2008年10月01日

もののあわれ281

若紫

新しい段である。
源氏18歳の三月から十月までの、話である。


わらはやみにわづらひ給ひて、よろづにまじなひ加持などまいらせ給へど、しるしなくて、あまたたびおこり給ひければ、ある人、「北山になむ、なにがし寺といふ所に、かしこき行ひ人侍る。こぞの夏も世におこりて、人々まじなひわづらひしを、やがてとどむるたぐひあまた侍りき。
ししこかしつる時は、うたて侍るを、とくこそこころみさせ給はめ」など聞ゆれば、召しにつかわしたるに、行者「老いかがまりて、むろのとにもまかでず」と申したれば、君「いかがはせむ。いとしのびて物せむ」と宣ひて、御ともにむつまじき四五人ばかりして、まだあかつきにおはす。



わらはやみ、とは、マラリアではないかと言われる。
おこり、とも言われた。
病にかかられて、まじない、加持祈祷など、何から何まで、やったが、効き目なく、何度も発熱する。
ある人が、北山に、何々寺という所に、すぐれた行者がいます。昨年の夏も、流行し、みな祈祷の効果なく困りましたが、この行者が、すぐに治すということで、こじらせては、やっかいですから、早く、試してみましょうと、言う。
行者を、呼びにやらせたところ、老衰のため、外に出ることが、できませんとの、返事である。
君は、しかたがない、それでは、こっそりと、出掛けると、親しいお召使の、四五人を連れて、まだ、暗い中に、出発する。



やや深う入る所なり。やよひのつごもりなれば、京の花ざかりは皆すぎにけり。山の桜はまだ盛りにて、入りもておはするままに、霞のたたずまひもをかしう見ゆれば、かかるありさまも慣らひ給はず、所せき御身にて、めづらしうおぼされけり。寺のさまもいとあはれなり。峰たかく、深きいはの中にぞ、ひじり入り居たりける。


庵は、少し山深く入るところにあった。
三月下旬である。
京の花盛りは、終わっていたが、山の桜は、まだ盛りである。
山深く入ると、霞のかかるように、おもしろく見える。
源氏は、見慣れぬ山深い風景を、見る。外出も、思うように、出来ない身分であるゆえ、珍しい風景に、感動する。
寺のさまも いとあはれなり。
この場合の、あはれ、とは、寺の様子も、実に、ありがたく思うと、訳してよい。
峰が高く、深い岩穴の中に、僧は、住んでいた。

その前後の、言葉により、あはれ、という言葉の心象風景が、変化する。
限定して、言い表せない思い、また、その有様を、あはれ、という言葉で、表すのである。

あはれ、という、言葉の世界の広がりを、観る。



のぼり給ひて、たれとも知らせ給はず、いといたうやつれ給へれど、しるき御さまなれば、ひじり「あなかしこや。ひと日、召し侍りしにやおはしますらむ。今は此の世の事を思ひ給へねば、験がたのおこなひも、捨て忘れて侍るを、いかでかうおはしましつらむ」と驚きさわぎ、うちえみつつ見奉る、いとたふとき大徳なりけり。さるべき物つくりてすかせ奉り、加持などまいるほど、日たかくさしあがりぬ。



登りて、誰とも、知らせずに、粗末なお召し物であったが、それとすぐに解る、風采ゆえに、行者は、やれ、恐れ多いこと。先日、お召しあそばされた、お方が、おいでくださったのでしょうか。もはや、現世のことは、思いませんゆえに、病気の加持祈祷など、忘れてしまいました。どうして、このように、お越しくださったのでしょうかと、言う。
驚き、うろたえて、顔を、ほころばせ、お姿を、拝する。
実に、徳の高い、僧であった。
あらたかなるお守りを作り、それを、飲ませて、加持などして、差し上げるうちに、日が、高く上ってきた。


僧は、謙遜して、源氏に対する。
源氏の身分を、見抜いたのである。

当時の、天皇は、天子様である。
その、貴さは、並々ならぬもの。
その、お子様である、源氏である。


現在、言われる、天皇制といわれるもの、実に、愚かしい議論である。

私に言わせれば、知らない者の、戯言である。
実に、天皇の歴史は、大和朝廷から、遠く以前に、遡る。
9000年以上の歴史がある。
知らないことは、ないことであるから、無いと、信じているだけで、単に知らないのである。

大和朝廷の前は、富士王朝である。
それは、一度、列島に住んでいた民が、旅をして、ペルシャ辺りで、王朝を建てた時から、はじまる、長い歴史である。

天皇の前は、神皇であった。
簡単に説明すると、富士山麓に、戻り来て、富士王朝を建てて、そこで、国造りをする。
途中から、九州に、軍事と、政治を、任せることになり、王朝の神皇であった一人が、九州王朝の、主に就任する。

