2008年10月10日

もののあわれ290

すこしいぞきて、女房「あやし。ひが耳にや」とたどるを聞き給ひて、源氏「仏の御しるべは、暗きに入りても、更に違ふまじかなるものを」と宣ふ御声の、いと若うあてなるに、うち出でむ声づかひもはづかしけれど、女房「いかなる方の御しるべにかは。おぼつかなく」と聞ゆ。源氏「げに、うちつけなり、とおぼめき給はむも道理なれど、

はつ草の 若葉のうへを 見つるより 旅寝の袖も 露ぞかわかぬ

と聞え給ひてむや」と宣ふ。

女房「更にかやうの御消息、承り分くべき人もものし給はぬ様は、知ろしめしたりげなるを。誰にかは」と聞ゆ。源氏「自らさるやうありて聞ゆるならむと思ひなし給へかし」と宣へば、入りて聞ゆ。「あな、今めかし。この君や、世づいたる程におはするとぞ思すらむ。さるにては、かの若草を、いかで聞い給へることぞ」と、さまざまあやしきに、心乱れて、久しうなればなさけなし、とて、

尼君

枕ゆふ 今宵ばかりの 露けさを 深山の苔に くらべざらなむ

ひがたう侍るものを」と聞え給ふ。



しかし、また、引っ込みかけて、女房が、変です。聞こえたはずなのに、と、疑っている声を聞く。
源氏は、仏様の、お導きは、暗い中でも、決して、間違いないこと、と、仰る声が、若々しく、上品であり、お返事する言葉も、恥ずかしいのだが、女房は、どちらへの、ご案内でしょう。存じ上げませんが、と、申しあげる。
源氏は、いかにも、突然であるから、お解りにならないのも、もっともです。

源氏
はつ草の 若葉のうへを 見つるより 旅寝の袖も 露ぞかわかぬ

初草の、若葉のことを知ってからは、旅の宿りの、私の袖の涙は、かわきません。

と、申し上げてくださいと、仰る。

女房は、そのような、お言葉を、お伺いする方は、いらっしゃらないことは、ご存知のはずですが、どなたに、申せとのことでしょうと、申す。
源氏は、自然に、そしてある仔細があってのことと、お考え下さいと、仰るので、女房は、奥に入り、尼君に、申す。
尼は、ああ、派手なことです。
この君が、そんなことを、解る年頃ではないとは、思われないのでしょうか。
それにしても、どうして、あの、若草の歌を、お耳になさったのでしょう。
あれこれと、不思議に思う。
心乱れて、お返事申し上げず、遅れては、失礼と


枕ゆふ 今宵ばかりの 露けさを 深山の苔に くらべざらなむ

旅寝の枕を、今夜だけあそばす、お袖の露を、この奥山に住む者との、苔むす袂と、比べたりされないで、下さい。

それこそ、乾くことのないものです、と、女房を通して、お伝えする。


皆々、女房も、尼君も、源氏が、とんでもないことを言っていると、思うのである。
誰も、源氏が、相手にするような、女は、いないのである。
しかし、若草とは、あの子のことではないか。
しかし、まだ、幼女である。
そんな、馬鹿な。子供を、相手に、乞う歌など、変である。

尼君も、戸惑いつつ、返歌するのである。
ご身分も違い、更に、子供である、あの子にと、疑心暗鬼になるのである。

誰も、源氏が、自分の、好みのままに、育てたいなどとは、考えられないのである。

あな、今めかし。この君や、世づいたる程におはするとぞ思すらむ
尼の言葉は、最もである。
子供であることを、知らないはずはない。まだ、何も解らないと、知らないはずは無い。

あな、今めかし
まあ、今流行りだこと。
色好み、だこと。それにしても・・・
疑問符がつく。

尼の動揺は、孫が年頃の娘だと、思われていることと、若葉の歌を、知っていることが、不思議なのである。

結局、歌にて、同じ袖の涙も、あなた様と、違うものですと、歌う。同じように、考えなされませんようにと、歌うのである。



源氏「かやうの人伝なる御消息は、まだ更に聞え知らず、ならはぬ事になむ。かたじけなくとも、かかるついでに、まめまめしう聞えさすべき事なむ」と聞え給へれば、尼君「ひがごと聞き給へるならむ。いとはづかしき御けはひに、何事をかはいらへ聞えむ」と宣へば、「はしたなうもこそ思せ」と人々聞ゆ。尼君「げに若やかなる人こそうたてもあらめ・まめやかに宣ふ、かたじけなし」とて、いざり寄り給へり。



このような、取次ぎにての、ご挨拶は、いまだしたことがありません。初めてです。
恐縮ですが、この機会に、本気で、申し上げたいことがございます、と、仰る。
尼君は、お聞き違いでございましょう。
あのような、ご立派なご様子の方に、気後れして、何を、お返事いたそうかと、仰る。
女房は、しかし、きまり悪く思いでしょうからと、申し上げる。
尼君は、左様です。若い人は、辛く思います。
熱心に、語りかけられるだけでも、恐れ多いことです。
と言いつつ、屏風の場所に、にじり寄った。


いよいよ、源氏の考えていることを、聞くことになる。
一体、何を仰るのか。
尼君は、にじり寄り、源氏の近くに行く。

いとはづかしき御けはひに 何事をかはいらへ聞えむ
源氏の姿に、対して、いとはづかしき、と言う。
その、御けはひ、である。
そのご様子は、立派であり、恐れ多いのである。
源氏の、立ち居振る舞いにある、美しさとでも、言う。
それは、立派なお方、身分の高い、お方である。

そのため、何事かはいらへ聞えむ、なのである。
なんと、返事をしょうかと、戸惑うのである。

身分というものを、明確にしていた時代である。
この、身分によって、礼法が、生まれた。
敬語という、言葉も、身分により、生まれたものである。
身分というものを、人は、平等であるとした、現代は、自由に見えるが、礼法は、失われる。
それにより、秩序というものが、成り立った。
人の関係軸というものは、身分から、生まれる。

勿論、現代は、肩書きなどによる、柔らかな、身分というもの、意識する。
言葉遣いは、それの、明確化である。

人が、平等であるとは、その心や、魂においてであり、社会生活には、しっかりとした、身分、立場というものがあることを、教えることが、重要な社会関係軸を、作る。
それを、また、教育という。




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神仏は妄想である 169

仏というものは、いいかえれば「宇宙(人間をひっくるめた)の真理」です。太陽、星、人間、動物および植物、その他あらゆるものを存在させ、動かし、生かしている根本原理、あるいは宇宙の根本の力といってもいいでしょう。ですから、この宇宙ができてからこのかた、ずっと仏は宇宙のどこにも満ち満ちておられるわけです。そういう意味の仏を「本仏」といいます。

いいかえれば、「本仏」は「宇宙の真理」にほかならないのですから、だれであろうと、なんであろうと、スイッチを入れて、自分の生きかたの波長を「宇宙の真理」の波長に合わせさえすれば、たちまちそこに「仏」があらわれるのです。すなわち、わたしどもの心や体をおおっていた暗黒が消え去って、生き生きとした本来の生命の光が内から輝きだしてくるわけです。そうならないはずは絶対にありません。そして、それがほんとうの救いなのです。
庭野


何の根拠の無いことを、ここまで言えるという、狂いである。
心や体をおおっている暗黒という、観念。そして、生き生きとした本来の生命という、観念。さらに、絶対にありません、という観念。
極めつけは、それがほんとうの救いなのです、と、言い切る、恐るべき蒙昧の観念である。
それが、皆、法華経によるということ、である。

