2008年10月01日

神仏は妄想である 160

「専修」せんじゆ という言葉は、念仏にむすびついてのみ語られるが、唯一の信以外のすべてを、雑修余行として斥けるという意味に解すれば、鎌倉仏教の祖師たちはすべて「専修」である。たとえば比叡山風の八宗兼学とか、密教と浄土教をともに学ぶとか、そういう態度から脱却した。
亀井勝一郎は、日本人の精神史に、そう書く。

そういう態度から、脱却して、選択仏教、専修を選んだ。
その訳は、衆生を救うためである。
その、傲慢極まりない、救済意識は、如何ともし難いのである。

更に、悪いのは、私は、救われない者だという、罪悪感溢れる、自己顕示の意識である。
それを、信仰の深さと、解釈、解説したのは、誰か。
皆々、教団から、金を得る者である。

救われ難き身であるから、弥陀の本願があるという、手前勝手な、思索を、深いと、理解した、自称知識人たちである。

さて、亀井は、その後に、こう続ける。

西行は密教の行者であり、浄土教の信者であり、法華経の持者であり、神ながらへの畏敬者であった。雑修の苦悩の涯まで歩いて行って、ついに唯一の信に達し得なかったことを私はさきに語った。結局は文学が障りとなったのではなかろうか。
と、言う。

これは、逆である。
文学が、救いになったのである。

唯一の信とは、何か。
そりは、唯一の拘りであり、実に、偏狭極まりないという、信仰態度である。
あの、一神教という、非寛容、実に、排他的な信仰になるのである。

しかしひきつづく乱世は、祖師たちに、ひとえに「捨てる」ことを迫った。同時にすべての改革能力とは、ただ「専修」にのみ発すると言ってよい。法然の場合をみても、そのために様々の紛争が起こり、同門からの意義異端も出たが、「専修」という態度がいかに強烈な変革力であったかを示すものであろう。信仰の厳密化による純化が根本になければ、末法の錯乱を生き抜くことは出来なかったのだ。
亀井勝一郎

上記は、評価のし過ぎである。
彼らは、そのようにしか、生きられなかったのである。

信仰の厳密化による純化など、ある訳が無い。
単なる、拘りである。
そして、それは、妄想である。

阿弥陀仏とは、創作想像の、モノである。
更に、末法などいう考え方は、釈迦仏陀が、教えたものではない。
ちなみに言うが、その後に、弥勒菩薩という、魔界の、仏が、この世を救うという、お話も、お話であり、仏陀は、そんなことを、一言も、言わないのである。


いずれの信仰においても、それは「自我」意識から出たものではないということだ。日蓮の場合は、法華経自体の生命を「強情」に表現したたけである。「私」の非寛容というものではない。法然や親鸞の態度は実に寛容にみえる。他の信仰に対してことさら非難せず、また非難をうけても、謙虚な受動的態度をとったが、しかし唯一の信仰に徹しようとしたかぎり、そこには他の信仰へのきびしい拒絶がある。親鸞にあっては、その拒絶は沈黙のうちになされる。
亀井勝一郎

ちなみに、亀井氏は、親鸞への、帰依を申し出ている。
それにより、彼らを理解しようとする、気持ちは、良く解る。しかし、評価のし過ぎである。

専修とは、自我意識であり、まさしく、私の、意識である。

亀井氏は、さらに
この場合もむろん「私」のはからいであってはならない。寛容、非寛容ともに、各個人の精神として語るべきではなく、「専修」の場合の自己放下の「行」心として語らなければならないものであり、根本は仏心に発する。
と、言う。

この、根本である、仏心というものは、妄想である。

この、法然、親鸞、日蓮に、共通するのは、仏法の破壊者といわれたことである。
既成仏教から、破壊者と言われる理由は、実に多い。それだけ、革新的だったとも言える。

彼らの、功績は、信仰というものを、一般的に、広めたことである。
いや、仏教というものを、大衆化したことである。
お上が崇めていた、仏というもの、それを、大衆に提供したのである。
それにしては、随分と、大掛かりである。

兎に角、乱世を、末法の世と、考えて、危機意識を持って、世の中に対したということは、意義がある。

ただし、それらは、皆、考えようなのである。

彼らの、名は、今でも、残っているが、彼らより、世の中に尽くした者たちがいる。
僧という名で、活動した者である。

その一人、忍性にんしょう、という僧は、日蓮に、雨乞いの祈りで、徹底的に攻撃された僧である。

忍性は、その師匠の叡尊の、福祉事業を、更に進めて、非人の救済と、教化に尽くし、更に、らい病者の救済に当たった。
87歳で没するまで、189箇所に橋を架け、道を作ること71箇所である。
井戸も、33箇所掘り、浴室、病院、非人所と、設けた。

その行為は、行基や、空海によって、行われたが、次第に衰微していった。

このような、事業は、国家的であり、貴族、将軍などの、財政的援助がなければ、出来ないことである。
伽藍仏教も、そういう意味では、力があった。
忍性は、鎌倉幕府と、密接な関係もあり、常住していたというから、支援を受けて、福祉事業を為すことが、出来たのであろう。

しかし、今は、名も知れない僧である。

日蓮と、霊験を競ったというが、真偽は、解らない。
ただ、日蓮により、徹底的に、攻撃されている。
つまり、権力の側にいる者という意識が、日蓮をそうさせたのであろう。
忍性の行為は、外見のものであり、信仰に、基づくものではないという、日蓮の判定なのであろうが、それでは、日蓮は、何をしたのか。

戦うために、雨乞いの祈りをするが、福祉事業などには、目もくれない。
兎に角、権力者に、我を、我を、と売り込みである。

忍性のような、僧は、多くいた。
ただ、歴史に書かれないからである。

何故、法然や親鸞、日蓮が、歴史に書かれるのか。
それは、騒いだからである。
騒いだ者ほど、書かれるのである。

既成仏教に、物申すことなく、黙々として、目の前の、社会に奉仕した、名も無き僧たちを、忘れてはならない。
つまり、彼らこそ、鎌倉仏教の底辺にいた者たちである。
そして、それが事実である。

彼らは、念仏により、救われるだの、題目が、仏の云々という、騒ぎを起こすことなく、今、出来ることを、したのである。

今、出来ることを、する、人々によって、歴史は、作られる。

鎌倉仏教の、祖師たちは、名は残したが、残念ながら、一時期のものであった。
それは、彼らの、時代性にある、時代性妄想だったからである。

また、そこからしか、求めようがなかったとも、言える。

知らないものは、無いものであるから、仏教経典にしか、求めるべきものは無いのである。
その中での、料理であり、特別なものではない。

だが、文学に貢献したことは、実に大きい。

亀井氏の、総括は、以下である。
ただ信仰とはそもそも何か。その最も純粋で徹したすがたが、鎌倉仏教の祖師たちによってはっきりと示された。日本の全仏教史だけではなく、精神史全体からみても、空前あるいは絶後と言っていいほどの精神的大事件だったのである。

