2008年10月11日

神仏は妄想である 170

さて、人間は、生まれた人間のことである。
六道輪廻を、生きているという。

六道、六趣ともいう。
それは、六の苦しみであるという。

地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、である。
地獄とは、心が怒る状態。
餓鬼とは、貪り欲張る心の状態。
畜生とは、知恵のない状態。
修羅とは、自分本位に考える、自分に都合よく考える心。
人間とは、それらの、心を持ち、良心によって、それらを、ある程度を抑えることの出来る、心。
天上とは、歓喜の世界。仏の世界ではなく、肉体や、感情の喜びの世界であり、何事かあれば、地獄や、餓鬼の世界に戻るという。

人間の心の中は、それらを、繰り返すというのと、それを、ぐるぐると、回って、生まれ変りを、繰り返しているというのである。

こうして六趣を輪廻している衆生を見たら、菩薩たちは大慈悲の心を起こしてその世界から救い出してやることを志さなければなりません。そのためには、まず一切のものごとを深く知らなければいけないのです。
と、世尊が、言うと、庭野は、書く。

ところが、衆生の性癖にも、欲望にも、かぎりないほどさまざまな種類があり、またさまざまなお願いごとがあるのですから、それに対する説法もかぎりないほどさまざまな説きかたをしなければなりません。説法のしかたが無量だから、したがって教えの内容も無量でなければならないのです。
庭野

その、数限りない教えの元は、唯一つの法から、起こってくるという。
それが、真理である。

真理とは何か。それは、すべてのものの区別を超越した本性(無想)です。あらゆるものは、仏性をもっている点において平等なのです。それこそが、真理なのです。ものごとの実相なのです。菩薩のみなさん、この真実を悟ることによってひとりでに起こってくる慈悲というものは、必ず功徳の明らかなもので、よく衆生の苦しみを抜き、さらに進んで楽を与えるのです。ですから、この「無量義」の法門を学べば、まっすぐに仏の悟りを得ることができるのです。
と、庭野が、訳す。

実に、解りやすく、訳している。

だが、実に、主観的であり、信じる以外に無い。
帰依する以外にない。

六道輪廻を、繰り返すというのは、単なる、観念であろう。
さらに、人間の感情を、悪であると、言い切るのである。

性癖にも、欲望にも、数限りない種類がある。当たり前である。百人百様の人間の様である。
それに対する、説法も、無量であれ。
教えの内容も、無量であれ。

その、元は、唯一つの真理から出る。
真理とは、区別を超越した、本性、無相であるという。

更に、あらゆるものは、仏性をもっている点において、平等だという。

それが、法華経に書かれてあるから、真実であるという。
信じるしかない。

この単純明快な、考え方で、解決する人間の人生ならば、世話は、無い。
そんな、単純なものではない。

彼、世間の保護者は法を説かれたが、それはすぐれた“限りなき説示”(無量義)という経典で、これを名づけて“広大な大乗教”と呼ばれ、それを彼は幾コーティもの生命あるもののために解き明かされた。
大乗仏典 法華経訳

要するに、小乗に対する、大乗の教えの、正当化を測るというものである。

同じ、仏教でも、小乗と、大乗の、戦いのあり様である。
小乗は、不足した教えであり、大乗は、それを、超えてあるものという。

大乗の教えが、出始めた時、様々な議論が起こり、議論された。
忘れてはならないのは、それ以前にあった、インド哲学や、バラモン、ヒンドゥーの、教えである。
その他諸々が、加味されて、議論が起こったのである。

思想としての、仏教が、出来上がりつつあったと、いえる。

兎に角、議論好きの、インド人である。
三蔵法師玄奘が、天竺のナーランダに出掛けた時に、議論の議論を戦い、第一になっている。
議論に負けると、その場を去るという、何とも、へんちくりんな、討論の様である。

宗論を戦わせるという、事態は、日本にもあった。
面白いのは、信長が、キリシタンの司祭と、日蓮宗の僧侶を戦わせて、僧侶が、負けたという話である。

仏の上の、神の存在であるから、負けないだろう。
いやいや、神々は、仏の下である。
それでは、天地創造の云々かんぬんとなると、僧侶は、たじたじする。
仏教では、天地創造に関して、曖昧である。

その、宇宙の真理である、元が仏ならば、天地創造は、いかなるように、行われたのか。
キリシタンは、旧約聖書により、神による、天地創造を、語る。

具体的に、仏教の天地創造は、語られない。

お話を、作った方が勝つのである。
要するに、創作してしまった方が、勝つ。

妄想三昧の者が、勝つのである。
それが、宗教というものである。
更に、法華経に、分け入ってゆく。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第4弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

