2008年10月09日

神仏は妄想である 168

法華経について、書く。
中央公論社の大乗仏典を、基底にし、その解釈を、立正佼成会という、新宗教をはじめた、庭野日敬さんの、解り易いものを使う。
庭野さんは、実に解りやすく、法華経の新しい解釈という、本を書いた。

その考え方をも、批判しつつ、書く。
また、途中で、切り捨てることもある。
別の、法華経講義を、使用することもある。

初めから、このような言葉がでる。
大切なのは、「事実」ではなく、「真実」です。仏がわたしたちに教えてくださろうとする「真実」なのです。ですから実際にはありそうもないことが書いてあっても、その文字の、その文章の表面を突きぬけた奥にある「真実」、仏が教えてくださろうとする「真実」をこそ、しっかりとつかまねばならないのです。

一見、とても、優しく、頷く言葉だが、これこそ、嘘である。

真実が大切だという。
最初から、実際にはありえないことが書いてあるというのである。
その文字、文章の、表面を突き抜けた奥にあるものが、真実だという。
そして、それが、解釈によって、自由自在になるのである。
錯乱した人は、錯乱したまま、解釈する。

仏陀の説いたものを、その真実を、戯曲風にして、書き上げたものである。

真実を重視し、事実を無視するから、同じ門でも、派閥が出来る。それは、解釈の仕様である。そして、あろうことか、敵対し、攻撃し、果ては、殺しあうという、大矛盾である。

現在用いられている、法華経の、訳者は、鳩摩羅汗、くまらじゅう、である。
その翻訳、漢訳には、多くの人が、関わった。
そこで、庭野さんは、
およそ二千人にもおよんだといわれています。ですから、インドのことばから中国語に訳されても、釈尊の教えはほとんど誤りなく伝えられていると断じてさしつかえないわけです。
と、寝惚けたことを、言う。

二千人が、かかわっても、誤れば、誤る。逆に、多くの人が、関われば、関わるほど、誤ることもある。
上記、実に、主観的である。

宗教家は、主観主義である。

その後、中国では、天台大師といわれる者が、大乗小乗の経典を極めつくして、仏陀の真意は、ここにありと、法華玄義、法華文句、摩可止観を著した。
天台宗である。

難波、現在の大阪に、法華経が着いたのは、577年といわれる。
聖徳太子が、その解説書を書いている。
ほけきょうぎしょ
日本最古の書物である。

以来、1400年、そして、聖徳太子の、その後、700年目に日蓮が出た。
そして、現在は、我が我が、法華経の真髄であるという者、多数。

法華三部経
無量義経
妙法蓮華経
仏説観普賢菩薩行法経

「無量義」というのは、「数かぎりない意味をもった教え」という意味ですが、この説法の中で、その「数かぎりない意味をもった教えはただひとつの真理から出てくるのだ」ということが説かれてあります。そのひとつの真理というのは「無想」ということですが、それについて詳しくおっしゃっておられません。それで、どうもはっきり解らないのです。では、どこでそれが解決されるのか。もちろん、次に説かれる「法華経」においてなのです。「法華経」で、それをあますところなくお説きになられるわけです。そして、その数かぎりない教えは、せんじつめればこの「法華経」に説く真理に帰するのだと、ご一代のご説法の中でも最も中心になる教えを、ここで明らかにしていらっしゃるのです。
庭野

釈迦仏陀は、そんなことを、一言も、言わない。
言うのは、法華経の作者である。

この、真理という言葉が、実に、曲者である。
真理とか、真実という言葉を使う時、人は、明確に嘘であると、知っているか、あるいは、主観的観念で、言うか、である。

もし、真理というものがあって、それを、あますところなく、説くというならば、それは、嘘である。
何となれば、この世の言葉で、すべてのものを、明らかに語ることは、出来ないと、それこそ、宇宙の法を知った者なら、知っている。

あますところなく、すべてを、説いたというのは、全くの嘘であることは、今の世界を見れば、一目瞭然である。
それが、一つの迷いであるから、世界は、混沌としているのである。

詐欺師に多いのが、この文章の、奥の奥にある、真実という。
勿論、そんなものは、無い。有る訳が無い。

深読みする、行間を読むという程度のものではないのである。
新しい、意味をつけるのである。
つまり、解釈という。
それは、単なる一つの解釈である。

実は、仏陀は、解釈を必要としない、言葉を述べた。

ダンマパダより

虚ろな言葉、それは千あろうとも
平和をもたらすわずか一言の言葉に及ばない

虚ろな詩歌、それは千あろうとも
平和をもたらす一編の詩歌に及ばない

虚ろな経文、それは百行あろうとも
平和をもたらす一行の言葉に及ばない

千の戦に勝つより尊いこと
それは自分自身に打ち克つこと

その時ひとは真の勝利を手にする
その勝利は決して失われることはない
天界の天使も
地獄の悪魔も
誰であれ、その勝利を奪い取ることはできない

功徳を得ようと
百年ひたすら神を崇め
千の供物を捧げようと
千に及ぶ世俗の願望を断ち
百年にわたり森のなかで聖火を守り続けようとも
自らを克服したひとに、ひと目でも拝礼できるなら
それに勝ることはない