そして今、私は、日本仏教史の、空前絶後といってよい、神仏は妄想である、を、書く。
日本が、大乗仏教を受け入れて実践しているのだろうか。
全く、亜流である。
チベット密教により、多きな影響を受けた、天台密、真言密という、密教の、瑣末な、仏教という、偽の仏教を、大乗と、言うだけである。

彼らの、仏教は、作られた妄想の、仏教という、御伽噺である。
事実の、釈迦仏陀の、教えとは、遥かに遠いだけではなく、別物である。
次元が違う。

日本仏教は、商売であり、宗教などというものではない。

いずれ、このことについては、徹底的に書く。


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もののあわれ281

若紫

新しい段である。
源氏18歳の三月から十月までの、話である。


わらはやみにわづらひ給ひて、よろづにまじなひ加持などまいらせ給へど、しるしなくて、あまたたびおこり給ひければ、ある人、「北山になむ、なにがし寺といふ所に、かしこき行ひ人侍る。こぞの夏も世におこりて、人々まじなひわづらひしを、やがてとどむるたぐひあまた侍りき。
ししこかしつる時は、うたて侍るを、とくこそこころみさせ給はめ」など聞ゆれば、召しにつかわしたるに、行者「老いかがまりて、むろのとにもまかでず」と申したれば、君「いかがはせむ。いとしのびて物せむ」と宣ひて、御ともにむつまじき四五人ばかりして、まだあかつきにおはす。



わらはやみ、とは、マラリアではないかと言われる。
おこり、とも言われた。
病にかかられて、まじない、加持祈祷など、何から何まで、やったが、効き目なく、何度も発熱する。
ある人が、北山に、何々寺という所に、すぐれた行者がいます。昨年の夏も、流行し、みな祈祷の効果なく困りましたが、この行者が、すぐに治すということで、こじらせては、やっかいですから、早く、試してみましょうと、言う。
行者を、呼びにやらせたところ、老衰のため、外に出ることが、できませんとの、返事である。
君は、しかたがない、それでは、こっそりと、出掛けると、親しいお召使の、四五人を連れて、まだ、暗い中に、出発する。



やや深う入る所なり。やよひのつごもりなれば、京の花ざかりは皆すぎにけり。山の桜はまだ盛りにて、入りもておはするままに、霞のたたずまひもをかしう見ゆれば、かかるありさまも慣らひ給はず、所せき御身にて、めづらしうおぼされけり。寺のさまもいとあはれなり。峰たかく、深きいはの中にぞ、ひじり入り居たりける。


庵は、少し山深く入るところにあった。
三月下旬である。
京の花盛りは、終わっていたが、山の桜は、まだ盛りである。
山深く入ると、霞のかかるように、おもしろく見える。
源氏は、見慣れぬ山深い風景を、見る。外出も、思うように、出来ない身分であるゆえ、珍しい風景に、感動する。
寺のさまも いとあはれなり。
この場合の、あはれ、とは、寺の様子も、実に、ありがたく思うと、訳してよい。
峰が高く、深い岩穴の中に、僧は、住んでいた。

その前後の、言葉により、あはれ、という言葉の心象風景が、変化する。
限定して、言い表せない思い、また、その有様を、あはれ、という言葉で、表すのである。

あはれ、という、言葉の世界の広がりを、観る。



のぼり給ひて、たれとも知らせ給はず、いといたうやつれ給へれど、しるき御さまなれば、ひじり「あなかしこや。ひと日、召し侍りしにやおはしますらむ。今は此の世の事を思ひ給へねば、験がたのおこなひも、捨て忘れて侍るを、いかでかうおはしましつらむ」と驚きさわぎ、うちえみつつ見奉る、いとたふとき大徳なりけり。さるべき物つくりてすかせ奉り、加持などまいるほど、日たかくさしあがりぬ。



登りて、誰とも、知らせずに、粗末なお召し物であったが、それとすぐに解る、風采ゆえに、行者は、やれ、恐れ多いこと。先日、お召しあそばされた、お方が、おいでくださったのでしょうか。もはや、現世のことは、思いませんゆえに、病気の加持祈祷など、忘れてしまいました。どうして、このように、お越しくださったのでしょうかと、言う。
驚き、うろたえて、顔を、ほころばせ、お姿を、拝する。
実に、徳の高い、僧であった。
あらたかなるお守りを作り、それを、飲ませて、加持などして、差し上げるうちに、日が、高く上ってきた。


僧は、謙遜して、源氏に対する。
源氏の身分を、見抜いたのである。

当時の、天皇は、天子様である。
その、貴さは、並々ならぬもの。
その、お子様である、源氏である。


現在、言われる、天皇制といわれるもの、実に、愚かしい議論である。

私に言わせれば、知らない者の、戯言である。
実に、天皇の歴史は、大和朝廷から、遠く以前に、遡る。
9000年以上の歴史がある。
知らないことは、ないことであるから、無いと、信じているだけで、単に知らないのである。

大和朝廷の前は、富士王朝である。
それは、一度、列島に住んでいた民が、旅をして、ペルシャ辺りで、王朝を建てた時から、はじまる、長い歴史である。

天皇の前は、神皇であった。
簡単に説明すると、富士山麓に、戻り来て、富士王朝を建てて、そこで、国造りをする。
途中から、九州に、軍事と、政治を、任せることになり、王朝の神皇であった一人が、九州王朝の、主に就任する。

富士王朝と、九州王朝は、血脈がある。

一足飛びに、神武天皇に至るが、その即位の際に、富士王朝から、使者が来て、神器をもって、所作に則り、即位の儀を執り行う。

富士王朝は、祭祀の、所作のみを、受け持ったのである。
しかし、それが、本家である。

九州は、神都であり、富士は、天都である。

いずれ、この日本史は、紹介する。

要するに、天皇制を言う者は、それの歴史を知らない。

確かに、神武天皇の即位前後に、少しの、波乱があるが、それは、歴史の必然性である。

天皇の歴史は、神武以前、富士王朝からのものであることを、言っておく。

さらに、世界広しといえど、その大半の期間を、武器、武力無しに、王権を維持したというのは、天皇家、さらに、神皇家の、大変重要な、ポイントである。
何故、武器、武力なしに、王権の府、高天原を、維持できたかである。

それは、民の、支持を得て、その民の心の、芯となったからである。

神武天皇の、歴史から見ても、天皇家が、武力を持つ時期は、はなはだ少なく、また、基本的に、武力を持たないという、王権である。

こんなことは、世界に類がないのである。

すべての、王は、武力を持ち、軍隊を持つ。
しかし、日本の天皇家は、一切それらを、持つことが無かった。
あの、織田信長さえ、無防備な、天皇家を、焼き討ちすることがなかった。
何故か。
民の信頼、甚だしく、天皇を、敵にすることは、すべての、国民を敵にすることと、同じだったからである。

