2008年10月06日

神仏は妄想である 165

日蓮を書いている。
日蓮を信仰の中心にしている人には、私が、読み込みが浅く、浅はかであると、言うだろう。

しかし、実は、私が宗教家で、最も、一番最初に、敬意を表し、その様を真似たのが、日蓮である。

小学四年生だった。
学校の図書館から、本を借りることが出来る、学年になり、早速、私は、図書館から、本を借りる。
その最初が、世界の偉人伝である。
四年生用という、本棚から、借りるのである。

そこで、日蓮の伝記を、読んだ。
感動した。
なんて、強い人だろう。迫害の場面では、手に汗握り、日蓮のために、題目を唱えた。すると、私の題目によって、日蓮は、迫害を、物ともせずに、超えて行く。
であるから、私が題目を、唱え始めたのは、10歳からである。
それ以後、唱え続けた。

カトリックの洗礼を、受ける日の前日の、夜の夢は、忘れない。
一人の僧が現れて、私に、本当に洗礼を受けるのかと、問う。
受けるというと、それでは、と、私を、地獄の場に連れて行き、その様を見せた。

地獄についての、知識はなかった。しかし、それが、地獄の場であることを、知っていた。
不思議な夢だった。
その、僧は、一度だけ出て来た。

夢である。

単なる夢である。

それから、私は、カトリック、キリスト教の思想を、六年間に渡り、学ぶことになる。それは、徹底していた。
徹底的に、キリスト教というものを、学んだ。そして、唯一これこそが、人類の救いであると、信じた。

更にである。
青年期特有の、憂鬱ぎみの心に響いたのが、仏教であった。
宗派ではない。仏教なのである。
浄土経典、真言宗系、曹洞宗、道元の修証儀などは、いつも、読んでいた。というより、読経していた。

般若心経を、百日絶えず、唱え続けていたこともある。
勿論、法華経も、ことあるごとに、唱えた。
先祖供養と証して、一人で、唱えていた。
家は、浄土宗であるが、何でも、唱えた。

更に、他宗教の、経典、新興宗教の経典なるもの、大半を読破した。

比較検討するのではない。
そのまま、素直に受け入れるのである。

今は、大半を捨てたが、世界統一教会、モルモン経典、ものみの搭、更に、新宗教として、登場した、多くの出版物を読んだ。
オウム真理教の、本も、読んだ。
幸福の科学は、一時期、流行して、どんどんと、本が入ってきた。

そして、衝撃だったのは、昔の言い方を、すれば、心霊である。
霊的能力者の存在である。
テレビ番組で、霊媒にかかった、霊との、会話もした。
それは、私には、衝撃だった。
それを、真とするか、偽とするかは、今は、書かない。

死んでからも、漂う霊の存在に、衝撃を受けた。
更に、読経をすることによって、それらの霊が、上昇する、浄化するということである。
勿論、中には、それをも拒み、そこに、自縛する霊もいた。

人間とは、何か。
深夜、考え続けた時期がある。
死んでも、死んでいない人間の、魂。

およそ、二十年間の、札幌生活を捨てて、鎌倉に転居した。
意味は無い。
ただ、鎌倉に住むというだけのことである。

その三年間の、地獄の日々は、今も、思い出すのを、嫌悪する。

パニック障害と、抑鬱の合併症に、一日を生きることが、綱渡りのような、日々だった。
それなのに、私は、一日、四五時間、鎌倉を歩いた。
勿論、日蓮ゆかりの地にも、出掛けた。

辻説法の場所は、通り道だった。

これを書くと、長くなるので、ここで省略する。

仏の滅度したまへる後の、恐怖の悪世の中において、我らまさに広く説くべし。諸々の無智なる人の、悪口し罵詈する等、及び刀杖を加ふる者あらんも、我らみなさまに忍ぶべし。
日蓮