そのようなひと
善きこと清きことを知り尽くす「己を統べる者」そのひとを
仰ぎ敬うなら
この世で真の人生を
そして、美しきもの、強いもの、歓びを
勝ちとることができるだろう

一日でもよい、深い瞑想の日を過ごしなさい
間違った行いのなかで百年過ごすよりよい

一日でもよい、深い洞察の日を過ごしなさい
無知のなかで百年過ごすより

一日でもよい、決意をもって日を過ごしなさい
怠惰のなかで百年過ごすより

一日でもよい、事物が生じては滅するさまに
想いをめぐらし、過ごしなさい

一時間でもよい、不滅の生命を知りなさい

一瞬でもよい、無上の真理の時を過ごしなさい
今この一瞬のなかで

上記を、誰かの解釈で、教えられ、納得しても、詮無いこと。
仏陀は、己自身が、それを理解するまで、待てという。

しかし、それも、寝惚けた言葉の数々である。
釈迦仏陀から、直接聞いて、ああ、そうなのと、思うのである。

言葉というものは、実に空しいものである。

法華経を解釈する者、多々、屁理屈の極みをゆく。
更に、である。
私は、知った者となれば、万事休す。

仏教の、考え方で、言えば、この世に生まれたということが、すでに、迷いである。
悟った人は、仏陀であり、生まれることが無い。生まれる必要が無い。

生まれたということが、迷いであるという、仏教というもの、甚だ笑う。
生まれなければ、法華経も何も無い。

転生輪廻。
生まれ変りというものは、次元を別にするのである。
つまり、この世の言葉で、語り切れるものではない。
更に、悟りというものも、この世の次元ではない。
とすると、この世の言葉で、悟りを、語ることは、誤りである。

よって、いい気な者である。

釈迦は、悟って、すぐに、この世を去るという決心をした。当然である。悟ったのであるから。
ところが、梵天という、化け物が出て来て、その教えを述べ伝えよと、そそのかす。
つまり、釈迦も、魔界の化け物に、誘惑された。
本当に、悟ったの・・・
である。

最後に、釈迦が、悟っていなかったという、証拠を書くことにする。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第4弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

もののあわれ289

さらばその子なりけり、と、おぼし合はせつ。御子の御筋にて、かの人にも通ひ聞えたるにや、と、いとどあはれに、見まほし。人の程もあてにをかしう、なかなかのさかしら心なく、うち語らひて、心のままに教へおぼし立てて見ばや、とおぼす。



それでは、その娘の子なのであると、思い当たった。
宮様の血筋である。それで、あの方にも、似ているのかと、思う。
そう思うと、いっそう可愛らしく、逢いたくなる。
人柄も、上品で、美しい。変なでしゃばりもない。
一緒に暮らして、思いのままに、教え育ててみたいと、思うのである。

それは、兵部卿と、憧れの藤壺が、兄弟であり、その娘は、藤壺の姪ということになるのである。

いとどあはれに 見まほし
なお一層に、あはれに思うのである。
この、あはれ、とは、可愛い、美しい。と、思えるのである。

あはれというものを、すべてに、おける感動を、表すという人もいる。
それも、一つの、あはれの、表情である。



源氏「いとあはれにものし給ふ事かな。それはとどめ給ふかたみもなきか」と、幼なかりつる行方の、なほ確かに知らまほしくて、問ひ給へば、僧都「なくなり侍りし程にこそ侍りしか。それも女にてぞ。それにつけて、物思ひのもよほしになむ、よはひの末に思ひ給へ嘆き侍るめる」と聞え給ふ。さればよ、とおぼさる。



源氏は、いとあはれに思いますと、言う。
この、あはれは、可愛そうだということになる。
その方は、お残しなさった、忘れ形見もないのですか、と、あの幼女の身元が知りたくて、尋ねる。
僧都は、ちょうど、亡くなる頃に生まれました。それも、女の子でして。その子がまた、心痛の種になると、妹は、晩年になり、愚痴っています、と言う。
では、矢張りと、思うのである。



