆きて臥し給へるも、なま心づきなきにやあらむ、ねぬたげにもてなして、とかう世をおぼしみだるる事多かり。



たまたま、仰るかと思えば、あさましの言葉、あきれた言い方である。
とわす、などというのは、恋人同士であろう。結婚した者であるぞ。
心憂く、物を言う。
いつまでも、愛情のない気持ちですね。
しかし、いつか、考え直してくださることもあろうと、見ておりますのに、いっそう、嫌がる様子です。
よしや命だに
長生きが出来れば、いつか、わかるのでしょう。
源氏は、そう言うと、寝屋に入るのである。
女君は、ずくには、入らない。
君は、言うべき言葉もなく、溜息をついて、お休みになった。
しかし、何やら、気まずい気持ちがある。
中々、寝付けなくて、あれこれと、考えられるのである。


よしや命だに

命だに 心にかなふ ものならば 何かは人を 恨みしもせむ

この歌からの、出典である。

和歌の教養が必要である。
和歌とは、やまと歌である。
和とは、日本を象徴する言葉である。
和物、和芸等々。
やわらぎ、とも、読む。

posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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