2008年10月08日

神仏は妄想である 167

日蓮を終わるに当たって、今一度、信仰というものを、考えてみる。

特に、日蓮の場合は、今まで日本には、無い、信仰のあり方だった。
どちらかというと、一神教に近い。
唯一の道を、特に強調する。
更に、経典の読み方である。

法華経にある、隠れて見えないもの、文底にあるものは、題目であるという、発見というか、勘違いというか、勝手な妄想である。

イスラムの預言者、ムハンマドを思い出すとよい。
非常に、その精神構造が似ている。

その言葉の中には、およそ、宗教とは、かけ離れた、勝ち負けという言葉が、多く出る。
これは、日蓮宗系の、集団に多いが、勝ち負けが好きである。
闘争を、好むのである。そして、その闘争が大きければ、大きいほど、正しいと思う、思い込む。

更に、自分たちが、勝手に作り上げた言葉で、議論するという、とんでも、議論好きな者となる。

日蓮教学を、お勉強して、それに則って、何やら言うから、混乱する。
更に、言葉の多くが、確信につながる。
その多くは、洗脳である。
おおよそ、自己洗脳に至るのである。

そして、信仰とは、自己洗脳といえることが、日蓮宗系の人々を見ると、良く解る。
他宗を、攻撃するが、イスラムと、同じで、派閥の方に対する、攻撃の方が強い。
同じ、法華経を奉じる集団にも、容赦の無い、攻撃を加える。
果たして、それが、宗教というものなのだろうか。

勿論、宗教という概念は、西洋の宗教学からのもので、日本には、宗教という概念は無い。
日本には、神の思想であり、宗教ではない。
神という言葉を、使用しなくても、いい。
実際は、カミという言葉は、外来語であり、カム、であり、カムイである。アイヌ民族は、カムイと呼ぶ。
日本の場合は、自然に隠れる、様々な働きを、主と、見立てる。
屁理屈は無い。

屁理屈が無いことを、教義がないという、言い方をする。
勿論、教義など、必要ない。
自然の働きを、見つめていれば、すべてが、解るようになっている。

故に、西洋の宗教という概念で、日本の神信仰を、見る場合は、所作しかない。
所作とは、行為である。
その、行為の中にある、見えないものを、西洋の人は、観ることが出来ない。
そして、仏教、特に、日蓮宗系には、見えない。

文字面にあるもの、のみに、信仰がある。
要するに、観念と、洗脳である。

恐ろしいのは、久遠の仏を、仏ならしめたもの、それが、法華経であるという、短絡的思考法である。
一体、日蓮は、仏というものを、何と見立てたものか。
そして、その、法華経は、誰が書いて、誰が訳したものなのか。

妙法蓮華経と、訳したのは、クマラジューである。
三蔵法師玄奘の、前の時代の人である。
日蓮は、梵語を知っていたのか。
仏陀の言葉を、どこで聞いたのか。
経典を通して、聞いた、知ったのである。

冷静であれば、そのことを知る。そして、天竺を目指しても、いい。
現に、玄奘は、天竺を目指し、その多くの経典を、運び、訳したのである。

出来上がっている、料理に、少し手を加えて、新しい教えのように、装うという手は、イスラムと同じである。

日蓮の血の中には、セム的民の血が流れていたのかもしれない。
あの、激しさは、半端ではない。
更に、妄想は、また、激しい。

天台の、最澄は、法華経を身読しなかったという。
唯一、身を持って読んだのは、日蓮であるというのだ。

自己申告である。
そして、成仏というものも、自己申告なのである。

何度も言うが、法華経は、特に、ファンタジー性の強い、経典である。故に、如何様にも、解釈が出来る。
次々に、法華経を、解釈する人々が、現れる。
不思議である。
物語としては、面白いが、そこに、真実や、架空の仏云々となると、妄想、幻想以外の何物でもなくなる。