もののあわれ291

源氏「うちつけに浅はかなりと御覧ぜられぬべきついでなれど、心にはさも覚え侍らねば、仏は自ら」とておとなおとなしう恥づかしげなるにつつまれて、とみにもえうち出で給はず。尼君「げに思ひ給へより難きついでに、かくまで宣はせ聞えさせするも、あさくはいかが」と宣ふ。源氏「あはれに承る御有様を、かの過ぎ給ひにけむ御かはりに、思しないてむや。いふかひなき程のよはひにて、むつまじかるべき人にも、立ちおくれ侍りにければ、あやしう浮きたるやうにて、年月をこそ重ね侍れ。同じ様にものし給ふなるを、たぐひになさせ給へ、と、いと聞えまほしきを、かかる折り侍り難くてなむ、思されむ所をも憚らず、うち出で侍りぬる」と聞え給へば、尼君「いと嬉しう思ひ給へぬべき御事ながらも、聞し召しひがめたる事などや侍らむ、とつつましうなむ。あやしき身ひとつを、たのもし人にする人なむ侍れど、いとまだいふかひなき程にて、御覧じ許さるる方も侍り難ければ、えなむ承りとどめられざりける」と宣ふ。



源氏は、突然で、軽率なことと、思われるに、違いない、この折ですが、私は、そんな、気持ちではありません。
仏様は、お見通しでしょう。
そうおっしゃって、尼君の、落ち着いて、気のおける様子に、遠慮されて、すぐには、言い出せないのである。
尼君は、仰せのとおり、思いがけも、致しません、この折に、こんなにまでも、お言葉を、交わさせていただきますのも、浅からぬご縁です。
お志を、浅いなどと、どうして、思いましょうか。と、のたまう。
源氏は、あはれに承る御有様と、女の子について言う。
お気の毒な身の上と、伺いましたと、でも、言う。
お亡くなりになった、母君のお代わりに、私を考えて頂けませんか。
お話もならぬ、年頃に、親にも、先立たれて、なんとも、不安な年月を、過ごしたものです。
お孫様も、私と、同じ境遇です。
お仲間になってくださいと、心から、申し上げます。
このような、機会も、またとないこと。思し召しのほども、構わずに、申し出るのでございます。と、おっしゃる。
尼君は、誠に、嬉しく存じますお言葉。
しかし、聞き違い遊ばされた、節ではありませんかと、遠慮いたされます。
つまらない私のような者でも、唯一の頼りとする者がおりますが、誠に、まだ、何も知らない年頃で、大目に見ていただくわけには、参りません。
とても、お受け申しかねます。と、おっしゃる。

宣はせ聞えさするも
お話を伺い、申し上げること。
対話するということの、最高の敬語である。

女の子は、源氏と、同じく、母親に、死に別れているということを、訴える。
それを、たぐひになさせ給へ、と言うのである。

いくら、好色でも、まだ幼女のような、女の子に、と、尼も、戸惑っている。
また、預けるといっても、恐れ多くて、そんなことは、出来ないのだ。

好みの女に育てるという、願望は、男の中にあるものであろう。
幼い時から、そのように、育ててみたいという、願望を、紫式部は、ここで、描くのである。

源氏という、男は、一人の男を、描くのではない、という、結論を私は言う。
男の、複合体なのである。
それは、いつまでたっても、源氏の顔が、見えないからだ。
ただ、光り輝くように、美しいと、作者は、書くのみである。

それは、源氏の顔を、描いてしまえば、それが、叶わないのである。
故に、源氏を、男の総表としている。

果てしなく、長い物語は、それゆえである。




源氏みなおぼつかなからず承り侍るものを、所狭う思し憚らで、思ひ給へよる様、殊なる心の程を、御覧ぜよ」と聞え給へど、いと似げなき事を、さも知らで宣ふ、と思して、心とけたる御いらへもなし。僧都おはしぬれば、源氏「よし。かう聞えそめ侍りぬれば、いと頼もしうなむ」とて、おしたて給ひつ。



源氏は、何もかにも、承知いたして、おりますのに、堅苦しく、遠慮されずに、他の人とは、違う、私の思いの、深さを御覧ください、と、おっしゃる、が、尼君は、不釣合いな、年頃であり、そうとも知らずに、源氏が、おっしゃるとの、思いで、頷くことがないのである。
要するに、尼君は、源氏が、勘違いしていると、思っているのだ。
しかし、源氏は、勘違いではなく、本当に、女の子を、手に入れたいと思っている。
話し合いが、つかないのである。

源氏は、まあ、このように、お願いの口火を切りましたから、心強く存じますと、おっしゃって、屏風を閉めた。



暁方になりにければ、法華三昧おこなふ堂の践法の声、山おろしにつきて聞えくる、いと尊く、滝の音に響き合ひたり。

源氏
吹き迷う み山おろしに 夢さめて 涙もよほす 滝の音かな

僧都
さしぐみに 袖ぬらしける 山水に すめる心は 騒ぎやはする

耳なれ侍りにけりや」と聞え給ふ。



暁方 明け方になってきた。
法華三昧を勤める、堂の読経の声が、山おろしの風に、乗って、聞こえてくる。
それが、また、尊く、滝の音に響き合うのである。

源氏
ふきまよう みやまおろしに ゆめさめて なみだもよほす たきのおとかな

吹き迷う、深山おろしに、旅寝の夢は覚め、煩悩の夢も覚めて、涙を流すほどに聞える、滝の音だ。

僧都
さしぐみに そでぬらしける さんすいに すめるこころは さわぎやはする

すぐに、お袖を涙で濡らすという、この山の水にも、久しく暮らし、修行した私には、普通のことです。

聞き慣れています、と、おっしゃる。


さしぐみに
水の縁語である。
すめる
住める、澄める、係り言葉である。


posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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