本当の救いと、言えるほどの、信念という、妄想の観念を、法華経から得たというのである。

この人は、何が、それほど、恐ろしかったのか。
自分が、死ぬことが、恐ろしかったのか。

膨大な大乗の、理屈は、ただ、死を恐れたゆえに、生まれたものか。


序品
オーン、すべての仏陀と菩薩たちに敬礼したてまつる。すべての如来、独覚、聖なる声聞たちに、また過去、未来、現在の菩薩たちに敬礼したてまつる。
広大な教えの経の王であり、最高の真実の道理にはいるための教えであり、大きな道であるところの「正しい教えの白蓮」を人々のために私は語ろう。
大乗経典 法華経

そして、世尊が、霊鷲山で、精舎にいた時に、説法された様子が書かれている。
はじまりは、わたくしは、このように聞いた、という、書き出しである。

釈迦の直接の弟子から、小乗で、阿羅漢となった、まだ菩薩に至らない境地のもの。大比丘衆、一万二千人がいたという。
さらに、大人大士、つまり、大きな志を持った人。天、竜、夜叉、その他の、鬼神や、動物もいる。
天とは、天上界にいるもの。竜は、海の底にいるもの。夜叉とは、空中を飛んでくるもの。人間に害を与えるといわれる、鬼神、地を這う虫類まで。

天地万物を、平等に済度するためである。
済度とは、救うということである。

出家者だけではなく、在家の修行者から、国王、王子、家来から、国民まで、ありとあらゆる階層の人が、詰め掛けていたという。


そして、そのときに、世尊の毛の渦から一条の光明が放たれた。その光は東のほうに向かって一万八千の多くの国土に流れ、その光でそれらすべての仏陀の国土―――アヴィーチ大地獄から最高の存在界にいたるまでーーーがはっきりと見え、それらの仏陀の国土にある六種の境涯のなかにいる衆生たちが見えた。
大乗経典

ここでは、仏陀、世尊と呼ばれる人たちが、数多くいるということである。

そして、そこで、最初に口を開いたのが、弥勒大菩薩であるという。
マイトレーヤである。
これが、曲者。全くの架空の存在であるが、仏滅後、この世を救うために、現れるという、弥勒菩薩である。

私は、このように聞いたと言って、壮大な妄想を展開するのである。


仏は、けっして人間だけを悟りに導こうというのではなく、天地の万物すべてを平等に済度しようという広大な慈悲をもっておられるのです。さればこそ、人を食う鬼でさえ、説法の席につらなることが許されているのです。また、他教の神々を排斥することもなさいませんので、みんな仏の話を聞くために集まっています。このことも、たいへん意味深いことです。
庭野

他教の神々とは、神々をも、下に置いたということである。
つまり、仏という地位が、最高位であるということ。

しかし、決して、日本の神と呼ばれる、天照る神や、八百万の神は、いない。

それらが、世尊の足元に、ひれ伏して、帰依の心をあらわし、供養するという。
供養とは、仏に感謝することだと、いう。

大知恵を、得て、すべての物事をはっきりと、見極める力がある、菩薩たちがいる。

この、大というものを、何にでもつける。
大勝利、大成果、大、大、大である。
大知恵とは、知恵と、どのように違うのか。

知恵とは、どのような意味か。
知とは、すべてのものの、違っている点を見分ける力。
恵とは、その違いを知る力であるという。

恵とは、すべてのものに、共通する真理を、見出す力であるという。

そして、それにより、違うものでも、仏性というものを、宿している。つまり、皆々、平等に仏になれるのであるという。

無明や老、病、死などのために苦しみあえいでいるのに対して、「十二因縁」の教えをもって、まるで夕立が暑さに苦しむ人々を生き返らせるように、その苦しみを除いてやる。ここまでが、小乗の教えであって、それから、いよいよ大乗の教えを説くのだとあります。
庭野

小乗は、そこで、止まっている。
次に、大乗の教えを説くというのである。
つまり、大乗こそ、真の教えなのであるという、段取りである。


大乗経典の、大芝居が始まる。

ある人は、小乗は、仏教ではないという。大乗が仏教なのであるという。
勿論、それは、絶対主観である。
更に、である。仏陀も、救えなかった者たちを救うために、この世に生まれてきたと、平然として言う様は、妄想の極みである。

仏教の教えを、端的に言えば、簡単である。
この世に、生まれないことなのである。
生老病死を体験するという、この世に、生まれない。
要するに、転生輪廻を体験しないことが、最高の救いなのである。

だが、この考え方は、何も、仏教のものだけではない。
後で、インド思想を書く時に、取り上げる。

子供が、親に、何故、私を生んだ。
生んでくれとは、頼まなかったと、口答えする様子がある。
その時点で、親子は、地獄である。

命を、大切にしているように言うが、仏教は、絶対生命軽視の思想である。
何度も言うが、生まれたことが、悪いのである。

それは、釈迦仏陀、以前の、バラモン、ヒンドゥーの教えの、継承である。
輪廻しないこと。
それが、最高の救い。

生まれたからこそ、生老病死というもの、体験し、様々な、思いを体験する。
生まれたからこそ、七転八倒して、生きられるのである。

自殺を止める思想は、仏教には、ないが、あるがごとくに言う。
大嘘である。
生きていなければ、いいのである。

ところが、彼らに言わせると、生きていなくても、悟りを得なければならないのであると言う。

悟りというものは、妄想である。
ちなみに、仏教の言う天上界というのは、魔界に他ならない。
と、私も、妄想を、かましてみる。

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2008年10月11日

もののあわれ291

源氏「うちつけに浅はかなりと御覧ぜられぬべきついでなれど、心にはさも覚え侍らねば、仏は自ら」とておとなおとなしう恥づかしげなるにつつまれて、とみにもえうち出で給はず。尼君「げに思ひ給へより難きついでに、かくまで宣はせ聞えさせするも、あさくはいかが」と宣ふ。源氏「あはれに承る御有様を、かの過ぎ給ひにけむ御かはりに、思しないてむや。いふかひなき程のよはひにて、むつまじかるべき人にも、立ちおくれ侍りにければ、あやしう浮きたるやうにて、年月をこそ重ね侍れ。同じ様にものし給ふなるを、たぐひになさせ給へ、と、いと聞えまほしきを、かかる折り侍り難くてなむ、思されむ所をも憚らず、うち出で侍りぬる」と聞え給へば、尼君「いと嬉しう思ひ給へぬべき御事ながらも、聞し召しひがめたる事などや侍らむ、とつつましうなむ。あやしき身ひとつを、たのもし人にする人なむ侍れど、いとまだいふかひなき程にて、御覧じ許さるる方も侍り難ければ、えなむ承りとどめられざりける」と宣ふ。



