2008年09月21日

ベトナムへ 21

簡単に、日本と、ベトナムの関係を、俯瞰する。

1992年のODA再開がなされてから、十数年間に渡る、日本のODAによる、工事の全容には、凄いものがある。

ハノイと、ハイフォンを結ぶ、国道の整備、橋梁の架設、多くの国道の整備がされた。
南部と、北部を分ける、ダナンと、フエの中間にある、ハイヴァン峠のトンネル工事によって、90分もかかった、道が、20分で、通過するようになった。

ハノイのノイバイ空港の現代化、ホーチミンのタンソニャット国際空港の新設も、日本のODAである。

更に、多くの湾岸施設の改修や、下水道の工事、僻地の、小学校建設、などなど、甚だしいほどの、協力である。

2006年には、ズン首相が、来日し、ハノイと、ホーチミンを結ぶ南北高速鉄道と、南北縦貫高速道路、また、ITを中心とした、ホアラック・ハイテクパークの建設を、主要な、三つの、ODA案件として、日本政府に要請した。

兎に角、日本が、ベトナムに、大変な支援をしているということ、である。
これを、両国の国民が、知るべきである。

共に、日本企業の進出である。
トヨタ、ホンダ、キャノンなど、日本を代表する多国籍企業の多くが、ベトナムに工場を持つ。
中小企業の数も多くなり、開発中を含めて、150以上あると、いわれる。

ベトナム政府は、2010年までに、一人当たりの、GDPを、1100ドル程度にすることを、目標としている。

ベトナムが、市場として、次第に成長していることも、重要な要素である。
ホーチミンには、中間層といえる、階層も、出てきている。

二年前の、06年、日本からの、直接投資は、許可ベースで、約14億ドルと、過去最高になった。

中でも、IT産業である。
データ処理、ソフト開発などを、下請けに出すというものが、急増である。

ベトナムに出掛ける、日本人観光客の数は、駐ホーチミン日本総領事館によれば、昨年の、07年は、年間、41万8000人になったという。

更に、私が注目したのは、高齢者の、長期滞在である。
老後の生活を、ベトナムで、過ごすという、高齢者が増えているといわれる。

ベトナムでは、相互扶助の精神が、残り、温かい人情がある。
そして、年長者に対する、尊敬である。
つまり、ベトナム人の、中に、分け入ってゆくと、本当のベトナム人の気質が、現れるということである。

笑わないベトナム人は、実は、深い付き合いで、人情味溢れる付き合いに変容してゆくのである。

それが、今回の私の体験した、成果でもある。
それが、縫ぐるみが、きっかけになったという・・・

そして、衣服の支援である。
まさか、ホーチミン市内で、差し上げることになるとは、予想していなかったのである。

車をチャーターして、ホーチミンから出る計画だった。

これは、個人活動であるから、本当に、ささやかな行為である。
大量の衣類を持っては、行けないが、個人レベルでの、付き合いが出来る。そして、本当のベトナム人の持つ、人情に触れられる。

これからの、抱負を言えば、ホーチミンにて、ベトナムの人との付き合いを、深めて、ベトナム中部の、農村、そして、少数部族の人々に、支援したいと、思う。

日本のボラティア団体、個人的活動と、多くの日本人が、ベトナムにて、奉仕活動をしている。
それは、また、目覚しいものがある。

国際社会の、グローバル化というものを、しっかりと、理解していると、国境を超える。
市民レベルでは、国境を超えているのである。

うまく行けば、市民レベルで、平和を築くことが、出来るはずである。
誇大妄想の、全体主義指導者が、現れなければ。

一番、最初に、提案したことであるが、何故、日本人が、他国で、ボランティア活動をするのか。
日本でも、貧しい人、助けを必要としている人がいる。
当然の話である。

しかし、グローバル化を、理解すれば、国境は、関係ない。
ベトナムの若者が、日本の高齢者介護に、出て来ることもある。

思考も、グローバル化するべきなのである。

国内で、ボランティアする人も、海外で、ボランティアする人も、その、性格と、好みである。
それを、誰も裁けない。
ましてや、何もしない、出来ない者が、それを、批判し、更に、非難することなど、出来ない。