以下省略。

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2008年10月02日

神仏は妄想である 161

さて、日蓮のもう一つの顔について、言う。

預言である。
日蓮宗系などの、後の世の人、日蓮には、特別な力が、備わっていたかのように、考える。それを、検証する。

立正安国論の提出から、八年ほど経た文永五年、1268年、正月、蒙古のフビライから国書が、届く。
そして、三年後に、蒙古連合軍が、壱岐、対馬、博多に襲来した。
日蓮は、この事を、自分の忠告を聞かず、逆に、却下した、幕府に対する、懲罰であると、考える。

他国侵逼難、つまり、外国の侵略である。

蒙古の襲来を、預言の的中とみた、日蓮である。
没後は、それが、更に、神格化されて、崇拝の対象となるのである。

未来を見通すことが出来る、預言者という、日蓮像である。
その結果は、憂国の預言者としてのイメージが定着したことは、実に、悲劇である。

確かに、日蓮が、預言した事実はある。
しかし、それは、日蓮自身が言う。
予知能力によって、預言したものではないと。
それは、経典に書かれていることである。
つまり、正法の衰退により、諸難の事々かあると、いうことである。それは、いうならば経典の言葉である。

立正安国論において、金光明経などの、四つの経典を引いた後で、心の迷えるものたちは、みだりに邪説を信じて、正しい教えを受け入れないという、ことである。
それは、念仏をはじめ、他の宗派のことである。

経典の中に、国土の荒廃を見て、教えの正しきもの以外が、流布した場合は、難があるという、言葉である。

当時は、頻繁に災害が起こり、多くの人々が、苦しみに喘いでいた。
それは、誤った教えの故であると、言うのだ。

安国を、願うのならば、正法に従い、それを、流布しなければならないという、独断である。独善でもある。

では、現在の、多くの災害も、そのように、解釈される。
時代は、いつも、動乱であり、災害は、いつもある。
これから、どこかに、地震がありますと言えば、当たる。必ず、世界のどこかで、地震があり、日本は、地震列島である。

あまりにも、稚拙である。

ここで、キリスト教を、持ち出す。
カトリックに対抗して、出来たプロテスタントは、個人と神との関係を、主体にした、信仰形態を、作り上げた。
聖書主義というのも、その一つである。
つまり、教会という、団体を通すのではなく、個人が、直接、神と、向き合うことが出来るという、教義である。

これが、中世、鎌倉の仏教にも、起こったということである。
更に、その蒙昧は、仏を、超越者にしたことである。

人は、直接、本仏に、向き合うことが出来るという、仏を超越的なものとした、妄想である。

それは、あたかも、歴史家などが言う、画期的なことではあるが、内容は、上記のように、とてつもない、妄想である。

つまり、歴史の一過性の、それを通らなければ、理解し得ないという、道である。
それを、通り抜けて、神仏は、妄想であるということに、気づくための、一つの方法だった。

釈迦の真意にかなうものとして、念仏が唯一、題目こそ、救いである、禅が唯一の正しい仏への、道である。
極めて、独善的、排他的な、妄想である。

仏教の真実を見出そうとする命を賭した挑戦によって、彼らは学者の立場を超えて、幾多の歳月を超えて人々の魂を揺さぶり続ける真の宗教者、真の思想家となることができたのである。
佐藤弘夫 偽書の精神史

上記は、ある意味で、正しいが、ある意味では、評価のし過ぎである。
思想家というならば、少しは、納得するが、以後の彼らの、宗門は、ただ、ただ、堕落の一途を辿った。
見て御覧の通りである。

既得権益に乗り、堂々と、偽の仏教を掲げて、宗教として、成り立っている。
信じる者は、騙されるから、未だに、騙されたままに、霊界に行く。
その、霊界は、宗教霊界であり、極楽でも、天国でもない。
おそらく、寺の上空、一メートル程度の、霊界にいるのであろう。

勿論、仏陀は、いない。
霊界でも、念仏三昧、題目三昧で、坐禅をして、これが、仏の道と、やっているのである。
やり切れない。

ちなみに、霊能力者の、一つの妄想を、紹介する。
法然と、日蓮は、一緒に修行しているという。
また、日蓮は、インド魔界の、ある神が、背後で指導していたという。背後霊が、インド魔界の神と言われるモノである。

皆々、妄想なので、私も、妄想をかましてみた。

そして、仏陀の本仏という、超越した考え方は、まさしく、彼らの妄想以外の何物でもない。
思想的には、画期的、前代未聞の行為であろうが、何のことは無い。
時代性によって、生まれたものである。
そして、彼らは、日本人であったということ。
見事に、日本人向けの仏教創作に成功したのである。

中国仏教から、ようやく、我が国の仏教を創作したのである。
創り出したのである。
存在しているモノではない。

編み出したのである。
芸術として、捉えれば、実に、見事な、出来栄えである。
果たして、思想としてみる場合は、どうなのか。
耐えうるものか。

そこで、中世における、偽書の問題を見ることにする。
本当は、中世史を、やりたいが、テーマが違うので、神仏は妄想に、絞ることにする。

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もののあわれ282

すこし立ち出でつつ見わたし給へば、高き所にて、ここかしこ僧房ども、あらはに見おろさるる。ただこのつづらをりのしもに、同じ小柴なれど、うるはしうしわたして、きよげなる屋、廊などつづけて、木立いとよしあるは、君「なに人の住むにか」と問ひ給へば、御ともなる人、「これなむ、なにがし僧都の、このふたとせ籠り侍るなる」君「心はづかしき人住むなる所にこそあなれ。あやしうもあまりやつしけるかな。聞きもこそすれ」など宣ふ。



すこし外に出て、庵室の前を、歩きながら、その辺りを御覧になる。
高い場所なので、あちこちの寺が、いくつも、隠れることなく、見える。
九十九折の下に、他と同じ小柴垣根であるが、見事に作られている。
小奇麗な、家や廊などを建て続けて、植木も、趣がある。
君は、誰の住む家かと、お付の者に問う。
お供は、これは、あの、何々僧都が、ここ二年、お籠もりしている、寺です。
君は、気詰まりな、人の住んでいる所だ。我ながら、粗末な恰好で、来たものである。私が来たと、知れたら、困るな、と仰る。


心はづかしき人
気の置ける人。
こちらが、恥ずかしくなるような、人である。

あやしうも あまり やつしけるかな
自分の姿が、余りにも、粗末である。

僧都とは、僧正に次ぐ、位の僧である。



きよげなるわらはなど、あまた出で来て、あか奉り花をりなどするも、あらはに見ゆ。共人「かしこに女こそありけれ。僧都はよもさやうにはすえ給はじを、いかなる人ならむ」とくちぐちに言ふ。おりてのぞくもあり。共人「をかしげなる女こども、わかき人、わらはべなむ見ゆる」と言ふ。