法華経を通して、仏陀の教えを、読むと、大半が誤る。
仏陀は、法華経が言う言葉を、発していない。

すべての、大乗経典に言えるが、創作である。

死ぬまでの、暇潰しに、作り上げたお話である。

当時、滅後も、尊敬されていた、釈迦仏陀を、出汁にしての、作り事である。
大乗は、今でいえば、在家の信者が、主となり、そこに、小乗といわれる専門の、釈迦仏陀の言葉を、扱う僧たちとの、共同で、始まった、同好会である。

釈迦仏陀の、言葉に近いものは、初期仏典にしかない。
それも、単なる、呟きのような、戯言のような言葉である。
それは、釈迦の生活指導の言葉の、名残であるから、威力は無い。

大乗仏典が出来た、あの当時のインドを、知るべきである。

それで、私は、それについても、書くことにした。

インド思想について、触れることにする。
インド思想史から、釈迦の言葉を見れば、少しは、冷静に対処できるだろう。

大乗の教えを、それこそ、命懸けで、天竺に行き、習い修めた、玄奘は、はっきりと、仏種に、五種ありと言う。
そして、その中で、仏になれない者がいると、言明する。
仏種の無い者である。
すべての人の心に、仏が在るというのは、勘違いも、甚だしい。
勿論、最澄、天台の教えからである。
そこから、変質し、誤った。

皆、人が、仏に成るなど、有り得ないのである。
勿論、私は、仏ではなく、日本の伝統にある、神、命、みこと、になるのであるが。

更に、仏の下に、神々がいるとする、神という観念も、日本のものではないと、言った。
日本の、カムは、仏教でいう神とは、次元も質も、違う。
誤るな。
霊的レベルが、違う。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第4弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

もののあわれ288

げにいと心殊に由ありて、同じ木草をも植えなし給へり。月もなき頃なれば、鑓水に篝火ともし、燈籠などにも参りたり。南表いと清げにしつらひ給へり。そらだきもの心にくく薫り出で、名香の香などにほひ満ちたるに、君の御追ひ風いとことなれば、内の人々も心づかひすべかめり。



なるほどに、同じ草木でも、格別の心して、風情あるように、植えられている。
月もない頃なので、庭の鑓水に篝火をともし、燈籠にも、灯が輝くのである。
南正面の、座敷をきれいに整えてある。
空焚きした香が、奥床しく薫る。
ご仏前の、香の匂いも、漂っている。
そこに、君の衣装からの香も格別なものであるから、奥にいる女たちも、気を使っているのであろう。


そらだきもの心にくく薫り出で
室内を薫りで、包むのである。
そして、更に
名香の香などにほひ満ちたるに
それは、仏に奉る香りである。
また、さらに
源氏の君の、衣装の香りである。

紫式部の、筆が冴える。

当時の、日常生活を見れば、何故、香りがふんだんに使用されるかが、解る。
まだ、風呂の習慣がないのである。水浴び程度であるから、貴族は、体から、衣装まで、香を焚いて、薫らせたのである。

部屋の中に、奥床しく薫る香の匂いとは、そのまま、奥床しさに通じる。
特に、残り香という、漂う香りを好んだ。

源氏の衣装には、高貴な香りが、焚き籠められていたはずである。
いつも、源氏が通る後には、香の匂いが、漂う。

香を特別に嗅ぐ行為を、香を聞くという。
それは、静かな音を、聴きつける行為に似ているからだ。
目の前にある、香を、嗅いで、静かに顔を横にして、息を吐くのである。
その、行為が、聴きつけるように、見えることから、香を聞くという。



僧都、世の常なき御物語、後の世の事など聞え知らせ給ふ。「我が罪の程恐ろしう、あぢきたなき事に心をしめて、生ける限り、これを思ひなやむべきなめり。まして後の世のいみじかるべき」おぼし続けて、かうやうなるすまひもせまほしう覚え給ふものから、昼の面影心にかかりて恋しければ、源氏「ここにものし給ふは誰にか。尋ね聞えましき夢を見給へしかな。今日なむ思ひ合はせつる」と聞へば、うち笑ひて、僧都「うちつけなる御夢語りにぞ侍るなる。尋ねさせ給ひても、御心劣りせさせ給ひぬべし。故按察使大納言は、世ににくて久しくなり侍りぬれば、え知ろしめさじかし。その北の方なむ、なにがしが妹に侍る。かの按察使かくれて後、世をそむきて侍るが、此の頃わづらふ事侍るにより、かく京にもまかでねば、たのもし所に籠りてものし侍るなり」と聞え給ふ。