富士王朝と、九州王朝は、血脈がある。

一足飛びに、神武天皇に至るが、その即位の際に、富士王朝から、使者が来て、神器をもって、所作に則り、即位の儀を執り行う。

富士王朝は、祭祀の、所作のみを、受け持ったのである。
しかし、それが、本家である。

九州は、神都であり、富士は、天都である。

いずれ、この日本史は、紹介する。

要するに、天皇制を言う者は、それの歴史を知らない。

確かに、神武天皇の即位前後に、少しの、波乱があるが、それは、歴史の必然性である。

天皇の歴史は、神武以前、富士王朝からのものであることを、言っておく。

さらに、世界広しといえど、その大半の期間を、武器、武力無しに、王権を維持したというのは、天皇家、さらに、神皇家の、大変重要な、ポイントである。
何故、武器、武力なしに、王権の府、高天原を、維持できたかである。

それは、民の、支持を得て、その民の心の、芯となったからである。

神武天皇の、歴史から見ても、天皇家が、武力を持つ時期は、はなはだ少なく、また、基本的に、武力を持たないという、王権である。

こんなことは、世界に類がないのである。

すべての、王は、武力を持ち、軍隊を持つ。
しかし、日本の天皇家は、一切それらを、持つことが無かった。
あの、織田信長さえ、無防備な、天皇家を、焼き討ちすることがなかった。
何故か。
民の信頼、甚だしく、天皇を、敵にすることは、すべての、国民を敵にすることと、同じだったからである。

以下省略。



posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神仏は妄想である 160

「専修」せんじゆ という言葉は、念仏にむすびついてのみ語られるが、唯一の信以外のすべてを、雑修余行として斥けるという意味に解すれば、鎌倉仏教の祖師たちはすべて「専修」である。たとえば比叡山風の八宗兼学とか、密教と浄土教をともに学ぶとか、そういう態度から脱却した。
亀井勝一郎は、日本人の精神史に、そう書く。

そういう態度から、脱却して、選択仏教、専修を選んだ。
その訳は、衆生を救うためである。
その、傲慢極まりない、救済意識は、如何ともし難いのである。

更に、悪いのは、私は、救われない者だという、罪悪感溢れる、自己顕示の意識である。
それを、信仰の深さと、解釈、解説したのは、誰か。
皆々、教団から、金を得る者である。

救われ難き身であるから、弥陀の本願があるという、手前勝手な、思索を、深いと、理解した、自称知識人たちである。

さて、亀井は、その後に、こう続ける。

西行は密教の行者であり、浄土教の信者であり、法華経の持者であり、神ながらへの畏敬者であった。雑修の苦悩の涯まで歩いて行って、ついに唯一の信に達し得なかったことを私はさきに語った。結局は文学が障りとなったのではなかろうか。
と、言う。

これは、逆である。
文学が、救いになったのである。

唯一の信とは、何か。
そりは、唯一の拘りであり、実に、偏狭極まりないという、信仰態度である。
あの、一神教という、非寛容、実に、排他的な信仰になるのである。

しかしひきつづく乱世は、祖師たちに、ひとえに「捨てる」ことを迫った。同時にすべての改革能力とは、ただ「専修」にのみ発すると言ってよい。法然の場合をみても、そのために様々の紛争が起こり、同門からの意義異端も出たが、「専修」という態度がいかに強烈な変革力であったかを示すものであろう。信仰の厳密化による純化が根本になければ、末法の錯乱を生き抜くことは出来なかったのだ。
亀井勝一郎

上記は、評価のし過ぎである。
彼らは、そのようにしか、生きられなかったのである。

信仰の厳密化による純化など、ある訳が無い。
単なる、拘りである。
そして、それは、妄想である。

阿弥陀仏とは、創作想像の、モノである。
更に、末法などいう考え方は、釈迦仏陀が、教えたものではない。
ちなみに言うが、その後に、弥勒菩薩という、魔界の、仏が、この世を救うという、お話も、お話であり、仏陀は、そんなことを、一言も、言わないのである。


いずれの信仰においても、それは「自我」意識から出たものではないということだ。日蓮の場合は、法華経自体の生命を「強情」に表現したたけである。「私」の非寛容というものではない。法然や親鸞の態度は実に寛容にみえる。他の信仰に対してことさら非難せず、また非難をうけても、謙虚な受動的態度をとったが、しかし唯一の信仰に徹しようとしたかぎり、そこには他の信仰へのきびしい拒絶がある。親鸞にあっては、その拒絶は沈黙のうちになされる。
亀井勝一郎