美しい童女たちが、出て来て、仏様に、水を差し上げたり、花を折る様子が、よく見える。
「あそこに、女がいる。僧都は、まさか、女を置いているのではないだろうな」と、口々に言う。
降りて、覗く者もいる。
「美しい娘や、若い女房などが、います」と、言う。



あか奉り
仏に供える水。梵語である。
閼伽と、書く。



君はおこなひし給ひつつ、日たくるまままに、いかならむとおぼしたるを、供人「とかう紛らはせ給ひて、おぼしいれぬなむよく侍る」と聞ゆれば、しりへの山に立ち出でて、京のかたを見給ふ。



君は、勤行を行っていたが、熱が出ないかと、気にしていた。
供人が、なにゆえ、お気を紛らわせて、気になさらないことです、と申し上げるので、
庵室の後の山に、登り、京の方を、御覧になる。



はるかに霞みわたりて、よもの梢そこはかとなうけぶりわたれるほど、君「絵にいとよくも似るかな。かかる所に住む人、心に思ひ残すことはあらじかし」と宣へば、供人「これはいとあさく侍り。人の国などに侍る海山のありさまなどを御覧ぜさせて侍らば、いかに御絵いみじうまさらせ給はむ。富士の山、なにがしのたけ」など語り聞ゆるもあり。また西国のおもしろき浦々、磯のうへを言ひ続くるもありて、よろづに紛らはし聞ゆ。



遥かに、霞がかかり、その一帯の、木々の枝の先も、はっきりと、見えないほどである。
けぶり、わたれる
霞に、曇る様である。
君は、絵に描いたようだ。こんな所に、住む人は、この美しさを、堪能しているんだ。
仰ると、供人が、これは、まだ山も浅く、つまり、それ程、高くなく、景色も、平凡ですと、言う。
遠い国などの、海や山の、景色を見ましたら、どんなに、絵が素晴らしく、立派でございましょう。富士の山は、何々の岳は、などと、お話する者もいる。
また、西国の、趣ある、あちらこちらの、海岸の景色を言う者もいて、気を紛らわせるのである。

ここで、面白い表現は、絵になるというのは、風景の美しい様を、絵として、見るということである。
絵に描いたようだと、訳したが、実は、そのものを、絵として、認識しているのである。

絵に描いたような、素晴らしさというのは、実は、変な表現である。
絵は、それを、写しているのであり、そのものではない。
そのものが、絵よりも、勝れているのだが、表現として、絵のように、美しいと、言う。

この、言い方を、よくよく、考えてみると、日本人の表現のさまというものが、理解できるのである。

間接的に、あるものを、褒め称えるという、表現を、日本人は、好むようである。
そのもの、ずばり、は、避けるのである。
何故か。
それを、失礼に当たると、思う。
何故か。

奥床しいのである。
奥床しさとは、存在するものを、一端、突き放して、見る。
それは、所作にも、通じるものであり、特に、奥床しいという場合は、女性の所作に、言われるようになる。

実は、この奥床しさは、芸道に、生きてゆく。
控え目、抑制の効いた、美学である。

抑制の効いた美学は、後に、世阿弥の花伝書について、書くときに、テーマにしたいと、思う。
もののあわれ、というものの、また一つの、心象風景は、奥床しさでもある。

だから、ここの、風景の美しさを、言うのに、素晴らしい、絵、ですという、訳が、正しい。
それ自体を、絵と、見るのである。

描いたものが、絵ではない。
そのものが、絵なのである。

基本的に、西洋の美学では、語り得ないものであることを、知るべきである。

日本の、絵、とは、心の風景を描くものであり、写実ではない、ということを、言う。


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2008年10月03日

もののあわれ283

供人「ちかき所には、播磨の明石の浦こそなほことに侍れ。なにのいたりふかきくまはなけれど、ただ海のおもてを見わたしたるほどなむ、あやしくこと所に似ず、ゆほびかなる所に侍る。かの国のさきの守しぼちの娘かしづきたる家、いといたしかし。大臣の後にて、出でたちもすべかりける人の、世のひがものにて、まじらひもせず、近衛の中将をすてて申し賜はれりけるつかさなれど、かの国の人にも少しあなづられて、「なにのめいぼくにてか、またみやこにも帰らむ」と言ひて、かしらもおろし侍りにけるを、すこし奥まりたる山ずみもせで、さる海づらに出で居たる、ひがひがしきやうなれど、げにかの国のうちに、さも人の籠り居ぬべき所々はありながら、深き里は人ばなれ心すごく、わかき妻子の思ひわびぬべきにより、かつは心をやれるすまひになむ侍る。



長くなるが、当時の、様子が、よく解る。
また、人の噂話などの、面白さがある。

訳す。
供人は、近い所では、播磨の明石という浦が、なんと申しましても、格別でございます。
別に、趣が深いという所でも、ございませんが、ただ、海を、見渡した風景は、妙に他の場所と違い、ゆったりとしている様子です。
あの国で、前の長官をして、近頃、出家しました者が、娘を、非常に大事にしている家が、とても、大したものです。
大臣の子孫で、出世するはずだっのですが、随分と、変わり者で、人付き合いもせずに、自ら、臨んだはずの、近衛の中将の身分を捨てて、その国の者にも、少し軽く見られていますが、「なんの面目があって、都などに帰るか」と、剃髪しましたが、世捨て人らしく、山に住むこともなく、海の前に暮らしているのは、間違っているようですが・・・
それは、あの国の中には、出家者の、籠居に適した所は、いくらでもありますが、山奥の片田舎は、家人も、恐ろしく感じられて、若い妻子が、辛いと思い、また、一つには、自分の気晴らしにもした、生活なのでしょう。



さいつごろまかりくだりて侍りしついでに、ありさま見給へに寄り侍りしかば、京にてこそ所えぬやうなりけれ、そこら遥かに、いかめしう占めてつくれるさま、さは言へど、国のつかさにてしおきける事なれば、残りのよはひゆたかにふべき心がまへも、二なくしたりけり。のちの世のつとめも、いとよくして、なかなか法師まさりしたる人になむ侍りける」と申せば、君「さて、その娘は」と問ひ給ふ。


せんだって、下向した際に、様子を見るため、立ち寄ってみましたら、京でこそ、不遇のようでしたが、あたり一帯を占めて、いかめしく邸宅を構えて、なんと申しても、国の長官でしたから、余生を安楽に送れる準備もしてあり、極楽往生を願う、勤行も、立派にいたして、出家してから、かえって、より立派になったようでございます。と、申す。
君は、して、その娘は、と、問い掛ける。