源氏は、突然で、軽率なことと、思われるに、違いない、この折ですが、私は、そんな、気持ちではありません。
仏様は、お見通しでしょう。
そうおっしゃって、尼君の、落ち着いて、気のおける様子に、遠慮されて、すぐには、言い出せないのである。
尼君は、仰せのとおり、思いがけも、致しません、この折に、こんなにまでも、お言葉を、交わさせていただきますのも、浅からぬご縁です。
お志を、浅いなどと、どうして、思いましょうか。と、のたまう。
源氏は、あはれに承る御有様と、女の子について言う。
お気の毒な身の上と、伺いましたと、でも、言う。
お亡くなりになった、母君のお代わりに、私を考えて頂けませんか。
お話もならぬ、年頃に、親にも、先立たれて、なんとも、不安な年月を、過ごしたものです。
お孫様も、私と、同じ境遇です。
お仲間になってくださいと、心から、申し上げます。
このような、機会も、またとないこと。思し召しのほども、構わずに、申し出るのでございます。と、おっしゃる。
尼君は、誠に、嬉しく存じますお言葉。
しかし、聞き違い遊ばされた、節ではありませんかと、遠慮いたされます。
つまらない私のような者でも、唯一の頼りとする者がおりますが、誠に、まだ、何も知らない年頃で、大目に見ていただくわけには、参りません。
とても、お受け申しかねます。と、おっしゃる。

宣はせ聞えさするも
お話を伺い、申し上げること。
対話するということの、最高の敬語である。

女の子は、源氏と、同じく、母親に、死に別れているということを、訴える。
それを、たぐひになさせ給へ、と言うのである。

いくら、好色でも、まだ幼女のような、女の子に、と、尼も、戸惑っている。
また、預けるといっても、恐れ多くて、そんなことは、出来ないのだ。

好みの女に育てるという、願望は、男の中にあるものであろう。
幼い時から、そのように、育ててみたいという、願望を、紫式部は、ここで、描くのである。

源氏という、男は、一人の男を、描くのではない、という、結論を私は言う。
男の、複合体なのである。
それは、いつまでたっても、源氏の顔が、見えないからだ。
ただ、光り輝くように、美しいと、作者は、書くのみである。

それは、源氏の顔を、描いてしまえば、それが、叶わないのである。
故に、源氏を、男の総表としている。

果てしなく、長い物語は、それゆえである。




源氏みなおぼつかなからず承り侍るものを、所狭う思し憚らで、思ひ給へよる様、殊なる心の程を、御覧ぜよ」と聞え給へど、いと似げなき事を、さも知らで宣ふ、と思して、心とけたる御いらへもなし。僧都おはしぬれば、源氏「よし。かう聞えそめ侍りぬれば、いと頼もしうなむ」とて、おしたて給ひつ。



源氏は、何もかにも、承知いたして、おりますのに、堅苦しく、遠慮されずに、他の人とは、違う、私の思いの、深さを御覧ください、と、おっしゃる、が、尼君は、不釣合いな、年頃であり、そうとも知らずに、源氏が、おっしゃるとの、思いで、頷くことがないのである。
要するに、尼君は、源氏が、勘違いしていると、思っているのだ。
しかし、源氏は、勘違いではなく、本当に、女の子を、手に入れたいと思っている。
話し合いが、つかないのである。

源氏は、まあ、このように、お願いの口火を切りましたから、心強く存じますと、おっしゃって、屏風を閉めた。



暁方になりにければ、法華三昧おこなふ堂の践法の声、山おろしにつきて聞えくる、いと尊く、滝の音に響き合ひたり。

源氏
吹き迷う み山おろしに 夢さめて 涙もよほす 滝の音かな

僧都
さしぐみに 袖ぬらしける 山水に すめる心は 騒ぎやはする

耳なれ侍りにけりや」と聞え給ふ。



暁方 明け方になってきた。
法華三昧を勤める、堂の読経の声が、山おろしの風に、乗って、聞こえてくる。
それが、また、尊く、滝の音に響き合うのである。

源氏
ふきまよう みやまおろしに ゆめさめて なみだもよほす たきのおとかな

吹き迷う、深山おろしに、旅寝の夢は覚め、煩悩の夢も覚めて、涙を流すほどに聞える、滝の音だ。

僧都
さしぐみに そでぬらしける さんすいに すめるこころは さわぎやはする

すぐに、お袖を涙で濡らすという、この山の水にも、久しく暮らし、修行した私には、普通のことです。

聞き慣れています、と、おっしゃる。


さしぐみに
水の縁語である。
すめる
住める、澄める、係り言葉である。


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神仏は妄想である 170

さて、人間は、生まれた人間のことである。
六道輪廻を、生きているという。

六道、六趣ともいう。
それは、六の苦しみであるという。

地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、である。
地獄とは、心が怒る状態。
餓鬼とは、貪り欲張る心の状態。
畜生とは、知恵のない状態。
修羅とは、自分本位に考える、自分に都合よく考える心。
人間とは、それらの、心を持ち、良心によって、それらを、ある程度を抑えることの出来る、心。
天上とは、歓喜の世界。仏の世界ではなく、肉体や、感情の喜びの世界であり、何事かあれば、地獄や、餓鬼の世界に戻るという。

人間の心の中は、それらを、繰り返すというのと、それを、ぐるぐると、回って、生まれ変りを、繰り返しているというのである。

こうして六趣を輪廻している衆生を見たら、菩薩たちは大慈悲の心を起こしてその世界から救い出してやることを志さなければなりません。そのためには、まず一切のものごとを深く知らなければいけないのです。
と、世尊が、言うと、庭野は、書く。

ところが、衆生の性癖にも、欲望にも、かぎりないほどさまざまな種類があり、またさまざまなお願いごとがあるのですから、それに対する説法もかぎりないほどさまざまな説きかたをしなければなりません。説法のしかたが無量だから、したがって教えの内容も無量でなければならないのです。
庭野

その、数限りない教えの元は、唯一つの法から、起こってくるという。
それが、真理である。

真理とは何か。それは、すべてのものの区別を超越した本性(無想)です。あらゆるものは、仏性をもっている点において平等なのです。それこそが、真理なのです。ものごとの実相なのです。菩薩のみなさん、この真実を悟ることによってひとりでに起こってくる慈悲というものは、必ず功徳の明らかなもので、よく衆生の苦しみを抜き、さらに進んで楽を与えるのです。ですから、この「無量義」の法門を学べば、まっすぐに仏の悟りを得ることができるのです。
と、庭野が、訳す。

実に、解りやすく、訳している。

だが、実に、主観的であり、信じる以外に無い。
帰依する以外にない。

六道輪廻を、繰り返すというのは、単なる、観念であろう。
さらに、人間の感情を、悪であると、言い切るのである。

性癖にも、欲望にも、数限りない種類がある。当たり前である。百人百様の人間の様である。
それに対する、説法も、無量であれ。
教えの内容も、無量であれ。

その、元は、唯一つの真理から出る。
真理とは、区別を超越した、本性、無相であるという。

更に、あらゆるものは、仏性をもっている点において、平等だという。

それが、法華経に書かれてあるから、真実であるという。
信じるしかない。

この単純明快な、考え方で、解決する人間の人生ならば、世話は、無い。
そんな、単純なものではない。

彼、世間の保護者は法を説かれたが、それはすぐれた“限りなき説示”(無量義)という経典で、これを名づけて“広大な大乗教”と呼ばれ、それを彼は幾コーティもの生命あるもののために解き明かされた。
大乗仏典 法華経訳

要するに、小乗に対する、大乗の教えの、正当化を測るというものである。

同じ、仏教でも、小乗と、大乗の、戦いのあり様である。
小乗は、不足した教えであり、大乗は、それを、超えてあるものという。

大乗の教えが、出始めた時、様々な議論が起こり、議論された。
忘れてはならないのは、それ以前にあった、インド哲学や、バラモン、ヒンドゥーの、教えである。
その他諸々が、加味されて、議論が起こったのである。