法華経を広めることは、迫害を受けることであると、信じた日蓮である。
迫害されることは、それが、真実のものであるから、だと。

末法思想という、根拠無き、思想によって、危機感を募らせる。更に、正法が行われないから、国が乱れ、天災が起こり、他国の侵入がある等々。

独断と偏見は、免れない。
自業自得を、これ仏の云々と、やると、手がつけられないのである。

日蓮なくば誰か法華経の行者として仏語を助けん。
日蓮

どうして、ここまで、イッだの。
イッてしまったのだ。

彼は、仏、つまり、仏陀に代表される、仏を知っていたのか。
日蓮の仏は、日蓮だけのものである。
日蓮の仏が好きな人は、それで、いい。
しかし、法然の、親鸞の、道元の仏が、好きな人もいる。
それは、性格である。
更に、仏という存在を置かずに、死ぬ人も多い。

日蓮は、自分以外の仏を、奉ずる者を、地獄に落ちるという。
多くの、日蓮に関する、著作を読むが、皆々、日蓮の凄さ、素晴らしさ、その、仏法の有り様を、評価する。

私は言う。
あれは、日蓮だけのための、仏の思想である。

日蓮が、生きるために、必要だった、日蓮の仏観である。

私は、日蓮の思想、政治に関する考え方、宗教論は、いらない。
ただし、私が、日蓮を、評価することが、一点だけある。

それは、手紙である。
信者に向けた、手紙に、表の、日蓮ではない、実に、温かい人柄の、日蓮がいる。

そのようにしか、生きられないことは、理解したが、その思想は、妄想である。
日蓮の描く、仏というものは、無い。
完全なる、妄想である。
何となれば、法華経とは、架空のお話である。

そこのみから、なにがしかの思想を、築く者、多数。
多数というより、甚だしき数である。

ハリーポッターを、利用して、思想を作るのである。それに、似る。
ちなみに、大乗仏典は、すべて、そうである。
更に言えば、宗教経典は、すべて、そうである。

人間が想像した、幻想のお話である。
文学として、対処するのが、真っ当な感覚である。
拝む、祈る、など、とんでもない、暴挙である。

どうしても、拝むもの、祈るものが、欲しい人は、自然に拝み、祈るべきである。
神仏によって、生かされて生きるのではない。
人間は、自然によって、生かされて、生きるのである。

神の言葉など無い。
それは、幻聴であり、精神異常である。

鎌倉仏教の始祖たちは、幻聴を聞いたのである。
精神異常である。
そして、それは、時代性である。

今の時代には、通用しない。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第4弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

もののあわれ286

尼君

おひ立たむ ありかも知らぬ 若草を おくらす露ぞ 消えむ空なき

また居たるおとな、「げに」とうち泣きて
女房

初草の おひ行く末も 知らぬ間に いかでか露の 消えむとすらむ

と聞ゆる程に、僧都あなたより来て、僧都「こなたはあらはにや侍らむ。けふしも端におはしましけるかな。かの上の聖の方に、源氏の中将の、わらはやみまじなひにものし給ひけるを、只今なむ聞きつけ侍る。いみじうしのび給ひければ、知り侍りながら、御とぶらひにもまうでざりける」と宣へば、尼君「あないみじや、いとあやしき様を人や見つらむ」とて、簾おろしつ。



尼君
これから育つ、若草を残して、露は消えてゆく。そんな消え行く空は、どこにもありません。
そこに居た女房が、本当ですと、言いつつ泣く。
初草が、生長していく先も解らず、どうして、露は、消えてしまうのでしょう。
と、申し上げるうちに、僧都がやってきて、ここは、外から、丸見えです。今日にかぎって、尼君は、端近くに出でて、おいでになります。この上の、聖の坊に、源氏の中将が、おこりの、まじないに、お出でになったことを、たった今、聞き付けました。
源氏の君は、たいそうなお忍びでいらして、私は知らずにいて、お見舞いにも、伺っていません。と、仰るので、尼君は、まあ、大変なこと。たいそう見苦しい様を、誰かが、見ていなかったのかと、御簾を、下ろした。



僧都「この世にののしり給ふ光る源氏、かかるついでに見奉り給はむや。世を捨てたる法師の心地にも、いみじう世の愁忘れ、よはひのぶる人の御有様なり。いで御消息聞えむ」とて立つ音すれば、帰り給ひぬ。


