2008年10月10日

神仏は妄想である 169

仏というものは、いいかえれば「宇宙(人間をひっくるめた)の真理」です。太陽、星、人間、動物および植物、その他あらゆるものを存在させ、動かし、生かしている根本原理、あるいは宇宙の根本の力といってもいいでしょう。ですから、この宇宙ができてからこのかた、ずっと仏は宇宙のどこにも満ち満ちておられるわけです。そういう意味の仏を「本仏」といいます。

いいかえれば、「本仏」は「宇宙の真理」にほかならないのですから、だれであろうと、なんであろうと、スイッチを入れて、自分の生きかたの波長を「宇宙の真理」の波長に合わせさえすれば、たちまちそこに「仏」があらわれるのです。すなわち、わたしどもの心や体をおおっていた暗黒が消え去って、生き生きとした本来の生命の光が内から輝きだしてくるわけです。そうならないはずは絶対にありません。そして、それがほんとうの救いなのです。
庭野


何の根拠の無いことを、ここまで言えるという、狂いである。
心や体をおおっている暗黒という、観念。そして、生き生きとした本来の生命という、観念。さらに、絶対にありません、という観念。
極めつけは、それがほんとうの救いなのです、と、言い切る、恐るべき蒙昧の観念である。
それが、皆、法華経によるということ、である。

本当の救いと、言えるほどの、信念という、妄想の観念を、法華経から得たというのである。

この人は、何が、それほど、恐ろしかったのか。
自分が、死ぬことが、恐ろしかったのか。

膨大な大乗の、理屈は、ただ、死を恐れたゆえに、生まれたものか。


序品
オーン、すべての仏陀と菩薩たちに敬礼したてまつる。すべての如来、独覚、聖なる声聞たちに、また過去、未来、現在の菩薩たちに敬礼したてまつる。
広大な教えの経の王であり、最高の真実の道理にはいるための教えであり、大きな道であるところの「正しい教えの白蓮」を人々のために私は語ろう。
大乗経典 法華経

そして、世尊が、霊鷲山で、精舎にいた時に、説法された様子が書かれている。
はじまりは、わたくしは、このように聞いた、という、書き出しである。

釈迦の直接の弟子から、小乗で、阿羅漢となった、まだ菩薩に至らない境地のもの。大比丘衆、一万二千人がいたという。
さらに、大人大士、つまり、大きな志を持った人。天、竜、夜叉、その他の、鬼神や、動物もいる。
天とは、天上界にいるもの。竜は、海の底にいるもの。夜叉とは、空中を飛んでくるもの。人間に害を与えるといわれる、鬼神、地を這う虫類まで。

天地万物を、平等に済度するためである。
済度とは、救うということである。

出家者だけではなく、在家の修行者から、国王、王子、家来から、国民まで、ありとあらゆる階層の人が、詰め掛けていたという。


そして、そのときに、世尊の毛の渦から一条の光明が放たれた。その光は東のほうに向かって一万八千の多くの国土に流れ、その光でそれらすべての仏陀の国土―――アヴィーチ大地獄から最高の存在界にいたるまでーーーがはっきりと見え、それらの仏陀の国土にある六種の境涯のなかにいる衆生たちが見えた。
大乗経典

ここでは、仏陀、世尊と呼ばれる人たちが、数多くいるということである。

そして、そこで、最初に口を開いたのが、弥勒大菩薩であるという。
マイトレーヤである。
これが、曲者。全くの架空の存在であるが、仏滅後、この世を救うために、現れるという、弥勒菩薩である。

私は、このように聞いたと言って、壮大な妄想を展開するのである。


仏は、けっして人間だけを悟りに導こうというのではなく、天地の万物すべてを平等に済度しようという広大な慈悲をもっておられるのです。さればこそ、人を食う鬼でさえ、説法の席につらなることが許されているのです。また、他教の神々を排斥することもなさいませんので、みんな仏の話を聞くために集まっています。このことも、たいへん意味深いことです。
庭野