思想としての、仏教が、出来上がりつつあったと、いえる。

兎に角、議論好きの、インド人である。
三蔵法師玄奘が、天竺のナーランダに出掛けた時に、議論の議論を戦い、第一になっている。
議論に負けると、その場を去るという、何とも、へんちくりんな、討論の様である。

宗論を戦わせるという、事態は、日本にもあった。
面白いのは、信長が、キリシタンの司祭と、日蓮宗の僧侶を戦わせて、僧侶が、負けたという話である。

仏の上の、神の存在であるから、負けないだろう。
いやいや、神々は、仏の下である。
それでは、天地創造の云々かんぬんとなると、僧侶は、たじたじする。
仏教では、天地創造に関して、曖昧である。

その、宇宙の真理である、元が仏ならば、天地創造は、いかなるように、行われたのか。
キリシタンは、旧約聖書により、神による、天地創造を、語る。

具体的に、仏教の天地創造は、語られない。

お話を、作った方が勝つのである。
要するに、創作してしまった方が、勝つ。

妄想三昧の者が、勝つのである。
それが、宗教というものである。
更に、法華経に、分け入ってゆく。


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2008年10月12日

もののあわれ292

明け行く空はいといたう霞みて、山の鳥どもそこはかとなく囀り合ひたり。名も知らぬ木草の花ども、いろいろに散り交り、錦を敷けると見ゆるに、鹿のたたずみ歩くもめづらしく見給ふに、悩ましさも紛れ果てぬ。ひじり、動きもえせねど、とかうして護身参らせ給ふ。かれたる声の、いといたうすきひがめるも、あはれに功づきて、陀羅尼よみたり。



明け行く空は、すっかりと霞がかかり、山の鳥も、どこでなのか、囀り交わす。
名も知らない、木や草の花が、色とりどりに散り交じり、錦を敷いたように見える中を、鹿が立ち止まり、歩いたりする様を、御覧になり、珍しい様子に、気分の悪いことも、忘れてしまった。
僧都は、身動きができないが、やっとのことで、護身をして、差し上げる。
しゃかれた声が、歯の間から漏れて、変な調子なのだが、それも、尊くあり、効験もありそうに、聞える。
その声で、呪文を唱える。

その、呪文を、陀羅尼といい、梵語のままに、唱えるものである。

梵語の音のままに、漢語にしたものである。
漢訳したものではない。
密教系に多いが、どうも、それは、バラモンから出たもののようである。



御迎への人々参りて、おこたり給へる喜び聞え、内よりも御とぶらひあり。僧都、世に見えぬさまの御くだもの、なにくれと、谷の底まで堀り出で、営み聞え給ふ。僧都「今年ばかりの誓ひ深う侍りて、御送り侍るまじき事、なかなかにも思ひ給へらるべきかな」など聞え給ひて、おほみき参り給ふ。源氏「山水に心とまり侍りぬれど、内よりおぼつかながらせ給へるも、かしこければなむ。今、此の花の折り過ぐさず参り来む。


宮人に 行きて語らむ 山桜 風より先に 来ても見るべく

と宣ふ御もてなし、声づかひさへ、目もあやなるに、


僧都
優曇華の 花持ち得たる 心地して 深山桜に 目こそ移らね

と聞え給へば、ほほえみて、源氏「時ありて一度開くなるは、難かなるものを」と宣ふ。ひじり、御かはらけ賜はりて、


奥山の 松のとぼそを まれに開けて まだ見ぬ花の 顔を見るかな

と、うち泣きて見奉る。




お迎えの家臣たちが、参って、お治りになったことを、お祝い申し上げる。
御所からも、使者が来た。
僧都は、普段見られない果物を、色々と、谷の底から掘り出して、もてなす。
僧都は、今年一杯は、という誓いを固くしています。お見送りに参れないこと、残念至極でございます。かえって、煩悩の種に、なりそうでございます、と、おっしゃり、お酒を、お勧めになる。
源氏は、山にも、水にも、心は残りますが、主が、お待ちかねの様子なのも、恐れ多いものです。
すぐに、また、花の散らないうちに、やって参ります。

みやびとに ゆきてかたらむ やまざくら かぜよりさきに きてもみるべく

御所の人々に、帰って話します。山の桜を、散らす風の吹く前に、急いで、来るようにと。

と、おっしゃる、ご様子、御声まで、眩しいほどの、ご立派さです。

僧都
うどんげの はなまちえたる ここちして みやまざくらに めこそうつらね

三千年に、一度咲くという、優曇華の花が咲くのを、見た気持ちがします。山奥の桜など、見る気もいたしません。

と、申し上げる、源氏は、微笑み、時あって、一度咲くという、あの花は、めったに、出会えぬものだのに、と、おっしゃる。
上人は、お盃を頂き

おくやまの まつのとぼそを まれにあけて まだみぬはなの かおをみるかな

奥山の、庵室の、松の戸を珍しく開けまして、まだ、見たこともない、花のような、お美しい、お顔を、拝しますこと

と、涙を流して、拝むのである。



源氏の、美しさを、ここまで、強調するが、一切の、具体的、美しさには、触れないのである。紫式部は、読者の想像に、任せる。

すでに、小説は、言い過ぎないという、手法になっている。
特に、日本文学は、省略の、文学である。
多くを、語らない。
つまり、それを、行間を読むというが、違う。
それは、行間を読むというより、自ずと、解るということである。
その、伝統を、紫式部が、作ったといえる。

主語がなく、一体、誰のことを、言うのだろうかと、迷う箇所、多数。
矢張り、源氏物語に、触れて、この、日本の文学の伝統を、知るべきである。
文学を、志す者は、必須である。

更に、当然のことに、歌詠みがある。
歌道というものが、また、文学の伝統であることも、解るのである。

歌道の、教養も、必要である。
それは、優劣の問題ではない。
伝統の教養として、必要なのである。

歌の、真意は、優劣を、超える。
上手な歌を、詠むのではない。
もののあわれ、を、詠むのである。

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神仏は妄想である 171

これで「無量義経」は終わっているのですが、もう一度このお経の要点をひっくるめて申しますと、「すべての法は「無想」というひとつの法から出ている」ということです。人間の命をはじめてとして世の中すべてのものごとは、まことに千差万別で、生じたり、消えたり、移り変わったり、さまざまな状態を現しています。われわれの心は、その差別や変化によってまどわされ、苦しんだり悩んだりするのですが、もしわれわれがものごとの表面に見える差別や変化に目もくれず、その奥底にある「差別を超越した真の姿」を見とおすことができれば、われわれは、普通の社会生活をしていながらも、なにものにもとらわれない自由自在の心境に達することができるというものです。
庭野

この人の、功績は、実に、優しく、解りやすく、説いているということである。評価する。

無想とは、実相である。
実相は、真理である。

この人は、宗教家であるから、なにものにもとらわれない、自由自在の心境に達することが、出来たのであろう。
そう、思うしかない。

このような、解りやすいものを、読んで、解ったと思う、会員がいるのである。
少しばかり、気が休まる程度なのであるが、それを知ることもない。

言葉の観念を知るというだけで、人は、解ったと、錯覚する。
言葉は、魔物である。

実に、宗教の言葉の数々は、そのように、人を観念漬にする。

私も解りやすく言う。
食って、寝る場所の確保で、一日を費やす人に、この言葉の数々に、説得力があるのだろうか。
更に、この教えによって、自由自在の心ではなく、その教えに、雁字搦めになり、他の考え方を、受け入れない、受け付けない人になって、いくことを、知っているのだろうか。

