2008年10月12日

神仏は妄想である 171

これで「無量義経」は終わっているのですが、もう一度このお経の要点をひっくるめて申しますと、「すべての法は「無想」というひとつの法から出ている」ということです。人間の命をはじめてとして世の中すべてのものごとは、まことに千差万別で、生じたり、消えたり、移り変わったり、さまざまな状態を現しています。われわれの心は、その差別や変化によってまどわされ、苦しんだり悩んだりするのですが、もしわれわれがものごとの表面に見える差別や変化に目もくれず、その奥底にある「差別を超越した真の姿」を見とおすことができれば、われわれは、普通の社会生活をしていながらも、なにものにもとらわれない自由自在の心境に達することができるというものです。
庭野

この人の、功績は、実に、優しく、解りやすく、説いているということである。評価する。

無想とは、実相である。
実相は、真理である。

この人は、宗教家であるから、なにものにもとらわれない、自由自在の心境に達することが、出来たのであろう。
そう、思うしかない。

このような、解りやすいものを、読んで、解ったと思う、会員がいるのである。
少しばかり、気が休まる程度なのであるが、それを知ることもない。

言葉の観念を知るというだけで、人は、解ったと、錯覚する。
言葉は、魔物である。

実に、宗教の言葉の数々は、そのように、人を観念漬にする。

私も解りやすく言う。
食って、寝る場所の確保で、一日を費やす人に、この言葉の数々に、説得力があるのだろうか。
更に、この教えによって、自由自在の心ではなく、その教えに、雁字搦めになり、他の考え方を、受け入れない、受け付けない人になって、いくことを、知っているのだろうか。

更に、この教えによって、会員からの、布施や、寄付で、あれほどの、大伽藍、本部ビルを建てて、このような、説教をしているというのが、理解できない。

特に、頭の悪い会員であれば、他に対する許容が無いために、とんでもない、議論を人としてしまうのである。
無用な、宗教議論である。

更に、自分と、同じように、会員になることを、勧める。

それ以外の、考え方を知らないから、真理であると、言われると、真理は、一つと、人に強制するのである。頭が弱いからである。

真理が一つなどとは、一体誰が言ったのか。
事実は、一つであり、その解釈が、多数あるということは、理解するのに、真理が一つと言われると、ハイそうですか、となる。

真理は、人の数ほどあるものである。

無想、実相世界というものが、あるのかどうか・・・
ある、教団は、実相世界を、霊界としている。
そちらが、本当の世界であり、こちらは、現象世界であると。
それも、よい。

だから、実相世界に、合わせるという、考え方の、おかしさに気づかない。
転生輪廻を、繰り返しているというが、この、時代、この世に生まれたのは、紛れもなく、私のみであり、転生の魂の記憶があろうが、今の私の意識以外に無いのである。

ところが、その意識は、何ほどのものではない。故に、正しい教えを、信じることであるという。
確かに、この意識は、何ほどのものではないが、しかし、今、その、何ほどのものではない意識で、生きている。
その、何ほどのものではない意識によって、生きるということを、実感しているのである。
それを、否定して、何か別の意識、つまり、正しい教えというものに、自分を預けてしまう。

それは、単なる拘りである。

私も、妄想をかますが、題目だけを、唱え続ける、霊界という次元もある。
そのレベルが、どこかは、知らない。
ただ、題目だけを、唱え続けているのみである。

勿論、念仏だけの次元もある。
宗教の信者が、作る霊界は、実に、奇妙である。
ただ、拝み、祈り続けている。

三次元と、四次元の隙間にあり、それらが、三次元の宗教団体の、背後に憑く。

浮遊する、霊団と、こちらの宗教団体との、不協和音が、不気味に響く。

大乗経典が、書かれた時期、仏陀の教えが、混血する時期でもある。
バラモン、ヒンドゥー、インド哲学、その他諸々。

要するに、グローバル化したのである。
奇想天外な、法華経のお話は、それらに、大きな影響を受けた。
更に、どうでも、解釈出来る、下地が出来たのである。

仏陀も、如来も、数限りなく、存在するということを、書き始めた時期である。
マイトレーヤという、弥勒菩薩なる、魔物も、出て来たのである。

釈迦仏陀、滅後に、気の遠くなるような、後で、この世を救うという、魔物の、菩薩である。

この世を救うとか、この世の人を、救うという言葉が、観念となり、本当に、救いというものが、あるような、錯覚に、陥る。
この、救いというものは。皆が皆、仏になるということである。

10歳くらいまで、子供は、いつも、シータ波を出している。故に、いつも、楽しい。それを超えると、大人の脳に、近づく。すると、シータ波が、抑制されて、次第に、ハイテンションで、いられなくなる。
成長とは、そのように、沈む心、感情を得る時期である。

シータ波を出している、子供たちは、いつも、救われている。
つまり、シータ波を出すように、勧めるのが、その、教えであろうか。

同じリズムを、繰り返していると、シータ波が、出ることもある。
題目も、念仏も、あらゆる、繰り返しの祈りの、言葉がそうである。

特異な、シータ波が出ると、それは、エクスタシーである。
特に、ヒステリー気味の人に、それは、起こる。
唱え続けて、エクスタシーを、得る人は、ヒステリーである。

人の脳は、実に、複雑になっている。
そこに、更に、潜在意識である。

その、潜在意識は、実に、素直である。
ゆえに、表面意識が、信じて、行う行為を、素直に受け入れる。すると、潜在意識には、それを、そのまま、受け入れる純粋さがあり、それが、真実であると、確信を与えるようになる。