供人「けしうはあらず、かたち心ばせなど侍るなり。代々の国のつかさなど、用意ことにして、さる心ばへ見すなれど、さらにうけひかず。「我が身のかくたづらに沈めるだらあるを、この人ひとりにこそあれ、思ふさま異なり。もし我におくれて、その心ざし遂げず、この思ひおきつる宿世たがはば、海に入りね」と、常に遺言し侍るなる」と聞ゆれば、君もをかしと聞き給ふ。人々、「海竜王の后になるべきいつきむすめななり。心だかさ苦しや」とて笑ふ。



供人は、器量も、気立ても、悪くないようです。
代々の、国守などが、格別の心遣いをして、求婚の意志をもたらすのですが、入道は、全然、承知しません。
自分が、このように、受領などに、零落したのさえ、残念なのに、子供は、娘一人だけ。特に思うところがある。もし、わしに、死に遅れて、望みが果たせないならば、われの考えていた運が外れたら、海に入って死ね、と、いつも、遺言しているそうです。と、申し上げる。
君は、面白い話と、聞くのである。
供人たちは、海の竜王の后にでもなる、箱入り娘なのだろうう。
気位の高いこと、恐れ入ると、笑うのである。



かく言ふは播磨の守の子の、蔵人より今年かうぶり得たるなりけり。供人「いと好きたる者になれば、かの入道の遺言破りつべき心はあらむかし。さてたたずみ寄るならむ」と言ひあへり。供人「いで、さ言ふとも、田舎びたらむ」と言ひあへり。


そのように、言うのは、今の播磨の守の子であり、蔵人から、今年、五位下に叙せられた者である。
供人は、大変な道楽者であるから、その入道の遺言を、破ってしまう、気はあるのだろう。
それで、その辺を、うろつくのだろう。
と、言い合う。



供人「いで、さ言ふとも、田舎びたらむ。幼くよりさる所に生ひいでて、古めいたる親のみに従ひたらむは」「母こそゆえあるべけれ。よき若人、わらはなど、都のやむごとなき所々より、類にふれて尋ねとりて、まばゆくこそもてなすなれ。なさけなき人なりてゆかば、さて心安くてしも、え置きたらじをや」など言ふもあり。



供人は、そんなことを、言っても、娘は、田舎じみでいるのだろう。小さな時から、そんな所に育って、古臭い親に、育てられたんだから。
母親の方は、由緒ある人らしい。相当な、女房や、女の童など、都の、邸宅からかき集めて連れ出したという。眩しいほどに、飾りたてているようだ。
国守に、酷い者がなって、赴任したら、そんなに、いい気になって、家には、置いておけないだろう。
などと、言い合う。


なさけなき人なりて
これは、娘が、田舎ものになってしまうとか、母親が、都の生活を、忘れてしまうという、意味にある。
情け無き人、とは、趣の無い人。風情の無い人と、考えてもいい。

当時の噂話である。
今の時代と、変わらない。



君「何心ありて、海の底まで深う思ひ入るらむ。底のみるめもものむつかしう」など宣ひて、ただならずおぼしたり。かやうにても、なべてならず、もてひがみたる事好み給ふ御心なれば、御耳とどまらむをや、と見奉る。


君は、どんなつもりで、海に飛び込めだのと、思いつめたのだろうか。
大袈裟すぎて、人は、なんと聞いたのか、と仰る。
ただならずおぼしたり
心が動くのである。興味が、湧いたのである。
このような、話でも、意外な事が好きな性質ゆえに、お耳に、止まるのである。と、供人たちは、想像する。

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神仏は妄想である 162

中国仏教では、多くの偽仏典が、書かれたことを、以前書いた。
それは、日本でも行われる。

勿論、大乗経典自体、偽の仏典である。
偽というのは、創作という意味である。
インドからの、仏典に、漢訳した者の、余計な言葉が、継ぎ足されている、経典もある。

もし、釈迦仏陀の言葉の、事実を知りたければ、初期の経典から、探ることである。
言い伝えられた言葉を、かろうじて、残すのである。
そこから、探ることである。

これが、唯一の仏陀の真実の教えであるという、経典主義は、単なる、独断である。更に、その解釈などは、欄外である。
解釈の方を、重んじているのが、大乗仏教である。

仏陀は、因果応報、自業自得を説いたのであり、すべのことは、個人に帰すという、考え方である。
大きな舟に乗せて、衆生を、彼岸に運ぶなどという、教えは、魔境というしかない。

ただし、それを理想的に、考えるのが、お目出度い、日本の仏教愛好家である。

土台、誰もが、仏になるなどいう、詭弁を信じるという、愚行である。
皆の心に、仏が住むとか、宿るという考え方は、人を騙す手である。
そのような、生ぬるい、信仰というものを、ことのほか好む、日本仏教愛好家である。

親鸞は、愚かにも、父母のために、念仏することはないと、言う。
それは、自分が救われれば、当然、父母を救うというのである。
これが、一般的、信仰の有様である。

人は、人を救うことなど、出来ないとは、考えない。
私は私であり、他ではないのである。

仏陀は、明確に、言う。
我は、我のみである。他は、他のみである。
要するに、個人のことは、個人に帰結する。

救いという観念自体も、どうかと思うが、自分を救うのは、自分である。

仏陀最後の言葉として、己を頼み、真理の法を明かりにせよと言うのである。

もっと、平たく言うと、自分でしか、自分は、救えませんということだ。

だから、仏陀は、生活指導を行った。
心のあり様を、見つめる行為を、指導した。
後は、それぞれの問題である。

人の命に、関与できないと、同じように、人の救いなるものにも、関与できない。
親兄弟でも、である。

さて、日本の中世という、時代は、実に、驚くべき精神構造であった。
中世は、他の時代と、比べて、あまりにも、多面的なのである。
それは、事実もともかく、精神構造が、多面的だということである。

仏教にみに、絞ってみることにする。
鎌倉仏教と、本覚思想である。
本覚思想とは、あらゆる存在が、そのままで、悟りの姿を示しているという、考え方である。
それは、比叡山を中心とした、旧仏教界から、はじまった。
平安後期からの、思潮である。

そして、中世に、現れた、日本書紀の注釈書の出現は、中世神話の、形成である。
更に、鎌倉、南北朝時代にかかる、伊勢を中心とした、神道思想である。
加えて、圧倒的に影響を与えた、密教である。

中世の精神は、実に、混沌としたものである。
それを、一つ一つ、解すとなると、膨大な、原稿を書かなければならない。

中世全体の大きな課題は、乱世の生死の激しさにさらされて、人間とは何か、罪とは何かと改めて根本的な問い直さなければならないところにあったが・・・この人間と罪についての問題意識の関連である。
分銅淳作 亀井勝一郎 日本人の精神史 あとがきより