僧都が、今、世間で、評判の高い光源氏を、こうした機会に、見申し上げませんか。世を捨てた法師の心にも、世を忘れ、寿命も延びるほどの、君のご様子です。さて、ご挨拶を、申し上げましょう。と、立つ音がするで、源氏は、その場から、離れて、帰られた。



源氏を、一目見ようと、法師が言う。
それは、世を忘れ、寿命も延びるほどの、美しい源氏だというのである。
しかし、作者は、源氏を、ただ、光るばかりに、美しいとしか、書かないのである。



「あはれなる人を見つるかな。かかればこの好きものどもは、かかるありさまをのみして、よくさるまじき人をも見つくるなりけり。たまさかに立ち出づるだに、かく思ひの外なる事を見るよ」と、をかしうおぼす。「さても、いとうつくしかりつるちごかな。なに人ならむ。かの人の御かはりに、明け暮れの慰めにも見ばや」と思ふ心、深うつきぬ。



源氏は、あはれなる人を見つるかな、と思う。
この場合は、可愛い女童を見たことをいう。
こんな具合だから、あの色好みの者たちは、しきりに、忍び歩きをして、よくも、めったに見つけられそうにもない、女を見つけ出すのだ。私は、たまたま、出掛けただけなのに、このような、思いがけなく、出会うものだと、興味深く思うのである。
しかし、それにしても、可愛らしい子であった。
どんな人であろうか。あのお方の、身代わりとして、朝夕の、心の慰めに、あの子を、眺めたいものだと、思う。その心、実に、深いものであった。


かの人の御かはり、とは、藤壺のことである。
この時、源氏は、女の子と、藤壺が、血のつながるものだとは、知らない。

それにしても、紫式部は、とんでもない、ストーリィーを、思いついたものである。
源氏物語は、彫刻のように、出来ている。
全体の姿を、頭に入れて、それを、コツコツと、仕上げる様子に、描いてゆくのである。


posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神仏は妄想である 165

日蓮を書いている。
日蓮を信仰の中心にしている人には、私が、読み込みが浅く、浅はかであると、言うだろう。

しかし、実は、私が宗教家で、最も、一番最初に、敬意を表し、その様を真似たのが、日蓮である。

小学四年生だった。
学校の図書館から、本を借りることが出来る、学年になり、早速、私は、図書館から、本を借りる。
その最初が、世界の偉人伝である。
四年生用という、本棚から、借りるのである。

そこで、日蓮の伝記を、読んだ。
感動した。
なんて、強い人だろう。迫害の場面では、手に汗握り、日蓮のために、題目を唱えた。すると、私の題目によって、日蓮は、迫害を、物ともせずに、超えて行く。
であるから、私が題目を、唱え始めたのは、10歳からである。
それ以後、唱え続けた。

カトリックの洗礼を、受ける日の前日の、夜の夢は、忘れない。
一人の僧が現れて、私に、本当に洗礼を受けるのかと、問う。
受けるというと、それでは、と、私を、地獄の場に連れて行き、その様を見せた。

地獄についての、知識はなかった。しかし、それが、地獄の場であることを、知っていた。
不思議な夢だった。
その、僧は、一度だけ出て来た。

夢である。

単なる夢である。

それから、私は、カトリック、キリスト教の思想を、六年間に渡り、学ぶことになる。それは、徹底していた。
徹底的に、キリスト教というものを、学んだ。そして、唯一これこそが、人類の救いであると、信じた。

更にである。
青年期特有の、憂鬱ぎみの心に響いたのが、仏教であった。
宗派ではない。仏教なのである。
浄土経典、真言宗系、曹洞宗、道元の修証儀などは、いつも、読んでいた。というより、読経していた。

般若心経を、百日絶えず、唱え続けていたこともある。
勿論、法華経も、ことあるごとに、唱えた。
先祖供養と証して、一人で、唱えていた。
家は、浄土宗であるが、何でも、唱えた。

更に、他宗教の、経典、新興宗教の経典なるもの、大半を読破した。

比較検討するのではない。
そのまま、素直に受け入れるのである。

今は、大半を捨てたが、世界統一教会、モルモン経典、ものみの搭、更に、新宗教として、登場した、多くの出版物を読んだ。
オウム真理教の、本も、読んだ。
幸福の科学は、一時期、流行して、どんどんと、本が入ってきた。