ちなみに、亀井氏は、親鸞への、帰依を申し出ている。
それにより、彼らを理解しようとする、気持ちは、良く解る。しかし、評価のし過ぎである。

専修とは、自我意識であり、まさしく、私の、意識である。

亀井氏は、さらに
この場合もむろん「私」のはからいであってはならない。寛容、非寛容ともに、各個人の精神として語るべきではなく、「専修」の場合の自己放下の「行」心として語らなければならないものであり、根本は仏心に発する。
と、言う。

この、根本である、仏心というものは、妄想である。

この、法然、親鸞、日蓮に、共通するのは、仏法の破壊者といわれたことである。
既成仏教から、破壊者と言われる理由は、実に多い。それだけ、革新的だったとも言える。

彼らの、功績は、信仰というものを、一般的に、広めたことである。
いや、仏教というものを、大衆化したことである。
お上が崇めていた、仏というもの、それを、大衆に提供したのである。
それにしては、随分と、大掛かりである。

兎に角、乱世を、末法の世と、考えて、危機意識を持って、世の中に対したということは、意義がある。

ただし、それらは、皆、考えようなのである。

彼らの、名は、今でも、残っているが、彼らより、世の中に尽くした者たちがいる。
僧という名で、活動した者である。

その一人、忍性にんしょう、という僧は、日蓮に、雨乞いの祈りで、徹底的に攻撃された僧である。

忍性は、その師匠の叡尊の、福祉事業を、更に進めて、非人の救済と、教化に尽くし、更に、らい病者の救済に当たった。
87歳で没するまで、189箇所に橋を架け、道を作ること71箇所である。
井戸も、33箇所掘り、浴室、病院、非人所と、設けた。

その行為は、行基や、空海によって、行われたが、次第に衰微していった。

このような、事業は、国家的であり、貴族、将軍などの、財政的援助がなければ、出来ないことである。
伽藍仏教も、そういう意味では、力があった。
忍性は、鎌倉幕府と、密接な関係もあり、常住していたというから、支援を受けて、福祉事業を為すことが、出来たのであろう。

しかし、今は、名も知れない僧である。

日蓮と、霊験を競ったというが、真偽は、解らない。
ただ、日蓮により、徹底的に、攻撃されている。
つまり、権力の側にいる者という意識が、日蓮をそうさせたのであろう。
忍性の行為は、外見のものであり、信仰に、基づくものではないという、日蓮の判定なのであろうが、それでは、日蓮は、何をしたのか。

戦うために、雨乞いの祈りをするが、福祉事業などには、目もくれない。
兎に角、権力者に、我を、我を、と売り込みである。

忍性のような、僧は、多くいた。
ただ、歴史に書かれないからである。

何故、法然や親鸞、日蓮が、歴史に書かれるのか。
それは、騒いだからである。
騒いだ者ほど、書かれるのである。

既成仏教に、物申すことなく、黙々として、目の前の、社会に奉仕した、名も無き僧たちを、忘れてはならない。
つまり、彼らこそ、鎌倉仏教の底辺にいた者たちである。
そして、それが事実である。

彼らは、念仏により、救われるだの、題目が、仏の云々という、騒ぎを起こすことなく、今、出来ることを、したのである。

今、出来ることを、する、人々によって、歴史は、作られる。

鎌倉仏教の、祖師たちは、名は残したが、残念ながら、一時期のものであった。
それは、彼らの、時代性にある、時代性妄想だったからである。

また、そこからしか、求めようがなかったとも、言える。

知らないものは、無いものであるから、仏教経典にしか、求めるべきものは無いのである。
その中での、料理であり、特別なものではない。

だが、文学に貢献したことは、実に大きい。

亀井氏の、総括は、以下である。
ただ信仰とはそもそも何か。その最も純粋で徹したすがたが、鎌倉仏教の祖師たちによってはっきりと示された。日本の全仏教史だけではなく、精神史全体からみても、空前あるいは絶後と言っていいほどの精神的大事件だったのである。

そして今、私は、日本仏教史の、空前絶後といってよい、神仏は妄想である、を、書く。
日本が、大乗仏教を受け入れて実践しているのだろうか。
全く、亜流である。
チベット密教により、多きな影響を受けた、天台密、真言密という、密教の、瑣末な、仏教という、偽の仏教を、大乗と、言うだけである。

彼らの、仏教は、作られた妄想の、仏教という、御伽噺である。
事実の、釈迦仏陀の、教えとは、遥かに遠いだけではなく、別物である。
次元が違う。

日本仏教は、商売であり、宗教などというものではない。

いずれ、このことについては、徹底的に書く。


posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第4弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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