これを、読むと、最初から、人間とは何か、罪とはなにかを、問い掛けていたかのように、思われるが、それらは、仏教によるものである。

仏教思想が、日本に根付くための、決断の時代でも、あったといえる。

確かに、それは、いずれ通るべき道である。
ただ、仏教にばかり、言えるものではない。

人間と、社会が、成長するために、通らなければならない道だったのが、中世である。
そして、中世から、近世に変革する時も、大きな決断を要する。

中世は、まず、精神の解釈の必要性に、迫られた時期である。
平安からの、たゆたう、ものから、明確にしなければならないもの。
それを、仏の教えに当てた。
それはそれで、評価する。

ただし、それは、その時代性というものであり、それが、そののまま、現代に通じるかといえば、違う。
現代は、現代の時代性により、思索し、思考しなければならない。
中世の、精神を深めることから、それを、為すという考え方も出来るが、別の方法もあるということ。

これ以外に無いと、判定すると、誤るのである。

未だに、中世を、そのままに、選択仏教のように、何かを、選択するという、考え方を持っては、先に進まない。

現代でも、特殊能力によって、私は、知る者である、とか、私は、悟った者であるなどと、言う者が、真理の法を説くというが、真理というのは、その人の真理である。

真理は、一つといいたい、気持ちは、解る。
一つだから、真理というのだという、偏狭な考えに捕らわれている者も、多数いる。

しかし、この、グローバル化した、現代の状況を見渡せば、真理というものが、一つではないということが、解るものである。

しかし、どうしても、真理は、一つという者は、しょうがない、セクトのようになるしかない。または、新宗教である。

それならば、理解する。
しかし、それが、すべてだという時、互いの会話が成り立たなくなり、停止する。そして、何ら、関係は進展しない。

大学を中退せざるを得なかった人がいる。
いじめ、である。
そのセミナーに参加していた者が、その人を省いて、すべて、ある宗教の折伏に遭い、会員になった。
彼のみ、会員になることを、拒んだ。
すると、いじめ、である。

これは、象徴的な出来事である。
これが、唯一と、信じる者によって、世界は、混乱する。

そして、今現在の世界も、それで、混乱する。

イスラムの地に、キリスト教が入ると、それは、混乱の始まりになる。
共に、唯一と信じるからである。

実に、法華経からは、多くの集いや、団体が生まれた。そして、未だに、生まれ続けている。
それを、信奉する人、それだけが、正しいと思い込む。
一人の信仰で、済ませるならば、問題ないが、法華経を奉ずる者、それを、人に説くのである。
信じきると、騙される。
騙されたまま、人に教えを説くのである。

それらが言うことは、正しい教えのみに、正しい知恵というものが、与えられると、言う。それの正さというものの、判定は、誰がするのか。何を持って、正しいとするのか。それは、単に信じるという、心的状態のみである。

実に、浅はかである。

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2008年10月04日

神仏は妄想である 163

日蓮は、多くの著作、書簡を残している。
遺文の数を、言えば、日蓮は、中世の仏教者では、群を抜いている。

青年期から、晩年期まで、途切れることなくある。
しかし、その中には、日蓮のものではない、偽物が、かなり多くある。
つまり、日蓮の名を語り、書いたのである。

はっきりと、偽書というものと、真偽が実に曖昧なものも多い。
三大秘法抄のように、日蓮宗や、研究家によって、論争が続いているものもある。

日蓮に関する、大量の遺文は、本覚思想が背景にあったといわれる。
本覚思想は、平安期半ばから、室町期なかけて、比叡山を中心にした、独自の思潮である。
それは、天台宗で、展開された思想であり、天台本覚という場合もある。

本覚思想は、万人の成仏の可能性を強調する、大乗仏教の、人間の到達する、理想は仏であり、さらに、仏とは、衆生を救済するという、思想である。

人の中には、仏の種があり、それを、全面開花させることであるという。
本覚思想とは、仏を最終的な到達地点とするのではなく、仏と、あるがままの人間を、初めから一体化して、捉えるものである。

人間が、そのまま、仏であるという、思想であり、それは、仏として、自己の本性を自覚するために、心を仔細に観察するという、観心、かんしん、というものを、重く見た。

それは、学問の知識や、教義ではなく、内的な体験を重んじるということになり、更に、信仰の核心は、文字化されない。故に、師から弟子へと、密かに、口伝、口決されることだと、された。

要するに、禅化である。

これが、日蓮遺文に、大きく影響を与えたと、いわれる。
真偽が、はっきりしない、遺文ほど、口伝尊重の色合いが、強いのである。
そして、そこには、本覚思想を主流とした、論調が流れている。

日蓮の、研究家たちは、文証と、理証を重んじ、膨大な経典を引用しつつ、整然と論を進める、日蓮の思想は、主観と、恣意による本覚思想とは、立場を異にするものだと、判断される。
それを、日蓮の文献主義と、本覚思想の主観主義と、分ける。

それは、日蓮に限らず、親鸞も、道元も、文献を持って、その思想を説いた。

更に、日蓮は、現証というものを、置いた。
仏法を判断するには、文証と、理証と、現証ということだ。

だが、ここで、日蓮を、検証すれば、果たして、文献主義であったのかという、疑問が、湧く。

それは、専修唱題である。
口に、法華経の題目を唱えることで、救いに至るという思想である。

法華経は、二十八品によってなり、前半部分と、後半部分に分けられて、後半部分を、本門と呼ぶ。
前半の、内容は、釈迦の悟りが、語られるという、他の経典と同じ調子である。
しかし、後半になると、様相が一変する。

従地涌出品では、釈迦の説法を聞くために、霊鷲山、りょうじゅうせんに、集った、弥勒をはじめとする、多くの菩薩たちは、仏滅後の世界で、法華経を護持して、布教する許可を求めた。
しかし、釈迦は、それを、許さなかった。
その時、地が裂けて、下から、四人の大菩薩に率いられた、無数の菩薩が現れた。

そして、説教の場が、虚空世界に移動した。
四人の大菩薩は、釈迦よりも、高齢で、立派に見えた。
釈迦は、それらの、地涌 じゆ、の、菩薩を、かつての、弟子たちであると、言う。

寿量品で、それが、説明される。
われ成仏してよりこのかた、またこれに過ぎたること、百千万億なゆたあそうぎ劫なり。これよりこのかた、われは常にこの娑婆世界にありて、法を説きて教化し、また、余処の百千万億なゆたあそあぎ劫の国においても、衆生を導き利せり。

つまり、釈迦は、久遠の昔から、成仏していて、それ以後、幾たびも生まれ、教化してきたというのである。
御伽噺も、ここまでくれば、立派なものである。

以前書いた、阿弥陀仏のことを、思い出して欲しい。
念仏門のところで、同じ年月の言葉が、出ている。

久遠実成 くおんじつじょう の仏という言葉が、出る。
ファンタジーである。

私の死後、世は乱れ、濁悪 じょあくの時代が到来する。
そうした、苦難の世には、遠い過去より、教化を受けてきた、地涌の菩薩だけが、その困難な任務に耐えられるというのである。