更に、この教えによって、会員からの、布施や、寄付で、あれほどの、大伽藍、本部ビルを建てて、このような、説教をしているというのが、理解できない。

特に、頭の悪い会員であれば、他に対する許容が無いために、とんでもない、議論を人としてしまうのである。
無用な、宗教議論である。

更に、自分と、同じように、会員になることを、勧める。

それ以外の、考え方を知らないから、真理であると、言われると、真理は、一つと、人に強制するのである。頭が弱いからである。

真理が一つなどとは、一体誰が言ったのか。
事実は、一つであり、その解釈が、多数あるということは、理解するのに、真理が一つと言われると、ハイそうですか、となる。

真理は、人の数ほどあるものである。

無想、実相世界というものが、あるのかどうか・・・
ある、教団は、実相世界を、霊界としている。
そちらが、本当の世界であり、こちらは、現象世界であると。
それも、よい。

だから、実相世界に、合わせるという、考え方の、おかしさに気づかない。
転生輪廻を、繰り返しているというが、この、時代、この世に生まれたのは、紛れもなく、私のみであり、転生の魂の記憶があろうが、今の私の意識以外に無いのである。

ところが、その意識は、何ほどのものではない。故に、正しい教えを、信じることであるという。
確かに、この意識は、何ほどのものではないが、しかし、今、その、何ほどのものではない意識で、生きている。
その、何ほどのものではない意識によって、生きるということを、実感しているのである。
それを、否定して、何か別の意識、つまり、正しい教えというものに、自分を預けてしまう。

それは、単なる拘りである。

私も、妄想をかますが、題目だけを、唱え続ける、霊界という次元もある。
そのレベルが、どこかは、知らない。
ただ、題目だけを、唱え続けているのみである。

勿論、念仏だけの次元もある。
宗教の信者が、作る霊界は、実に、奇妙である。
ただ、拝み、祈り続けている。

三次元と、四次元の隙間にあり、それらが、三次元の宗教団体の、背後に憑く。

浮遊する、霊団と、こちらの宗教団体との、不協和音が、不気味に響く。

大乗経典が、書かれた時期、仏陀の教えが、混血する時期でもある。
バラモン、ヒンドゥー、インド哲学、その他諸々。

要するに、グローバル化したのである。
奇想天外な、法華経のお話は、それらに、大きな影響を受けた。
更に、どうでも、解釈出来る、下地が出来たのである。

仏陀も、如来も、数限りなく、存在するということを、書き始めた時期である。
マイトレーヤという、弥勒菩薩なる、魔物も、出て来たのである。

釈迦仏陀、滅後に、気の遠くなるような、後で、この世を救うという、魔物の、菩薩である。

この世を救うとか、この世の人を、救うという言葉が、観念となり、本当に、救いというものが、あるような、錯覚に、陥る。
この、救いというものは。皆が皆、仏になるということである。

10歳くらいまで、子供は、いつも、シータ波を出している。故に、いつも、楽しい。それを超えると、大人の脳に、近づく。すると、シータ波が、抑制されて、次第に、ハイテンションで、いられなくなる。
成長とは、そのように、沈む心、感情を得る時期である。

シータ波を出している、子供たちは、いつも、救われている。
つまり、シータ波を出すように、勧めるのが、その、教えであろうか。

同じリズムを、繰り返していると、シータ波が、出ることもある。
題目も、念仏も、あらゆる、繰り返しの祈りの、言葉がそうである。

特異な、シータ波が出ると、それは、エクスタシーである。
特に、ヒステリー気味の人に、それは、起こる。
唱え続けて、エクスタシーを、得る人は、ヒステリーである。

人の脳は、実に、複雑になっている。
そこに、更に、潜在意識である。

その、潜在意識は、実に、素直である。
ゆえに、表面意識が、信じて、行う行為を、素直に受け入れる。すると、潜在意識には、それを、そのまま、受け入れる純粋さがあり、それが、真実であると、確信を与えるようになる。

信仰の確信は、潜在意識が、そのようになることである。

人を嫉妬すると、潜在意識は、嫉妬という、感覚を、素直に受け入れて、今度は、自分に対して、嫉妬という感情を出すのである。
つまり、人を嫉妬すると、潜在意識は、嫉妬という感情を素直に持ち、我が、物事に、成功すると、成功したという、我に嫉妬を、向ける。
それにより、成功しても、何か不安を抱くのである。

幸せ感覚を、得られない人は、そのように、嫉妬の感覚を、潜在意識に植えつけているのである。

おわかりだろうか。
そこで、その不安を、鎮めるために、宗教という、安心立命の、言葉の観念を、欲するのである。

すると、今度は、その言葉の観念を、潜在意識に植えつけて、あたかも、それが、自分の本心から出ているように、思わせる。
これが、信仰の確信である。

人類の言葉の、発生過程を、検証すると、それが、よく解るのである。
言葉を、作ると、それが、在るものと、信じるのである。
神も仏も、然り。

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2008年10月13日

もののあわれ293

ひじり、御まもりに独鈷奉る。見給ひて、僧都、聖徳太子の百済より得給へりける金剛子の数珠の、玉の装束したる、やがてその国より入れたる箱の唐めいたるを、透きたる袋に入れて、五葉の枝につけて、紺瑠璃の壷どもに、御薬ども入れて、藤桜などつけて、所につけたる御贈り物ども、ささげ奉り給ふ。君、聖よりはじめ、読経しつる法師の布施ども、まうけの物ども、様々に取りに遣したりければ、そのわたりの山がつまで、さるべき物ども賜ひ、御読経などして出で給ふ。




上人は、お守りに、トツコを差し上げる。
それを、御覧になり、僧都は、聖徳太子が百済から、手に入れた、金剛子の数珠の玉で装飾してあるのを、百済から入れてきた、唐風の箱に収めたまま、すかし織りの袋にいてれ、五葉の松の枝に結び付けて、それからまた、紺瑠璃の壷に、色々な薬を入れて、藤や桜の枝に結びつけて、そのほかに、土地柄に相応しい、贈り物を、色々と、献上される。
君は、上人をはじめ、読経した法師への、布施の品や、帰京のための、品々を、色々と、京に、取りにやらせたので、その辺りの、森人にまで、相応の物を、差し出され、読経などして、ご出発された。



うちに僧都入り給ひて、かの聞え給ひし事まねび聞え給へど、尼君「ともかうも唯今は聞えむかたなし。もし御心ざしあらば、いま四五年を過ぐしてこそは、ともかうも」と宣へば、さなむ、と、同じさまにのみあるを、ほいなしとおぼす。御消息、僧都のもとなる小さき童して、

源氏
夕まぐれ ほのかに花の 色を見て けさは霞の 立ちぞわづらふ

御返し
尼君
まことにや 花のあたりは 立ち憂きと 霞むる空の 気色をも見む

と、よしある手のいとあてなるを、うち捨て書い給へり。



奥に、僧都が入り、あの仰せを、お言葉のままに、伝える。
尼君は、もし、愛情がありましたら、もう、四、五年を経てからなら、なんとか、お返事も、出来ましょうと、おっしゃる。
僧都は、そうであるか、と、自然に申し上げる。
源氏は、飽足りないが、お手紙を、僧都の所の童に、持たせた。