他教の神々とは、神々をも、下に置いたということである。
つまり、仏という地位が、最高位であるということ。

しかし、決して、日本の神と呼ばれる、天照る神や、八百万の神は、いない。

それらが、世尊の足元に、ひれ伏して、帰依の心をあらわし、供養するという。
供養とは、仏に感謝することだと、いう。

大知恵を、得て、すべての物事をはっきりと、見極める力がある、菩薩たちがいる。

この、大というものを、何にでもつける。
大勝利、大成果、大、大、大である。
大知恵とは、知恵と、どのように違うのか。

知恵とは、どのような意味か。
知とは、すべてのものの、違っている点を見分ける力。
恵とは、その違いを知る力であるという。

恵とは、すべてのものに、共通する真理を、見出す力であるという。

そして、それにより、違うものでも、仏性というものを、宿している。つまり、皆々、平等に仏になれるのであるという。

無明や老、病、死などのために苦しみあえいでいるのに対して、「十二因縁」の教えをもって、まるで夕立が暑さに苦しむ人々を生き返らせるように、その苦しみを除いてやる。ここまでが、小乗の教えであって、それから、いよいよ大乗の教えを説くのだとあります。
庭野

小乗は、そこで、止まっている。
次に、大乗の教えを説くというのである。
つまり、大乗こそ、真の教えなのであるという、段取りである。


大乗経典の、大芝居が始まる。

ある人は、小乗は、仏教ではないという。大乗が仏教なのであるという。
勿論、それは、絶対主観である。
更に、である。仏陀も、救えなかった者たちを救うために、この世に生まれてきたと、平然として言う様は、妄想の極みである。

仏教の教えを、端的に言えば、簡単である。
この世に、生まれないことなのである。
生老病死を体験するという、この世に、生まれない。
要するに、転生輪廻を体験しないことが、最高の救いなのである。

だが、この考え方は、何も、仏教のものだけではない。
後で、インド思想を書く時に、取り上げる。

子供が、親に、何故、私を生んだ。
生んでくれとは、頼まなかったと、口答えする様子がある。
その時点で、親子は、地獄である。

命を、大切にしているように言うが、仏教は、絶対生命軽視の思想である。
何度も言うが、生まれたことが、悪いのである。

それは、釈迦仏陀、以前の、バラモン、ヒンドゥーの教えの、継承である。
輪廻しないこと。
それが、最高の救い。

生まれたからこそ、生老病死というもの、体験し、様々な、思いを体験する。
生まれたからこそ、七転八倒して、生きられるのである。

自殺を止める思想は、仏教には、ないが、あるがごとくに言う。
大嘘である。
生きていなければ、いいのである。

ところが、彼らに言わせると、生きていなくても、悟りを得なければならないのであると言う。

悟りというものは、妄想である。
ちなみに、仏教の言う天上界というのは、魔界に他ならない。
と、私も、妄想を、かましてみる。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第4弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

もののあわれ290

すこしいぞきて、女房「あやし。ひが耳にや」とたどるを聞き給ひて、源氏「仏の御しるべは、暗きに入りても、更に違ふまじかなるものを」と宣ふ御声の、いと若うあてなるに、うち出でむ声づかひもはづかしけれど、女房「いかなる方の御しるべにかは。おぼつかなく」と聞ゆ。源氏「げに、うちつけなり、とおぼめき給はむも道理なれど、

はつ草の 若葉のうへを 見つるより 旅寝の袖も 露ぞかわかぬ

と聞え給ひてむや」と宣ふ。

女房「更にかやうの御消息、承り分くべき人もものし給はぬ様は、知ろしめしたりげなるを。誰にかは」と聞ゆ。源氏「自らさるやうありて聞ゆるならむと思ひなし給へかし」と宣へば、入りて聞ゆ。「あな、今めかし。この君や、世づいたる程におはするとぞ思すらむ。さるにては、かの若草を、いかで聞い給へることぞ」と、さまざまあやしきに、心乱れて、久しうなればなさけなし、とて、

尼君

枕ゆふ 今宵ばかりの 露けさを 深山の苔に くらべざらなむ

ひがたう侍るものを」と聞え給ふ。



しかし、また、引っ込みかけて、女房が、変です。聞こえたはずなのに、と、疑っている声を聞く。
源氏は、仏様の、お導きは、暗い中でも、決して、間違いないこと、と、仰る声が、若々しく、上品であり、お返事する言葉も、恥ずかしいのだが、女房は、どちらへの、ご案内でしょう。存じ上げませんが、と、申しあげる。
源氏は、いかにも、突然であるから、お解りにならないのも、もっともです。