私が、法華経を悪魔の経典と、呼ぶ理由の一つであるのが、これである。
地涌の菩薩とは、経典作者の、誇大妄想であり、甚だしく、釈迦仏陀の、仏法を、歪めた。

更に、日蓮は、久遠実成の、釈迦を、一神教の神のように、絶対的存在として、掲げたのである。
更に、妄想逞しく、虚空世界で、釈迦が、地涌の菩薩に、授けたのが、法華経の題目であると、解釈した。
単なる解釈だが、それは、単なる妄想である。

そして、更に、布教を委託されたのは、また地涌の菩薩とは、我のこと、我の一門のことと、信じたのである。

しかし、研究家たちは、日蓮の、経典解釈には、明らかに、無理があるという。
私は、明らかに無理ではなく、完全に誤りだという。

仏滅後に、衆生救済のために、題目など、残したという証拠は、どこにも、見出せないのである。

それを、日蓮も気づいてか、魔境ともいえる、解釈の奥の手を、考えた。
それは、法華経の表には、出ない文である。
文底に、沈めたという。

呆れて、モノが言えない。

釈迦が、入寂して、二千年を経て、末法になり、法華経の弘通を、目指す、日蓮だげが、他に先駆けて、文底にある、題目を、拾い出すことが、出来たという。
勝手な解釈、勝手な妄想である。

ただし、それが、日蓮の唯一の、オリジナルである。
それも、念仏に刺激されてのことである。

法華経も、末法思想も、皆々、作られたものである。

だがもっとも根本の次元において、日蓮の立場は著しく主観的である。論理を超えた次元に自己の正当性の根拠を置く点において、日蓮の立場は本覚思想と意外に近いところにあった。そしてそこには、日蓮に仮託して遺文を偽作していた人々とも共通するものがあったのではなかろうか。
佐藤弘夫

全くの、主観であり、それ以外の何物でもない。
どこの、教祖にも見られる、自己申請であるから、話にならない。

更に、もう一つ、付け加えて言えば、物を書くという行為は、妄執である。
彼らの言葉で言えば、救われていない証拠である。
もし、救われているのであれば、物など書くことは無い。
行為にしか、それを伝える術は無いと知るのである。

天地が過ぎ去っても、私の言葉は、過ぎ去ることがない、とは、イエスキリストの言葉である。が、それは、イエスではなく、セクトの信仰する者たちの、言葉である。
あたかも、であるが、如くの言葉である。
人は、言葉というものに、騙されるのである。

自己洗脳という現場が、宗教の現場である。

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もののあわれ284

供人「暮れかかりぬれど、おこらせ給はずなりぬるにこそはあめれ。はや帰らせ給ひなむ」とあるを、大徳「御もののけなど加はれるさまにおはしましけるを、こよひはなほ静かに加持などまいりて、出でさせ給へ」と申す。「さもある事」と皆人申す。君もかかる旅寝もならひ給はねば、さすがにをかしくて、君「さらば暁に」と宣ふ。



供人が、暮れかかりました。おおこりにならなくなったようでございます。それでは、お戻りいたしましょうと、言う。
上人は、御物の怪などが、加わっております。今晩は、ここで、静かに加持などされて、明日、お出まし遊ばしませと、言う。
供人も、もっともなことと、言う。
君は、こうした旅寝の経験が無く、何と言っても、興味をそそられて、では、明日の夜明けに、と、仰せになる。

おこらせ 給はずなりぬる
気分転換が、出来た。
具合がよくなったようだ。

暮れかかりましたし、ご気分も、良くなられたようですので、お戻りいたしましょう。
ところが、大徳、僧は、物の怪なども、関わっているようですし、今晩は、静かに、祈られて、云々という。

作者も、源氏という地位と、立場の人間に対する、それぞれの人の心模様を、描いているが、それは、当時の、上に対する態度である。


しかし、私は、紫式部の、描く、風景から、それを、見ようとしている。
日本人の心にあるもの、である。
貴族階級のみに、あるものではない。

源氏に対して、作者も、常に敬語を用いている。
そのような、立場のお方という、設定であるから、当然、敬語という書き方をする。しかし、それは、何も、源氏のみに、いえるのではない。
一般庶民も、その奥床しさ、心の動きに、もののあわれ、というものを、表現していたのである。

身分の低い者を、作者も、分けて書くが、それは、当時の身分の有り様を知るには、参考になる。
しかし、それは、参考になる程度のことである。

貴族社会に、おける、もののあわれ、ならば、源氏物語を、書く必要は無い。
万葉から、流れている、心情と、心象風景が、源氏物語の根底にあるとみて、私は、源氏を、探っているのである。



日もいと永きに、つれづれなれば、夕暮のいたう霞みたるに紛れて、かの小芝垣のもとに立ち出で給ふ。人々は帰し給ひて、惟光ばかり御供にて、のぞき給へば、ただこの西面にしも、持仏すえ奉りて、行ふ尼なりけり。簾少し上げて、花奉るめり。中の柱に寄りいて、脇息のうへに経を置きて、いとなやましげに読み居たる尼君、ただ人と見えず、四十余ばかりにて、いと白うあてに、痩せたれど、つらつきふくらかに、まみのほど、髪の美しげにそがれたる末も、なかなか長きよりもこよなう今めかしき物かな、とあはれに見給ふ。




日も永く、する事もないので、夕方、深く霞みがかかっているのに、紛れて、あの、小柴垣の家に、お出かけなさる。
供人たちは、帰し、惟光だけを、連れて、覗かれると、先ほど見たのは、西向きの座敷に、仏を据えて、勤行する尼だったのだ。
御簾を、少し巻き上げて、花を供えるらしい。
中柱に、寄りかかって、脇息の上に経を置き、ひどく大儀そうに、読経している。
それは、並の人では、なさそうである。
四十過ぎで、色が白く、上品で、痩せてはいるが、顔立ちは、ふっくらして、目元、髪が、見た目にも、綺麗に切り揃えている。その、端も、長いより、かえって、親しみのあるものだと、感心して、御覧になる。

当時の尼は、髪を剃らず、肩の辺りで、切り揃えていた。
それを、表現し
あはれに 見給ふ
心を、動かされたのである。

何につけ、心を、動かされることを、あはれ、という。
形容詞が、動詞や名詞にまで、高まる。
それは、すべて、前後の言葉による。



清げなるおとな二人ばかり、さては童女ぞ出で入り遊ぶ。中に、十ばかりにやあらむと見えて、白き衣、山吹などのなれたる着て、走り来る女ご、あまた見えつる子供に似るべうもあらず、いみじく生ひ先見えて、美しげなるかたちなり。髪は、扇を広げたるやうに、ゆらゆらとして、顔はいと赤くすりなして立てり。