そして、衝撃だったのは、昔の言い方を、すれば、心霊である。
霊的能力者の存在である。
テレビ番組で、霊媒にかかった、霊との、会話もした。
それは、私には、衝撃だった。
それを、真とするか、偽とするかは、今は、書かない。

死んでからも、漂う霊の存在に、衝撃を受けた。
更に、読経をすることによって、それらの霊が、上昇する、浄化するということである。
勿論、中には、それをも拒み、そこに、自縛する霊もいた。

人間とは、何か。
深夜、考え続けた時期がある。
死んでも、死んでいない人間の、魂。

およそ、二十年間の、札幌生活を捨てて、鎌倉に転居した。
意味は無い。
ただ、鎌倉に住むというだけのことである。

その三年間の、地獄の日々は、今も、思い出すのを、嫌悪する。

パニック障害と、抑鬱の合併症に、一日を生きることが、綱渡りのような、日々だった。
それなのに、私は、一日、四五時間、鎌倉を歩いた。
勿論、日蓮ゆかりの地にも、出掛けた。

辻説法の場所は、通り道だった。

これを書くと、長くなるので、ここで省略する。

仏の滅度したまへる後の、恐怖の悪世の中において、我らまさに広く説くべし。諸々の無智なる人の、悪口し罵詈する等、及び刀杖を加ふる者あらんも、我らみなさまに忍ぶべし。
日蓮

法華経を広めることは、迫害を受けることであると、信じた日蓮である。
迫害されることは、それが、真実のものであるから、だと。

末法思想という、根拠無き、思想によって、危機感を募らせる。更に、正法が行われないから、国が乱れ、天災が起こり、他国の侵入がある等々。

独断と偏見は、免れない。
自業自得を、これ仏の云々と、やると、手がつけられないのである。

日蓮なくば誰か法華経の行者として仏語を助けん。
日蓮

どうして、ここまで、イッだの。
イッてしまったのだ。

彼は、仏、つまり、仏陀に代表される、仏を知っていたのか。
日蓮の仏は、日蓮だけのものである。
日蓮の仏が好きな人は、それで、いい。
しかし、法然の、親鸞の、道元の仏が、好きな人もいる。
それは、性格である。
更に、仏という存在を置かずに、死ぬ人も多い。

日蓮は、自分以外の仏を、奉ずる者を、地獄に落ちるという。
多くの、日蓮に関する、著作を読むが、皆々、日蓮の凄さ、素晴らしさ、その、仏法の有り様を、評価する。

私は言う。
あれは、日蓮だけのための、仏の思想である。

日蓮が、生きるために、必要だった、日蓮の仏観である。

私は、日蓮の思想、政治に関する考え方、宗教論は、いらない。
ただし、私が、日蓮を、評価することが、一点だけある。

それは、手紙である。
信者に向けた、手紙に、表の、日蓮ではない、実に、温かい人柄の、日蓮がいる。

そのようにしか、生きられないことは、理解したが、その思想は、妄想である。
日蓮の描く、仏というものは、無い。
完全なる、妄想である。
何となれば、法華経とは、架空のお話である。

そこのみから、なにがしかの思想を、築く者、多数。
多数というより、甚だしき数である。

ハリーポッターを、利用して、思想を作るのである。それに、似る。
ちなみに、大乗仏典は、すべて、そうである。
更に言えば、宗教経典は、すべて、そうである。

人間が想像した、幻想のお話である。
文学として、対処するのが、真っ当な感覚である。
拝む、祈る、など、とんでもない、暴挙である。

どうしても、拝むもの、祈るものが、欲しい人は、自然に拝み、祈るべきである。
神仏によって、生かされて生きるのではない。
人間は、自然によって、生かされて、生きるのである。

神の言葉など無い。
それは、幻聴であり、精神異常である。

鎌倉仏教の始祖たちは、幻聴を聞いたのである。
精神異常である。
そして、それは、時代性である。

今の時代には、通用しない。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第4弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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