源氏
ゆふまぐれ ほのかにはなの いろをみて けさはかみすの たちぞわずらふ

薄暗い、夕暮れに、少しばかり、美しい花を見ました。今朝は、立ち帰る気持ちが、しません。

尼君の、お返事
まことにや はなのあたりは たちうきと かすむるそらの けしきをもみむ

本当に、花のところが、立ち去りにくいのかと、ご様子を見ています。

と、筆使いのある、筆跡での、上品ではあるが、素早く、無造作に、書き流したものである。



御車に奉る程、大殿より、人々「いづちともなくておはしましにける事」とて、御迎への人々、君達など、あまた参り給へり。頭の中将、左中弁、さらぬ君達も慕ひ聞えて、君達「かうやうの御供は仕うまつり侍らむと思ひ給ふるを、あさましくおくらせ給へること」と怨み聞えて、君達「いといみじき花の陰に、しばしもやすらはず立ち帰り侍らむは、飽かぬわざかな」と宣ふ。岩がくれの苔の上に並み居て、かはらけ参る。落ち来る水の様など、ゆえある滝のもとなり。



お車に、お乗り遊ばすところに、大臣家から、人々が、どこへとも、仰らずに、お出かけ遊ばした、とあって、お出迎えの人々、ご子息たち、その他の人々が、おいでになった。
頭の中将、左中弁、その他の、若殿たちも、後を慕い申して、来た。
君たちは、このようなお供は、是非、勤めさせていただきたい。お見捨て遊ばすのは、酷いことですと、言う。
また、君達は、こんなに、美しい花の木陰に、少しも休まずに、帰りましては、心残りです、と言う。
岩陰の苔の上に、居並び、お酒を召し上がる。
流れ落ちる水の様など、趣きある、滝の下である。

ゆえある滝のもとなり
風情ある、趣あるという。

皆が、源氏を迎えに来たのである。
そして、口々に、お供をしたかったと言う。
源氏は、それに答えない。



頭の中将、懐なりける笛取り出でて、吹きすましたり。弁の君、扇はかなう打ち鳴らして、「豊浦の寺の西なるや」と謡ふ。人よりは異なる君達なるを、源氏の君いといたううち悩みて、岩に寄り給へるは、類なくゆゆしき御有様にぞ、何事も目移るまじかりける。



頭の中将は、懐にあった、笛を取り出して、吹き始める。
弁の君は、扇を軽く打ち鳴らして、拍子をとり、豊浦の寺の西なるや、と謡う。
お二人共に、勝れた若殿なのだが、源氏の君が、ひどく気分が勝れない様子で、岩に、寄りかかって、おいでになるのが、またとないほどに、心配なほど、美しいご様子なので、他の人などは、目を向けられないのである。


類なくゆゆしき御有様
いつもにない、美しさである。
作者は、このように、漠然とした表現で、源氏の美しさを言う。
それは、読む者の、想像に任せられる。
現代小説ならば、ここを、徹底的に指摘されるだろう。
源氏の姿が、見えないと。
しかし、ここで、源氏の姿が見えないことが、源氏物語の、核心である。

ここで、読者が、如何様にも、参加できるようになっている。

主人公は、美しいのであり、その美しさは、書き得ないのである。
つまり、読者の美しさに、賭ける。読者の美意識に、賭けるのである。

posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神仏は妄想である 172

妙法蓮華経とは、サッダルマ・ブンダリーカ・スートラという、梵語である。
これに帰依するというと、ナムという言葉が入る。

ナム・サッダルマ・ブンダリーカ・スートラとなる。
南無妙法蓮華経である。

このお経の題名ほど内容全体の深い意味を短いことばでいい表したものは、おそらく他にはないだろうと思います。
庭野日敬

この漢訳は、クマラジューである。

漢訳された、題目を、唱えて、何事かあると思う、その理屈が知れない。
愚かしくて、話にならないのである。

つまり、「法」と「仏」はおなじものであり、いいかえれば、「仏」と「仏のはたらき」すべてが「法」ということばで表されるのです。ですから、「法」というものはこの上なく尊く、とうていことばではいい表せないような深い意味をもっているので、「妙」ということばで形容してあるわけです。
庭野

妙である、法ということである。

蓮華とは、蓮の花のこと。
インドでは、この世で、最も美しいとされている、花であるという。

それは泥の中に咲きますが、しかも泥に染まらずいつも清らかです。このことは、「人間は俗世「泥」の中で生活しながら、それに染まることもなく、とらわれることもない美しい生活、自由自在な生活ができる」というこのお経の根本思想をそのまま表しているのです。
庭野

そのように、庭野さんは、認識するというのである。

この世を、どのように、捉えるかということである。

釈迦仏陀も、インド当時の、バラモン、そしてヒンドゥーの教えとなる、転生輪廻を受け継いで、この世、娑婆世界に生まれないことが、救いであると、説く。

要するに、消滅の思想である。
この世に、存在しないことが、最上の救い、幸せなのである。

この方は、俗世の生活に、どっぷりと、浸りきり、宗教法人として、最も、世俗的な、団体を、創設したのである。
一体、何を寝惚けたことを、言うのかと、思う。

言うことと、やっていることが、逆であろう。

美しい生活、自由自在な生活など、本人がしていないのである。
世俗まみれである。

そこまで、言うならば、そのように、生きれば良い。
しかし、それからが、大乗の理屈である。
衆生を救うというのである。
一人が、そのような生活をするのは、小乗である。
大乗は、救われていなくても、衆生を救うという、願を立てて、信仰するのである。そして、一人でも、仏、法の救いを、説いて回る。

日本人の、バランス感覚が、勝れている例を、上げる。

徳川時代後半の、富永仲基 とみながかなもと、である。
仏教の経典がすべて、釈迦の教えであると、信じられていた時代に、大乗仏典の膨大な経典は、釈迦本来の教えとは、直接関係のないことを、証明している。

釈迦の語る言葉は、弟子たちによって、種々に解釈され、更に、新しい解釈を、加えて、更に、当然のことに、新しい解釈が、加わり、それが、正しいという、風潮が出て来る。

このように、付け加えによって、原始仏教から、大乗仏教の諸派が、現れてきたという経緯を、理路整然と解き明かしたのである。

漢訳大蔵経などは、西暦初期の頃に、編まれたとされる。
つまり、千七百年もの間、貴ばれてきた、教義の基本文献を、疑うという発想が、日本には、すでに自然発生していたのである。

更に、徳川時代では、石田梅岩という者が、独自の倫理運動を、起こして、石門心学というものを、提唱している。

心学では、各人が心を持っている。その心を、磨くのが大事である。
心を高めるならば、神道でも、仏教で、儒教でも、何でもよいのだ、という。

つまり、教義、ドグマより、心を、上位に置くという、バランスである。

ちなみに、西洋史における、心学と似るのは、ルネサンスである。
説明は、省略する。

それは、共に、宗教よりも、人間というものを、大事にするというものであり、それこそ、ヒューマニズムという言葉の、本質なのである。

日本では、西洋より、早く、その人間主義、啓蒙主義というものが、起こったのである。

その、さきがけを、織田信長が、行った。
信長は、比叡山焼き討ちを、行った。1571年、亀元2年である。
そして、長島や、越前の一向一揆を討ち、最後には、本願寺を、攻め落とした。

簡単に言うならば、彼らは、政治の世界に介入したからである。
宗教が、政治の世界に介入すると、どうなるのかは、イスラムを、見れば解る。

信長は、世界にさきがけて、それを知る者だった。

政治に関与せず、発言も行動もせず、教えだけを、伝える、宣教師を、保護したことは、有名である。

信長の前で、宣教師と、最もキリシタンを、嫌った日蓮宗の、僧、日乗とが、宗論論争をして、負けた時に、刀で、宣教師に切りつけた。その時、信長は、宗教論争は、議論で、行うべきで、武器を、用いるべきではないと、止めている。