綺麗な、女房が二人ほどと、そして、女の童が出たり入ったりして、遊ぶ。
その中に、十くらいの、白い下着に、山吹の重ねの、着慣らしたものを着て、走ってきた、女の子は、大勢の子供たちの中でも、比べ物にならないほどで、今から、成長した後の姿が、思いやられる、可愛らしい器量である。
髪は扇を広げたような、末広がりで、豊かに、ふさふさしていて、顔は泣いて、真っ赤にしている。

山吹などの なれたる着て
山吹色の着物で、袷の着物である。
袷とは、裏地がついている、秋冬物の、着物である。

いみじく 生ひ先見えて
おいさきみえて
成長した後の姿が、想像出来るのである。

それは、他の子供とは、明らかに違う容姿である。

この、女の子が、藤壺に似ているのである。
実は、藤壺の兄の、蛍兵部卿 ほたるひょうぶきょう の、娘である。
母親を早く亡くし、祖母である尼に、引き取られていた。
源氏は、まだ、そのことを、知らない。

物語は、こうして、面白く展開する。

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2008年10月05日

もののあわれ285

尼君「何事ぞや、童女と腹立ち給へるか」とて、尼君の見上げたるに、すこし覚えたる所あれば、子なめりと見給ふ。女児「雀の子をいぬきが逃がしつる。ふせごのうちに籠めたりつるものを」とて、いと口惜しと思へり。此の居たるおとな「例の、心なしの、かかるわざをして、さいなまるるこそ、いと心づきなけれ。いづかたへか罷りぬる。いとをかしうやうやうなりつるものを。烏などこそ見つくれ」とて立ちて行く。髪ゆるやかにいと長く、めやすき人なめり。少納言の乳母とぞ人言ふめるは、この子の後見なるべし。



尼君は、どうしたのですか。
他の童と、喧嘩でも、しましたかと、言いつつ、尼君の、見上げた顔に、少し似たところがある。源氏は、尼の子供なのだろうと、思われる。
女子は、雀の子を、犬君が、逃がしたと、言う。籠の中に入れていたのにと、残念がるのである。
そこにいた、女房が、あの、心なしの、つまり、アホの、とか、お馬鹿なという意味で、こんなことをして、また、叱られると、困ったものだ。どこへ、行きましたか。とても、可愛くなりましたのに、烏などに見つけられては、大変ですと、言い、立って行く。
髪は、ゆったりとして、長く、器量も悪くない女である。
少納言の乳母と、皆が言うが、この子の、世話役なのだろう。



尼君「いで、あな幼なや。言ふかひなうものし給ふかな。おのがかくけふあすにおぼゆる命をば、何ともおぼしたらで、雀慕ひ給ふほどよ。罪得る事ぞと常に聞ゆるを、心憂く」とて、「こちや」と言へば、ついいたり。つらつきいとらうたげにて、眉のわたりうちけぶり、いはけなくかいやりたる額つき、かんざし、いみじううつくし。ねびゆかむさまゆかしき人かなと目とまり給ふ。さるは、限りなう心をつくし聞ゆる人に、いとよう似奉れるがまもらるるなりけり、と思ふにも、涙ぞ落つる。



尼君は、ああ、なんて幼いこと。しょうがないこと。
私が、今日、明日と、知れない身の程になっているというのに。
雀を追いかけているとは・・・
罪になりますよと、いつも、言うのに。困りますよ。と、言う。
さあ、ここへと、言うと、傍に膝をついた。
顔立ちは、とても、あどけなく、眉の辺りが、朧で、子供らしく、掻き上げた額ぎわや、髪の具合が、大変可愛らしい。
大きくなる姿を見ていたい人だと、源氏の目が止まる。
それは、実は、深い思いで思慕する、あのお方に、とてもよく、似ているので、目が離せない。
と、気づくと、涙が、こぼれるのである。

まもらるるなりけり
いつの間にか、じっと見つめているのである。

その、似ているお方とは、帝、つまり、父の后である。
それを、思い、女童を見て、涙するとは、恋とは、このように、感傷的にさせるものであると、この頃からの、心境である。

恋によって、今まで、気づかなかったものや、事に、思いを馳せるように、なる。

この、恋の心の、様々な動きから、人間は、多くの心模様を知ったと、解釈するのが、大和心である。
そして、もののあわれ、というものの、原型と、考える。



尼君、髪をかき撫でつつ、「けづる事をもうるさがり給へど、をかしの御ぐしや。いとはかなうものし給ふこそ、あはれにうしろめたけれ。かばかりになれば、いとかからぬ人もあるものを。故姫君は、十ばかりにて殿におくれ給ひしほど、いみじう物は思ひ知り給へりしぞかし。唯今おのれ見棄て奉らば、いかに世におはせむとすらむ」とて、いみじく泣くを見給ふも、すずろに悲し。幼なごごちにも、さすがにうちまもりて、伏目になりてうつぶしたるに、こぼれかかりたる髪つやつやとめでたう見ゆ。



尼君は、女の子の髪を、手で撫でながら、言う。
櫛を入れるのを、嫌がるけれど、いい、御髪だこと。他愛無くおいでなのが、気がかりで、たまりませんよ。
これくらいになれば、こんなではない人もいるのです。
亡くなった姫様は、十ばかりで、殿様に、先立たれましたが、その時分でも、ちゃんと、お解りになりましたよ。
今日にも、私が、見捨てたら、どうして、暮らすというのでしょう。と、言いつつ、泣く。
それを見て、源氏も、悲しい気持ちになるのである。
子供心にも、さすがに、悲しい気持ちになり、尼を、じっと、見つめ、伏目になって、うつむくと、顔にかかった、髪が、つやつやとして、見事と、思えるのである。



いとはかなうものし給ふこそ あはれにうしろめたけれ
現代文に、訳すのが、ためらわれる、箇所である。

いと はかなうものし 給ふこそ
あはれに うしろめたけれ
はかないことと、気づかずにいる。それは、大人の世界では、頼りなげに見えるのである。
それが、あはれに、気がかりなのである。

子供が、大人になる、過程で、一つ一つと、何かを棄ててゆく。
成長とは、子供の世界を、捨ててゆく行為なのである。

だが、それは、捨てているようで、しっかりと、心の中に、仕舞っておくということも、出来る。
子供心は、潜在意識に、隠されるのである。

あはれ、とは、子供心への、憧憬の名残とも、いえる。
あの、無心に生きる心への、憧れである。
すべてに、感動した、あの幼い心、こそ、もののあわれ、というものの、原風景であったと、気づくのである。


源氏物語が、すでに、すべての小説、文学を書き込んでしまったという、考え方が出来る。故に、作家は、何度か、源氏物語に、戻るという。
勿論、作家が皆々、源氏物語を、求めるという訳ではないが、ここには、すべてが、書き尽くされたと、感じ取る力が、作家には、必要である。
文学は、永遠であるが、そのテーマは、繰り返されて、時代に合わせて、語られる。
しかし、人間がいる限り、人間のテーマは、変わらない。
変わりようがない。ただ、変容するだけである。

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