源氏
はつ草の 若葉のうへを 見つるより 旅寝の袖も 露ぞかわかぬ

初草の、若葉のことを知ってからは、旅の宿りの、私の袖の涙は、かわきません。

と、申し上げてくださいと、仰る。

女房は、そのような、お言葉を、お伺いする方は、いらっしゃらないことは、ご存知のはずですが、どなたに、申せとのことでしょうと、申す。
源氏は、自然に、そしてある仔細があってのことと、お考え下さいと、仰るので、女房は、奥に入り、尼君に、申す。
尼は、ああ、派手なことです。
この君が、そんなことを、解る年頃ではないとは、思われないのでしょうか。
それにしても、どうして、あの、若草の歌を、お耳になさったのでしょう。
あれこれと、不思議に思う。
心乱れて、お返事申し上げず、遅れては、失礼と


枕ゆふ 今宵ばかりの 露けさを 深山の苔に くらべざらなむ

旅寝の枕を、今夜だけあそばす、お袖の露を、この奥山に住む者との、苔むす袂と、比べたりされないで、下さい。

それこそ、乾くことのないものです、と、女房を通して、お伝えする。


皆々、女房も、尼君も、源氏が、とんでもないことを言っていると、思うのである。
誰も、源氏が、相手にするような、女は、いないのである。
しかし、若草とは、あの子のことではないか。
しかし、まだ、幼女である。
そんな、馬鹿な。子供を、相手に、乞う歌など、変である。

尼君も、戸惑いつつ、返歌するのである。
ご身分も違い、更に、子供である、あの子にと、疑心暗鬼になるのである。

誰も、源氏が、自分の、好みのままに、育てたいなどとは、考えられないのである。

あな、今めかし。この君や、世づいたる程におはするとぞ思すらむ
尼の言葉は、最もである。
子供であることを、知らないはずはない。まだ、何も解らないと、知らないはずは無い。

あな、今めかし
まあ、今流行りだこと。
色好み、だこと。それにしても・・・
疑問符がつく。

尼の動揺は、孫が年頃の娘だと、思われていることと、若葉の歌を、知っていることが、不思議なのである。

結局、歌にて、同じ袖の涙も、あなた様と、違うものですと、歌う。同じように、考えなされませんようにと、歌うのである。



源氏「かやうの人伝なる御消息は、まだ更に聞え知らず、ならはぬ事になむ。かたじけなくとも、かかるついでに、まめまめしう聞えさすべき事なむ」と聞え給へれば、尼君「ひがごと聞き給へるならむ。いとはづかしき御けはひに、何事をかはいらへ聞えむ」と宣へば、「はしたなうもこそ思せ」と人々聞ゆ。尼君「げに若やかなる人こそうたてもあらめ・まめやかに宣ふ、かたじけなし」とて、いざり寄り給へり。



このような、取次ぎにての、ご挨拶は、いまだしたことがありません。初めてです。
恐縮ですが、この機会に、本気で、申し上げたいことがございます、と、仰る。
尼君は、お聞き違いでございましょう。
あのような、ご立派なご様子の方に、気後れして、何を、お返事いたそうかと、仰る。
女房は、しかし、きまり悪く思いでしょうからと、申し上げる。
尼君は、左様です。若い人は、辛く思います。
熱心に、語りかけられるだけでも、恐れ多いことです。
と言いつつ、屏風の場所に、にじり寄った。


いよいよ、源氏の考えていることを、聞くことになる。
一体、何を仰るのか。
尼君は、にじり寄り、源氏の近くに行く。

いとはづかしき御けはひに 何事をかはいらへ聞えむ
源氏の姿に、対して、いとはづかしき、と言う。
その、御けはひ、である。
そのご様子は、立派であり、恐れ多いのである。
源氏の、立ち居振る舞いにある、美しさとでも、言う。
それは、立派なお方、身分の高い、お方である。

そのため、何事かはいらへ聞えむ、なのである。
なんと、返事をしょうかと、戸惑うのである。

身分というものを、明確にしていた時代である。
この、身分によって、礼法が、生まれた。
敬語という、言葉も、身分により、生まれたものである。
身分というものを、人は、平等であるとした、現代は、自由に見えるが、礼法は、失われる。
それにより、秩序というものが、成り立った。
人の関係軸というものは、身分から、生まれる。

勿論、現代は、肩書きなどによる、柔らかな、身分というもの、意識する。
言葉遣いは、それの、明確化である。

人が、平等であるとは、その心や、魂においてであり、社会生活には、しっかりとした、身分、立場というものがあることを、教えることが、重要な社会関係軸を、作る。
それを、また、教育という。


posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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