2008年09月22日

ベトナムへ 22

ホーチミン・サイゴンにて詠める歌


サイゴンの 川辺に祈る 追悼の 波立ち騒ぐ 飛沫吹き上げ

流れ行く サイゴン川に 追悼の 流す涙に 風渡るかな

サイゴンの 風渡るらし 川沿いの 船の行き来を 和やかに見る

渡し舟 行き交う波の 飛沫には 流れの速さ 悲しくもあり


雷の とどろき渡る サイゴンの 川辺の空が 明け開けゆく


ベトナムと 風の有様 変われども 人の生き様 変わることなし

歴史をば 知るということ その国の 人の心を 知ることなりと


今日食べる ことのみありて 生きること 逞しき人 溢れる如く

生き抜いて とにかく生きて 生き抜いて この時の世を 味わいつくす


歴史をば 生きるは我と 気づくとき 目の前のもの 光輝く

旅をする ことを旅する 旅もあり 屋台のフォーの 淡き味なり

人により 人は心を 取り戻す 善き人もそれ 悪しき人も


故郷を 異国の町で 思うなり それ生きるに 変わることなし

ホーチミン 立ち去りがたく 後ろ髪 曳かれる如く 後振り返らず

平和をば 行進した人 ベトナムの 今を知ること なくて安穏


追悼の 慰霊の所作の 床しさを もののあわれに 我は 見るなり



posted by 天山 at 12:46| H20.09 ベトナムへ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

性について 52

女性解放に傾倒しだしたころ、わたしはロマンチックな恋人そのものでした。つまり「すべての女性」を理想化していたのです。フェミニストは選ばれし者であり、世界を窮地から救いだしてくれると信じ込んでいました。新しいエロチックなイメージが開けるまで、わたしたちは軍隊みたいに「前線」「敵」「性差別の戦争に打ち勝つ」などと口走っていました。楽しみなんかどこにもありゃしない!

やがてフェミニストが完璧ではないことに気づきました。そして人生が公平でないことにも。性革命はぱっと花咲き、ぱっと散ってしまいました。連綿として尽きないのはひとりひとりの進化だけ。
ドットソン

フェミニストが、完璧ではないと、気づいた。
当たり前のことだが、彼女は、行動することによって、それに気づいた。

頭で、捏ね繰り回した思想ではないということだ。

女性解放とは、何かという問題に、云々すると、性についてという話が、とてつもなく、広く大きくなるので、省略する。
ただ、一時期、日本にても、女性解放と、叫ぶ女性達がいた。

それは、一見、奇妙な感覚を、人々に与えたと、思われる。
そんなことは、当たり前のことだからだ。しかし、彼女達は、男女平等を、掲げて、何事か、言うのである。

区別を、差別に、置き換えてしまった感がある。
確かに、至るところに、女性蔑視の要素があった。
男達の、優位性が、男達を、男たらしめていた要素もある。しかし、今や、男の優位性などという者は、いない。
能力のある者は、男も女も無い。

そういう意味では、男女平等になったと、思われる。
ただし、男と、女の性差というものを、無視は、出来ない。

今では、公務員や、大企業などでは、男も育児休暇を取ることが、出来るまでになった。それも、女性解放の一つの、手柄であろう。

さらに、らしさ、の問題も、セクシャルの混雑化、つまり、ジェンダーの理解により、無くなりつつある。勿論、まだまだ、それは、解放されてはいない。

女らしい少年が、いじめに遭い、登校拒否になり、通信教育にて、学んでいるという現実を私は、見た。
どうしたらいいのか。
公的機関が、ジェンダーの相談を行うようになった。

このように、らしさ、の、問題も、進化している。

女の子でも、男らしいのである。
生まれ持っての、性ではない、性差というものもある。

そして、性同一性障害という、認定である。
更に、手術によって、それを、解決するという、方法も出た。

これらは、すべて進化である。

ドットソンは、女性解放の、フェミニスト運動ではなく、個々人の、感性の解放に気づいたのである。

自分の人生をエロチックなものにすれば、ほかの人の励ましになります。ポルノに反対するかわりに、性表現、新しいエロチックなイメージに賛成する女性になりましょう。セックスや喜びを進んで芸術の域に高めましょう。新しい個人の解放を模索しながら、ラディカルフェミニズムをエロチックフェミニズムへと転換させようではありませんか。
ドットソン

セックス、オナニズムを、世間に公表して、それを、堂々と問うという、姿勢は、アメリカ人ならではのことなのか。
日本では、このうような女性は、世の中に出にくいし、また、出たとしても、無視される要素が強い。

お茶の間のテレビに、そのような女性が、出ることは、躊躇われるだろう。

性教育ということに関しても、意見が分かれて、侃々諤々なのである。
露骨過ぎる、性教育の問題もあった。
性というものを、子供達に、どのように、教えるのかは、まだまだ、未開である。

だが、子供達は、いや、田舎の子供達は、知っている。
自然の中にある、性の有様である。
昆虫達の、交尾の様子に、それを見たり、花と蝶の関係から、それを知る機会を得る。

トンボや蝶、雀や犬の交尾から、私は、それを知った。

更に、犬を飼っていたことにより、犬の交尾から、犬の子供たちが、生まれる等々。
誰に教えられずとも、それを、知ることになった。

改めて、セックスなどという、お勉強は、必要ではなかった。

更に、昔は、私の子供の頃は、年長の子供が、それを、教えた。
友人で、マスターベーションを、兄から教えられた子も、沢山いたのである。
兄でなくても、従兄弟たちから。
人の関わりが、非常に密だったこともある。

さて、ドットソンは、極めて個人的に、マスターベーションによる、瞑想法に気づいてゆく。
世の中に、広げるのではなく、自分に深く入り込んでゆくのである。
勿論、彼女は、それをも、公開した。

我が身を、晒して、科学的に、それを、実証するという、試み。
科学的に、実証されることほど、説得力のあるものはない。
今や、科学が、すべての先端を行く。
ただし、それがまた、間違いの元でもあるのだが、いずれ、別の機会に書く。

彼女の活動に、多くの人が、共感、感謝した。
一人の、手紙を、紹介する。

ベティーへ
あなたは精神衛生のセラピーに多大なる貢献をしてくれました。去年の夏、わたしはメキシコから来た中年夫婦の治療にあたりました。夫のほうは重い病気を患ったせいで性欲が減退し、いわばインポテンツの状態でした。妻のほうはまだ精力旺盛なのに、外で楽しみを得ることはできない。ふたりとも信仰心が厚く、おたがいに愛し合っていたから。しかも、どちらも性欲を捨て去るつもりはない。わたしは一緒にマスターベーションをする方法を紹介し、バイブレーターの使い方を教えました。わたしにとっては胸のすくような経験でした。ふたりの人間が絶望の淵から這い出て、また笑ったり遊んだりするようになるとは。「カント肯定論者」は男女の関係に福音をもたらします。よくぞ社会のためになることをしてくれました、どうもありがとう。


posted by 天山 at 00:00| 性について2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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