信仰の確信は、潜在意識が、そのようになることである。

人を嫉妬すると、潜在意識は、嫉妬という、感覚を、素直に受け入れて、今度は、自分に対して、嫉妬という感情を出すのである。
つまり、人を嫉妬すると、潜在意識は、嫉妬という感情を素直に持ち、我が、物事に、成功すると、成功したという、我に嫉妬を、向ける。
それにより、成功しても、何か不安を抱くのである。

幸せ感覚を、得られない人は、そのように、嫉妬の感覚を、潜在意識に植えつけているのである。

おわかりだろうか。
そこで、その不安を、鎮めるために、宗教という、安心立命の、言葉の観念を、欲するのである。

すると、今度は、その言葉の観念を、潜在意識に植えつけて、あたかも、それが、自分の本心から出ているように、思わせる。
これが、信仰の確信である。

人類の言葉の、発生過程を、検証すると、それが、よく解るのである。
言葉を、作ると、それが、在るものと、信じるのである。
神も仏も、然り。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第4弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

もののあわれ292

明け行く空はいといたう霞みて、山の鳥どもそこはかとなく囀り合ひたり。名も知らぬ木草の花ども、いろいろに散り交り、錦を敷けると見ゆるに、鹿のたたずみ歩くもめづらしく見給ふに、悩ましさも紛れ果てぬ。ひじり、動きもえせねど、とかうして護身参らせ給ふ。かれたる声の、いといたうすきひがめるも、あはれに功づきて、陀羅尼よみたり。



明け行く空は、すっかりと霞がかかり、山の鳥も、どこでなのか、囀り交わす。
名も知らない、木や草の花が、色とりどりに散り交じり、錦を敷いたように見える中を、鹿が立ち止まり、歩いたりする様を、御覧になり、珍しい様子に、気分の悪いことも、忘れてしまった。
僧都は、身動きができないが、やっとのことで、護身をして、差し上げる。
しゃかれた声が、歯の間から漏れて、変な調子なのだが、それも、尊くあり、効験もありそうに、聞える。
その声で、呪文を唱える。

その、呪文を、陀羅尼といい、梵語のままに、唱えるものである。

梵語の音のままに、漢語にしたものである。
漢訳したものではない。
密教系に多いが、どうも、それは、バラモンから出たもののようである。



御迎への人々参りて、おこたり給へる喜び聞え、内よりも御とぶらひあり。僧都、世に見えぬさまの御くだもの、なにくれと、谷の底まで堀り出で、営み聞え給ふ。僧都「今年ばかりの誓ひ深う侍りて、御送り侍るまじき事、なかなかにも思ひ給へらるべきかな」など聞え給ひて、おほみき参り給ふ。源氏「山水に心とまり侍りぬれど、内よりおぼつかながらせ給へるも、かしこければなむ。今、此の花の折り過ぐさず参り来む。


宮人に 行きて語らむ 山桜 風より先に 来ても見るべく

と宣ふ御もてなし、声づかひさへ、目もあやなるに、


僧都
優曇華の 花持ち得たる 心地して 深山桜に 目こそ移らね

と聞え給へば、ほほえみて、源氏「時ありて一度開くなるは、難かなるものを」と宣ふ。ひじり、御かはらけ賜はりて、


奥山の 松のとぼそを まれに開けて まだ見ぬ花の 顔を見るかな

と、うち泣きて見奉る。




お迎えの家臣たちが、参って、お治りになったことを、お祝い申し上げる。
御所からも、使者が来た。
僧都は、普段見られない果物を、色々と、谷の底から掘り出して、もてなす。
僧都は、今年一杯は、という誓いを固くしています。お見送りに参れないこと、残念至極でございます。かえって、煩悩の種に、なりそうでございます、と、おっしゃり、お酒を、お勧めになる。
源氏は、山にも、水にも、心は残りますが、主が、お待ちかねの様子なのも、恐れ多いものです。
すぐに、また、花の散らないうちに、やって参ります。

みやびとに ゆきてかたらむ やまざくら かぜよりさきに きてもみるべく

御所の人々に、帰って話します。山の桜を、散らす風の吹く前に、急いで、来るようにと。

と、おっしゃる、ご様子、御声まで、眩しいほどの、ご立派さです。

僧都
うどんげの はなまちえたる ここちして みやまざくらに めこそうつらね

三千年に、一度咲くという、優曇華の花が咲くのを、見た気持ちがします。山奥の桜など、見る気もいたしません。

と、申し上げる、源氏は、微笑み、時あって、一度咲くという、あの花は、めったに、出会えぬものだのに、と、おっしゃる。
上人は、お盃を頂き

おくやまの まつのとぼそを まれにあけて まだみぬはなの かおをみるかな

奥山の、庵室の、松の戸を珍しく開けまして、まだ、見たこともない、花のような、お美しい、お顔を、拝しますこと

と、涙を流して、拝むのである。



源氏の、美しさを、ここまで、強調するが、一切の、具体的、美しさには、触れないのである。紫式部は、読者の想像に、任せる。

すでに、小説は、言い過ぎないという、手法になっている。
特に、日本文学は、省略の、文学である。
多くを、語らない。
つまり、それを、行間を読むというが、違う。
それは、行間を読むというより、自ずと、解るということである。
その、伝統を、紫式部が、作ったといえる。

主語がなく、一体、誰のことを、言うのだろうかと、迷う箇所、多数。
矢張り、源氏物語に、触れて、この、日本の文学の伝統を、知るべきである。
文学を、志す者は、必須である。

更に、当然のことに、歌詠みがある。
歌道というものが、また、文学の伝統であることも、解るのである。

歌道の、教養も、必要である。
それは、優劣の問題ではない。
伝統の教養として、必要なのである。

歌の、真意は、優劣を、超える。
上手な歌を、詠むのではない。
もののあわれ、を、詠むのである。

posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。