これで、解ることは、一神教に似る宗教は、他の一切の、宗教を認めず、それらを、消滅させようとする。
それが、激しくなれば、民族浄化などという、惨劇になる。

信長は、宗教が、政治に介入しない限り、どんな宗教が、何を言っても、構わないという、姿勢を、いつも、示した。

一向一揆などは、信仰集団が、大名を追い出し、領地を、支配しようとした。そんなことを、宗教に許せば、日本は、戦国時代のままで、いなければならない。
信長は、それを知っていた。
更に、それに続く、秀吉、家康も、そうである。
それに対しては、実に、バランスがよく、日本の宗教に対する、態度、対応、処置が、そこで、決まったといってよい。

政治に関与しなければ、為政者は、宗教に寛容であるという、実に理想的な、為政者の見本を、示したといえる。

つまりそれは、宗教に対する、相対化を、日本人は、身につけていたということである。

心学に、戻れば、心が一番なのである。
そのために、どんな宗教を、各人が信仰しても、良いとする、実に、理想的な、宗教観である。

それが、日本の宗教に対する態度である。
神棚を儲け、仏壇に拝しても、何も問題がないのである。

西洋史と、共に、それらを、検証すると、よく解るが、それは、このエッセイの主旨ではないので、省略する。

宗教の相対化、つまり、啓蒙主義とも、言われるものを、日本人は、自然に身につけていたということである。

政治に関与する、絶対的権威は、認めないという、思想である。
更に、日本には、天皇という、無形の権威が存在したことが、理想的だった。
何度も言うが、国家幻想を、支える、天皇という、無形の権威である。

天皇は、実に、政治に関して、無力に帰して、武家社会に、政治を、任せたのである。
こんな、王室、皇室の存在は、世界のどこにも、無い。
武器を、持たない、王など、どこにも、いない。

現在、日本の天皇は、テンノウという、世界語になり、海外では、大変敬意を、払われる存在である。
それほどの家系は、世界のどこにも無いからである。

鎌倉仏教からの、新興宗教の開祖や、それ以後の教祖や、代表などなどは、妄想、妄語の存在であり、世界からは、相手にされない。
ただし、金を使い、ばら撒いて、世界の何者という、恥知らずもいるが。


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2008年10月14日

もののあわれ295

君は先づ内に参り給ひて、日頃の御物語など聞え給ふ。主上「いといたう衰へにけり」とて、ゆゆしきと思し召したり。聖の尊かりけることなど問わせ給ふ。委しく奏し給へば、主上「あじゃりなどにもなるべき者にこそあなれ。行ひのらふは積もりて、公に知ろしめされざりけること」と尊がり宣はせけり。



君は、最初に、参内なさり、この頃のことなどを、申し上げる。
主上、天皇は、すっかりやつれたものだと、言い、ご心配遊ばすのである。
上人の尊いことをなどを、お尋ねになるので、詳しく申し上げると、天皇は、あじゃりなどになるのも、当然の者であろう。修行の長きは、大きいが、朝廷では、存じなかったことである。と、尊敬する言葉であった。



らふは積もりて
修業のことである。
あじゃり、とは、僧の位のこと。



大殿参り合ひ給ひて、大臣「御迎へにもと思ひ給へつれど、忍びたる御ありきにいかが、と思ひはばかりてなむ。のどやかに一二日うち休み給へ」とて、大臣「やがて御送り仕うまつらむ」と申し給へば、さしも思さねど、ひかされて罷で給ふ。我が御車に乗せ奉り給うて、自らは引き入れて奉れり。もてかしづき聞え給へる御心ばへのあはれなるをぞ、さすがに心苦しく思しける。



大臣も、そこに、居合わせて、お迎えにと存じましたが、お忍びでのことと、ご遠慮いたしました。私の宅にて、ゆっくりと、一日二日、お休み下さい。と、申し上げる。
大臣は、源氏を迎えて、ここから、お供をさせていただきますと、自分の車に、源氏を先に乗せて、大臣は、末席に乗る。
大事にされていると、源氏は思うが、そう思うと、大臣が気の毒にも思えるのである。

奉り給うて
乗るということの、行為の、最高敬語である。

上座は、降り口になり、下座は、乗り口になる。
源氏が、先に乗り上座に、大臣が、後に乗り、下座に、である。

御心ばへのあはれなるをぞ
それほど、大事にしてくださるという気持ちに、あはれ、を感じるのである。
この場合は、申し訳ないと思う、気遣いに対する、感謝の気持ちである。



殿にも、おはしますらむと心づかいし給ひて、久しく見給はぬ程、いとど玉の台に磨きしつらひ、よろづを整へ給へり。


お邸でも、おいで遊ばすことだろうと、ご用意されていた。
久しく、おいでにならない間に、益々と、金殿玉楼と、磨き上げ、飾りたてて、万端整えているのである。

作者は、源氏に対して、すべて、敬語扱いである。
これが、この物語の特徴でもある。
大和言葉の、敬語が、自然に身につくということだ。



女君、例の這ひ隠れて、とみにも出で給はぬを、おとど切に聞え給ひて、からうじて渡り給へり。ただ絵に画きたるものの姫君のやうにしすえられて、うちみじろき給ふ事も難く、うるはしうてものし給へば、思ふ事もうちかすめ、山路の物語りをも聞えむ、いふかひありてをかしううち答へ給はばこそあはれならめ、世には心もとけず、うとく恥づかしきものにおぼして、年の重なるに添へて、御心のへだてもまさるを、いと苦しく、思はずに、源氏「時々は世の常なる御気色を見ばや。堪へ難うわづらひ侍りしをも、いかがとだに問ひ給はぬこそ、めづらしからぬ事なれど、なほ恨めしう」と、聞え給ふ。からうじて、女君「とはぬはつらきものにやあらむ」と、しり目に見おこせ給へるまみ、いと恥づかしげに、気高ううつくしげなる御かたちなり。


女君は、例の如く、奥に居て、すぐに出て来ないのを、父の大臣が、熱心に、口説いて、やっと、お出になった。
絵に描いた、物語の姫君のように、座らされたままに、身動き、一つしないのである。
整然として、居るのである。
心に思うことを、口にしたり、山に出掛けた話をした時も、話甲斐があるほどに、反応してくれれば、嬉しく思うが、全然反応がない。
親しみのない、気のおける人だと、君を見ることなく、年を重ねるほど、よそよそしさも、増すばかりであり、たまらなく心外である。
源氏は、時には、世間並みの、妻の様子を見せてください。ひどく患っていた時も、お見舞いの言葉をと、思いましたよ。いつものことながら、恨めしく思いますと、言う。
やっと、姫が、とわぬはつらいものでしょうか、と、流し目で御覧になる、目つきに、こちらが負けて、目をそらせてしまうほど、上品で美しいご器量である。