源氏「あやしき事なれど、幼き御後見見におぼすべく、聞え給ひてむや。思ふ心ありて、行きかかづらふ方も侍りながら、よに心のしまぬにやあらむ、独住にてのみなむ。まだ似げなき程と、常の人におぼしなずらへて、はしたなくや」など宣へば、僧都「いとうれしかるべきおほせ言なるを、まだむげにいはけなき程に侍るめれば、戯にても御覧じ難くや。そもそも女人は人にもてなされて、おとなにもなり給ふものなれば、委しくはえとり申さず。かの祖母に語らひ侍りて聞えさせむ」とすくよかに言ひて、ものごとは様し給へれば、若き御心にはづかしくて、えよくも聞え給はず。僧都「阿弥陀仏ものし給ふ堂に、する事侍る頃なむ。初夜未だ勤め侍らず。すぐして侍はむ」とて、のぼり給ひぬ。



源氏は、変な話ですが、私に、その幼い方の、お世話をさせて下さりませと、お話ししてくださいませんか。少しばかり、考えるところが、あります。
かかわりのある者も、おりますが・・・
まるで、気が合わないというか、独り暮らしばかりで。
まだ、似合わないと、世間の男のように、私のことを、考えては、きまりが悪いのですが。
と、仰ると、僧都は、誠に、ありがたいお言葉です。
まだ、一向に、ものの解らない年頃です。
ご冗談にも、お世話して下さることは、出来ないと思います。
いったい、女は、男によって、一人前になるものですから、私からは、詳しいことは、申し上げられません。
あの子の、祖母に相談しましょう。と、素っ気無く言う。
堅苦しい様子で、源氏は、若さゆえに、間の悪い気持ちで、うまく話が出来ないで、いた。
僧都は、阿弥陀仏をお祭りしてある、お堂に、お勤めをする時刻です。
初夜を、まだ勤めていませんので、すまして参ります。と言い、御堂にお上がりになった。


行きかかづらふ方も侍りながら
正妻の元に通うということ。行きべき所もあるが。

常の人におぼしなずらへて
結婚しか考えない男たと、同じように、考えられないで、欲しいと、言うのである。

戯れ御覧じ難くや
妻とするには、幼いのである。

僧都は、源氏の申し出に、戸惑い、真意を測りかねるのである。
源氏も、自分の申し出が、何やら、恥ずかしい。
一体、源氏は、何を考えているのか。
可愛らしい女の子を、自分の好みに、育てたいと、思うが、それは、真っ当なことなのか。

ここに至ると、源氏の好色も、少し、意味合いが違ってくるのである。
源氏には、幼女趣味もあるのか。

その、源氏の心象風景が、次の、描写にあると、思われる。



君は心地もいとなやましきに、雨すこしうちそそぎ、山風ひややかに吹きたるに、滝のよどみも勝りて、音高う聞ゆ。すこしねぶたげなる読経の、絶え絶えすごく聞ゆるなど、すずろなる人も、所がらものあはれなり。まして、おぼしめぐらす事多くて、まどろまれ給はず。初夜と言ひしかども、夜もいたう更けにけり。内にも、人の寝ぬけはひしるくて、いと忍びたれど、数珠の脇息にひきならさるる音ほの聞え、なつかしううちそよめく音なひ、あてはかなり、と聞き給ひて、程もなく近ければ、外に立てわたしたる屏風の中を、すこしひき開けて、扇をならし給へば、覚えなきここちすべかめれど、聞き知らぬようにや、とていざり出づる人あなり。



君は、気分が悪いのである。
そこへ、雨が、すこしうちそぞき、パラパラと降ってきた。
山風も、冷え冷えとして、吹く。
滝も、水が多くなったのか、音が高く聞える。
少し、眠そうな読経の声が、途切れ途切れに、凄く聞こえる。
心無い者でも、こういう場所では、あはれに思う。この場合の、あはれ、というのは、静粛に、という意味か、静かなる心という意味か。
色々と、思いめぐらすことが多い、君は、しかし、それどころではないようで、うとうとすることもない。
初夜というが、夜は、すっかり更けている。
奥のほうでは、人の寝ていない様子が解る。
辺りを、はばかっているが、数珠が脇息に触れる音が、仄かにも聞える。
うれしい、静かな衣擦れの音が、上品だと思う。
広くない、近いことゆえ、外側に立て連ねた、屏風の中ほどを、少し開けて、扇を鳴らすと、奥の方では、思いがけない感じがするようだが、聞えないふりが出来ないとあり、にじり出る者がいる。


このような、細かな描写は、紫式部の得意である。
当時の様、実に目に見えるようである。

なつかしううちそよめく音なひ
なつかしい、とは、心に響くであろう。そして、うちそよめく、とは、微妙な音である。静かな音。
これは、このまま、原文の言葉を、味わうしかない。

扇をならし給へば
扇を鳴らすのは、人を呼ぶということである。
それを聞いた、女房たちは、無視することも出来ず、どうしょうかと、逡巡して、出たり入ったりするのである。
相手は、源氏であるから、どう、対処していいのやら。
その辺りの、描写は、原文のままの方が、実感として、伝わるのである。

posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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