やりたい場所で、やれることを、する。
世界は、一つであることを、その行為に、託す。
素晴らしいことである。

それが、一つの主義や、主張、更に、教義に基づくものではなく、知性と感性と、理性によって、行う。
実に、新しい世紀の、行動である。

人類を救うために、云々という、お説に、惑わされないことである。

特に、日本人の行動は、宗教の布教でもなく、主義の公布でもない。
純粋に、人間としての、行動である。
純粋な人間の行動というのは、これでなければ、いけないという、観念を作らない。

柔軟に対処する。
臨機応変な対応が出来る。

新興宗教の、言い分がある。
本当の救いは、正しい教えによって、人を導くことであると。
それは、物資支援よりも、大切なことであると。
精神の救い、心の救いのみが、正しいというのである。

私は言う。
勝手な、精神であり、勝手な心というものを、作り上げて、それを、救うという、誇大妄想は、救いようがない。

大昔に、日本に仏教を伝えた人々がいる。
命懸けで、海を渡った。それは、時代性である。
その時代に必要とされた。

大昔の、観念から抜け出ない者が、教えを説くのである。

仏教の国に、キリスト教を布教するという、お馬鹿な真似は、止めるがいい。
更に、日本の新興宗教の輩、多数。
教線を広げることが、組織の、発展を促す。商売ではないのである。
それぞれの、土地に、合ったもの、伝統と、伝承がある。
それを、破壊することなく、知性と、理性に従い、行為行動すること。

それ以下に、新しい時代、新しい世紀に、生きるべき道は無い。

人類を救うために、という、言葉は、戯言である。
一人も、救えない者が、何をかいわんやである。

私は、一人の人間も、救うことが出来ないという、真実に立って、行為する。

真理の教えというものは、無い。
あれば、妄想である。
それを、信じると、ほぼ、思考が停止する。
別の人の、人生となる。
書き足りないが、終わることにする。


posted by 天山 at 12:45| H20.09 ベトナムへ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

性について 51

子供時代と結婚時代のマスターベーションは、とにもかくにも「見つからないこと」。わたしは物音を立てずにさっさとイケるよう、自分を訓練しました。恋人や夫と一緒のときは、荒い息づかいを避け、ほとんど体を動かさず、けっして汗をかかず。「女らしいオーガズム」のために、いつも自分を抑えたのです。セックスをきまり悪く思っていたから。
ドットソン

こういう、女性は、多い。
私も、多く聞いた。
恋人とのセックスの後、恋人が、寝息を立てると、自らマスターベーションで、イクというのである。
つまり、セックスでは、得れらないのだ。
また、それを、相手が知らないともいえる。
女の演技に、男は、騙される。

さて、ドットソンのボディーセックス・ワークショップに参加した、女性達の報告である。

48歳にして初めてオーガズムに達したという、女性は、
ある晩、新しいバイブレーターをクリトリスにあてること二時間、ベッドから放り出されそうなほど激しいオーガズムにいたったのです。バイブレーションこそ彼女の体が求めていた刺激でした。彼女の夫も二時間がんばれるほどスタミナはありません。ふたりは新しいセックスライフに胸はずむ思い。性行為は前戯となり、夫がイッたあと、キスしたり抱き合ったしながら、彼女はバイブレーターでイク。かくしてふたりは性の蜜月にひたりました。

次は、結婚して、10年、子供は一人、オーガズムはゼロの女性、
絶望的な気分だというのです。最後の望みをバイブレーターに託し、夜な夜な性器にあてがいました。今度こそ絶対に快感を体験してやるんだとばかりに。最初のうちはひりひりし、快感どころか苦痛でしかありません。彼女はいらだちました。けれど、少なくとも苦痛があるということは「あそこ」にも感覚が宿っているということ。あきらめるわけにはいきません。さらに練習を重ね、バイブレーターをそっとあてるようにすると、少しずつ快感が得られるようになりました。