本妻とは、うまい関係が持てないのである。
これが、また、物語を面白くする。

とはぬはつらきものにやあらぬ
問わぬことは、辛いことでしょうか。
これは、古今集を、踏んでいる。

ことも尽き 程はなけれど かた時も 訪はぬは辛き ものにざりける

後撰集

忘れぬと 言ひしにかなふ 君なれど 訪はぬつらき ものにざりける


一々と、相槌を打って聞いているのでしょうか。
それが、辛いと、思うのですか。

どうも、賢くない女、姫に思える。
源氏に大切にしてもらいたいと、思えば、僻み事は、言わないはずである。

それに対して、源氏も、キレてしまうのだ。


源氏「まれまれは、あさましの御ことや。とはぬなど言ふきははことにこそ侍るなれ。心憂くも宣ひなすかな。世とともにはしたなき御もてなしを、もしおぼし直る折もやと、とざまかうざまにこころみ聞ゆる程、いとど思ほし疎むなめりかし。よしや命だに」とて、夜の御座に入り給ひぬ。女君ふとも入り給はず。聞えわづらひ給ひて、うち嘆きて臥し給へるも、なま心づきなきにやあらむ、ねぬたげにもてなして、とかう世をおぼしみだるる事多かり。



たまたま、仰るかと思えば、あさましの言葉、あきれた言い方である。
とわす、などというのは、恋人同士であろう。結婚した者であるぞ。
心憂く、物を言う。
いつまでも、愛情のない気持ちですね。
しかし、いつか、考え直してくださることもあろうと、見ておりますのに、いっそう、嫌がる様子です。
よしや命だに
長生きが出来れば、いつか、わかるのでしょう。
源氏は、そう言うと、寝屋に入るのである。
女君は、ずくには、入らない。
君は、言うべき言葉もなく、溜息をついて、お休みになった。
しかし、何やら、気まずい気持ちがある。
中々、寝付けなくて、あれこれと、考えられるのである。


よしや命だに

命だに 心にかなふ ものならば 何かは人を 恨みしもせむ

この歌からの、出典である。

和歌の教養が必要である。
和歌とは、やまと歌である。
和とは、日本を象徴する言葉である。
和物、和芸等々。
やわらぎ、とも、読む。

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神仏は妄想である 173

法華経が、奇想天外な、創作であるというのが、最初から出て来る。

最初は、尊者の名前が、延々とあり、次に、菩薩である。
ちなみに、その菩薩たちは、後、一度、この世に生まれるという。

例えば、文殊、観音、薬王、弥勒などは、菩薩大士と呼ばれる。

面白いのは、インド魔界の面々である。
グハ神、ヴァルナ神、インドラ神と、それらをも、菩薩である。八万の菩薩という。

神々の、帝釈天、持国、多門、自在、大自在、ブラフマー神、一万二千の、ブラフマー神に属する、天子たちであるという。

更に、八龍王である。それは、幾百、幾千、コーティもの多くの従者を引き連れている。

更に、魔界の阿修羅までも、登場させる。

最初から、嘘話です、というようなものである。

それらの、インドの神々、つまり、リヴ・ベーダなどの、神をも、登場させての、壮大なスケールであるが、そうすればするほど、嘘になることを、知らない。

結果、仏教は、バラモンや、ヒンドゥーを飲み込んだかのように、見えるが、その逆である。

今、インドでは、仏教は、跡形も無くなり、ヒンドゥーの中の一人の神として、釈迦仏陀がいるのである。

上記に挙げた、菩薩や神々は、当然、日本にも、入り込んで、無用な、信仰を得ている。

そして、全く、架空の、更に、魔界の極めつけを、象徴する、弥勒菩薩が、語り始めるのである。

ああ、如来はこのような奇跡を、偉大な瑞相としてお示しになった。それには、いったいどんな訳があるのであろうか。世尊がこのような偉大な瑞相として奇蹟をなされたのは、何ゆえなのか。世尊は三昧にはいっておられる。そして、このような稀有であり、思いも及ばないこれらの偉大な奇瑞、神通力による偉大な奇蹟が、あらわれたのである。私はその意味をたずねたいのだが、いったいだれに問うたらよいのか。そのばあい、だれがいったい、この意味を解明する能力があるのであろうか。

と、弥勒が言う。

インド人も、びっくりの、誇大妄想の話が展開される。

奇蹟というものを、一番嫌った、釈迦仏陀である。
それが、堂々と、奇蹟を現し、その意味は、何かと問うという、仰天である。

数えられず、まったく数えきれず、広大で、計り知れず、考えも及ばず、推量を超えた劫の過去世に、いやそれよりもさらに遠い以前にあったことですが、まさにそのとき「月と太陽と燈明とするもの、日月燈明と呼ばれる、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来が、この世に出現されました。そのかたは、知と行をかねそなえ、善逝であり、世間をよく知り、この上なきものであり、調練されるべき人々をよく調御するものであり、神々と人間との師であり、仏陀であり、世尊でありました。
中央公論社 大乗仏典

仏の教えを聞いて、迷いのない心を得たいと願うものには、四諦の法を説いて生老病死という人生の苦しみにとらわれぬ心と、人生の変化におどろかぬ心がまえを説いてくださいました。また、びゃくし仏も求めるものには十二因縁の法を説き、もろもろの菩薩のためには六波羅蜜を説いて、最高の智慧にまで導かれました。
庭野

四諦とは、苦諦、集諦、滅諦、道諦である。

苦諦とは、仏の教えを、聞かない人は、この世の全てが、苦しみであるというもの。

集諦とは、人生苦が、どうして、起こるのかを知ること。

滅諦とは、人生苦を、消滅された後の、安穏の境地。
それは、釈迦仏陀が、悟った、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の、三大真理であると、する。

道諦とは、日々の修行である。

苦諦から、集諦へ、そして、道諦から、滅諦へである。

要するに、人生というものを、どのように、捉えるかということである。

諸行無常とは、諸行は、この世のすべての現象であり、それが、無常、つまり、変化するということである。

諸法無我とは、
この世の中のすべてのものごとは、必ずほかのものとつながりがあるもので、全然他と切り離されて孤立しているものはない」ということです。
庭野

我というものは、他によって、我になるという、考え方をしても、よい。
我として、単独では、我は在り得ないのである。

涅槃寂静とは、涅槃は、無という意味もあり、死を意味する言葉であるが、また、迷いが無いという、状態をも言う。
寂静とは、迷いを無くし、人生苦というものが無い、平穏、安定した、状態、生活ということである。

涅槃寂静の境地に至るには、諸行無常を悟り、諸行無我を行うということである。

更に、八正道という、考え方と、六波羅蜜という、考え方をもって、その境地に至るというのである。

八正道には、見、思、語、行、命、精進、念、定、がある。

六波羅蜜は、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の、六つである。

これらの、説明は、省略する。
要するに、ものの考え方であり、生き方指南である。

私は、これに、異を唱える者ではない。
それを、一つの基準として、生きることも良いことだと、思う。

ただ、それは、己だけのものであり、人に説いて、強制するものではないということ、である。

仏教を、知り始めて、その気になると、人に説く人がいる。
勿論、アホである。
自分が、それを、実行して生きればいいのである。
何の問題も無い。

更に、それを持って、論戦するなどとは、愚の骨頂である。

私も、時々、その被害を受ける。
迷惑なのは、新宗教系である。
大半が、日蓮宗、密教系である。

こちらは、もう、30年以上も、それらの、経典を読み、学び、更に、検証して、私のモノを、考えているのである。

初歩程度の知識を、披露して、得意になる様は、呆れて、物も言えない。

S苑、S会、更に、訳の解らない、研究会や、同好会等々である。

本人は、知ったという喜び一杯なのであろう。平然として、説くのである。勿論、何も知らない。知ったと、確信、信じているだけである。
何となれば、その人の行為を、見れば、すべて解る。
要するに、自分の尻を拭けない者が、他人の尻を、拭くというのである。
万事休す。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第4弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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