僧都は、この世は、無常であることや、死後の事となどを話して、聞かせる。
君は、我が事の罪業が恐ろしく、このような、けしからぬことをして、生きている間、この事を、悩み続けるのであろう。まして、後の世に、苦しむことは、大変だと思うのである。
こんな生活をと、思いつつも、昼間見た、顔立ちが、気になり、恋しく思い、ここに、住まわれているのは、どなたですか。お尋ね申したい夢を見ました。今日、はじめて思い当たりました、と言う。
僧都は、微笑み、突然に、夢のお話ですか。お尋ね遊ばしても、ご期待はずれあそばすと思いますが、故按察使 こあぜちの大納言は、みまかりましてから、随分になります。
ご存知では、ないでしょう。
その北の方と申すのが、拙僧の妹でございます。
あの、按察使が亡くなりましてから、出家しました。
この頃は、病で、拙僧が、このように、京にも出ませんために、ここを頼りにして、ここにいます。と、言上される。

あぢなき事に心をしめて
けしからぬこと。
よからぬこと。
それに、心を囚われている、のである。

かうやうなるすまひもせまほしう覚え
このような、出家生活をすれば、罪業消滅もなるのだろうがと、思うのである。
しかし、それよりも、誘惑に駆られるのである。

我が身を、罪深いと、感じつつも、昼間の、顔立ちが、気になる、源氏である。

夢を見たことが、このことだったと、実に、うまい嘘をつくものである。

作者は、本当のような、嘘の話を、事細かに、丁寧に書き綴る。



源氏「かの大納言の御むすめ、ものし給ふと聞き給へしは。すきずきしき方にはあらで、まめやかに聞ゆるなり」と、おしあてに宣へば、僧都「娘ただ一人侍りし。亡せて此の十よ年にやなり侍りぬらむ。故大納言、内に奉らむなど、かしこういつき侍りしを、その本意のごとくもものし侍らで、過ぎ侍りにしかば、ただこの尼君一人もてあつかひ侍りし程に、いかなる人のしわざにか、兵部卿の宮なむ、忍びて語らひつき給へりけるを、もとの北の方、やむごとなくなどして、やすからぬ事多くて、明け暮れ物を思ひてなむ、なくなり侍りにし。物思ひにやまひづくものと、日に近く見給へし」など申し給ふ。



源氏は、その大納言に娘さまがいられると耳にしました。その方は。
いえ、浮いた心からではありません。真面目に、申し上げるのです。と、あてずっぽうに言う。
僧都は、娘が、一人ございます。
亡くなって、十何年になりましょうか。
故大納言は、宮仕えに差し上げようとの、つもりがあって、たいそう大事にしていました。
その望みが叶わぬうちに、亡くなりましたので、ただこの尼君が、一人で、世話をしております。
どういう者の、手引きか、兵部卿の宮様が、こっそりと、通われて、宮様のご本妻が、お家柄のことで、色々あったりと、おもしろくない事が、あれこれとあり、日夜物思いのし通しで、亡くなりました。
心痛で、病になるものと、身近に見ましたことです。と、言う。

いかなる人のしわざにか
誰かの頼みにより。
もとの北の方 やむごとなくなどして
元来の奥方のことであり、その方は、身分の高い方である。

当時の、身分制度というものが、解る。
今で言えば、家柄である。

姫つきの女房が、宮に頼まれて、事を運んだ。
兵部卿が、密かに、逢いに来ていたが、色々と心配事になり、それで、病気になって、亡くなったのである。

それは、娘は、兵部卿が父であるということになる。
物語は、このように、おもしろく展開してゆく。
源氏は、この娘を、どうするのか。

posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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