レズビアンの友人は30代半ばで初めてバイブレーターによってオーガズムを得ました。それから一年と経ないうちに、恋人とのオーラルセックスでもオーガズムが得られるようになりました。五年後、手によるマスターベーションを覚えたときはそれこそ大はしゃぎ。もう機械や相手に頼らなくてもいいとわかったのだから。彼女はもう自分でオーガズムをつくりだすことができるのです。

32歳になる女性は、
10年間、バイブレーターでしかオーガズムが得られませんでした。やっと結婚相手にめぐり合ったとき、セックスの際にもオーガズムを得たいと思うようになりました。まずはマスターベーションのパターンを変え、バイブレーターとクリトリスのあいだに手をいれてみることにしました。じょじょに軽い刺激にも反応できるようになりました。半年後、自分の手でイクことを覚え、ついには夫の手でクリトリスを刺激してもらいながら、セックスの最中に難なくオーガズムが得られるようになりました。

さて、そのうちに、ドットソンは、あることに、気づく。
セクシャルというものについて、その区別的差別に、気づくのである。

股のあいだの性的なレッテルにこだわるなんてばかげています。

更に、彼女の意識が、解放されたといえる。
要するに、
たんに「セクシャル」といえばいいものを、ヘテロセクシャル、バイセクシャル、ホモセクシャルなどと称するかぎり、わたしたちはいつまでも分断されたまま。自由な幸福を追い求めるためなら、どんな形の性的快楽であろうと、応援しようではありませんか。オーガズムはオーガズムでありオーガズムなのだから。

キリスト教という、世界にあって、この発言は、画期的過ぎるのである。

教会を代表する、ローマカトリックは、快楽、更に、快感というものを、禁止するのである。キリスト教原理主義なども、そうである。
つまり、夫婦のセックスも、生殖のためのものであり、快感や、快楽を感じる行為は、禁止するのである。

ここには、旧約聖書から続く、女性蔑視、いや、女性奴隷化の考え方がある。
女は、子供を生む為の道具なのである。
家畜と同じように、数えていた時期が長いのである。

女には、性の快感を、与えない。しかし、男は、どうしても、射精時の、快感がある。それで、よしとする。
甚だしい、女性奴隷化である。

イスラムでは、女性に、ブルカをかぶせて、男を、その気にさせるな、という。
決められた男だけに、体を晒せである。
ここにも、女性奴隷化がある。

しかし、アラブの性愛は、実に凄まじいものがある。
ドットソンの考え方を、すでに、超えていたのである。
イスラム以前の、アラブの性愛は、多様だった。

イスラム圏の国では、同性愛者を、死刑にするが、実際、アラブの性愛には、同性愛の快楽の華やかな歴史がある。

セックス、及び、その快楽を禁止するのは、ただ、為政者と、宗教指導者の、支配欲なのである。

仏教にも、性に対する、抑圧がある。
釈迦仏陀が、修行者たちに、女の膣に、ペニスを入れてはならないと、言明した。
そして、一般信者にも、性欲の抑制をした。

心と、魂の救いを説くという、詭弁で、体というものを、蔑ろにした罪は、甚だしく重い。
体の救いは、心と、魂の救いでもあるはずだ。
体を、厭うという、考え方は、大きな誤りである。

体と、心は、連動している。
それは、脳科学よっても、解る。
更に、それによって、禁欲、修行の激しいものは、脳内に特別な快楽物質を出すことが、解った。
抑圧によって、得られるという、快感である。
勿論、それが失敗すると、人間喪失、人格破綻に陥る。

性的快楽も、修行という、我慢の行でも、快楽物質が、脳内に出る。

性的快感でも、悟りの境地に達することが出来ると、言える。
そこで、ドットソンは、セックス、オーガズム瞑想というものに、気づくのである。

勿論、悟りとは、何かと、問われれば、解らないと、私は言う。

posted by 天山 at 00:00| 性について2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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